第4話 決断
光るモニターが暗い部屋を照らす。
時刻はまだ小学生でも寝ていない時刻九時半。
デスクの上でキーボードをカチカチといつものように鳴らした。
だがそこには、いつもとは違う雑音がそこにはあった。
「……うるさい」
「…………(カタカタカタカタカタ)」
「うるさい‼」
「うるさいのはお前だよッ‼」
「えっ……?」
突然の大声にベッドに座っていたサヤカは子犬のような声を出す。
「いや……どうして、俺がキーボードを叩くだけで注意されなきゃならんのだ!」
宅浪は座っていた椅子をひっくり返して、暗闇に向けて少し加減した怒号を放った。
我慢の限界だ。二度までは許せるが三度目は温厚で寛大な俺でも許すことはできない。
「浪人、これは私からの的確なアドバイスなのだが、幼児用遊具で遊ぶくらいなら外に出てはどうだ。選択肢も増えるだろう?」
「それはこっちの台詞だよ。なんで俺が出て行かなきゃならんのだ」
「それに浪人は三日前に出たっきり、それから外に出ていないだろう。外の空気を浴びに、一度買い物にでも行ってきたらどうだ? 夜風は涼しいはずだ」
「今週はもう菓子の補充はしないぞ」
「い、いや……私はそういうつもりで言ったわけではなく」
俺の〇イフル全部食べた口がよく言うよ。
「大体この部屋だって、お前が明るいと寝れないから灯りを消せって言ったんだろ? 今のガキはこんな時間には寝ないぞ」
「あー……浪人が怒るときはいつも全力だな」
呆れるようにそう言ったサヤカに、宅浪は火が点いたように反発する。
「全力で何が悪い? 俺だって必死に生きてんだよ」
「そうファイトポーズを取るな。効かない相手に肩肘張っても疲れるだけだろう」
「感情を爆発させた方が相手を委縮できる。それと、俺は本気だ」
ああ、分かっていたさ……分かっていて、俺はこいつを居候させているんだ。
あの時と違って、こいつは全然いい奴じゃない。
自己肯定感の高さから生まれる絶対的な自身への自信。
「では、すまない。……これで満足か?」
厳格に、けれど愛を持って育まれたからこその揺るがない矜持。
「逆にむかつくから謝るな」
サヤカはプライドが引くほど、高い。
「理解しがたいな、この愚人は」
ああ、もう一緒の空間にいるだけで癪に障る。頭が痒い。
もう一度言う。
どうして、俺がこんな目に合わなくちゃならないんだよ。
強いて言って、こいつの良いところをあげるなら、それはもう……
「しかし、浪人はこんな足元も見えない暗い部屋で、一体、何をしているというのだ」
「おい、ちょ……勝手に見るなよ!」
声が耳元に近づく前に、宅浪は慌ててパソコンの電源を落とす。
「疚しいことか?」
「ああ、そうだ! この日本の秘密を暴くための重要な資料。だから、来るな!」
「薄い布一枚で胸元を隠した女子(おなご)一人が国の秘密を暴けるとは思わないな」
「うるさいなぁ‼ もう‼」
「おわっと……どこに行くんだ?」
宅浪は振りほどくようにその場から離れると、タオルを持って部屋の扉を開けた。
「風呂。ついてくんなよ」
「それは良い判断だ。ちょうど私も、臭うな……と薄々感じていたのだ」
「そうかよ」
これで何度目の後悔だろう。一体全体……
なんで、俺はあんな決断したんだろうな……。
※ ※ ※
サヤカと初めてまともに話し、居候という交渉を持ちかけられた次の日。
俺は決断するために、ある人物の元を訪ねた。
そこは、街はずれにある外観が古風な喫茶店。
「あれっ……星石、か?」
客(俺)にお冷を運んできた喫茶店の店員は久しぶりの再会に足を止めた。
「はい、お久しぶりです。小岩先輩……いや、サークル長」
「サークル長はよせ。俺が卒業したの何年前だと思ってるんだ」
小岩は微笑みながらその呼び名を懐かしんだ。
「俺が一年のときには就活してましたもんね」
「その単語もよせ。だからこうして、いまこの店が働いてるんだろうが」
「たしか、実家が喫茶店をやってるんですよね。親孝行していていいと思うます」
「それはそうと、星石は……」
「話を戻しましょう。この後、二人で話せますか?」
「二人で、か? 来てもらったところ生憎だが、俺この後予定が……」
「蚊人のことで、お尋ねしたいことがあるんです」
宅浪がその単語を出すと、後にしようとした小岩の足がピタッと止まった。
「……発症したか? 冷やかしなら、出禁にするぞ」
俺たちがあの夏によく口にしていた、あの言葉を先輩は吐いた。
俺はゆっくりと、その問いかけに解を出す。
「発症……しました」
「……そうか」
小岩は振り返ると、会計伝票を透明な筒から抜き取った。
「まだ客がいる。昼休憩には一度店を閉めるから、それまで待っててくれ」
「はい。お願い……します」
宅浪は信頼感を胸にしながら、話を断らなかった小岩に感謝した。
店の奥に入っていくその背中は、あの別れの日と同じで、実に寂しく見えた。
「それで。何年かぶりの再会のところ悪いが、何分でこの話題を終わらせるか?」
「えっ……」
宅浪が小岩に抱いていた、年上であり頼れる先輩への信頼感は途端に裏切られる。
店の入り口の看板を裏返し、エプロンを脱いだ小岩は早々そう言った。
あっけらかんとした面持ちで、当たり前だと言わんばかりの軽い口ぶりで。
「まさか、選択肢が他にあるとは思ってないだろうな」
先ほどまで見えていた淡い希望は、ただ俺が望んでいただけのものと知った。
「それは……」
言い詰まる宅浪にため息もつかないまま、小岩は淡々と言葉を続けた。
いま、俺がしようとしていることが重罪だということを思い知らせるように、重く。
「星石は知っているはずだ。俺たちが過ごしたあの一ヶ月半を」
けれど、俺を見下すことはせずに。小岩は最低限の礼節を保ちながら、強く訴えた。
「あの一ヶ月半、大学生活の中で一番楽しかったです。だから、俺は今度こそって……」
「俺は、あんなことしなきゃよかったって……。一番後悔してるよ、断言できる」
その瞬間、先輩の表情を見て、俺は自分が犯した罪に気付いてしまった。
一番、心に傷を抱えているはずの先輩の傷に、塩を塗るような行為をしたことを。
「だ、だからといって、何もしないわけには……」
「後悔するくらいなら、先に知らない方がいいだろう。今すぐ手放せ」
彼女がいなかったら、こんな冷たい先輩も見れなかったろうなって思った。
先輩にとっての彼女は……俺なんかよりももっと、大きな気持ちを抱いていたのかも。
そう思うと、自然と諦めるって気持ちをすんなり受け入れられるような気がした。
「……分かりました。俺は、前任者である小岩先輩に従います」
※ ※ ※
洗面所で待つこと数分。浴槽に湯が張ったことを確認すると、宅浪は服を脱いだ。
「ふぅ……」
お湯に浸かったこの瞬間だけは、心にやすらぎが訪れる。
体重で圧迫されて溢れたお湯が浴槽を超えて波のように下へ流れていく。
両手を伸ばして浴槽ギリギリで張るお湯を垂れ流す征服感に心地よさを覚える。
三日に一回の風呂だけど、俺、風呂自体は嫌いじゃないんだよな~。
ぽちゃん、
ぽちゃん。
と、濡れた前髪からぽたぽたと水滴がゆっくりと垂れていく。
感傷的になってしまうくらいにゆっくりで、ぼうっとしてしまうようなリズム感。
それでいて一定のリズム感で、世界は水滴だけに耳を澄ましていた。
「……蚊人って、何なんだろうな」
ボソッと呟くと、過去の情景が水面に落ちる水滴とともに広がっていった。
虫研究サークル。
特別、虫が好きというわけではなかったけど、大学入学時に父と定めた条件の一つ『大学に入ったらサークルに入る』を覚えていた俺は勧誘に釣られてサークルに加入した。
部員は俺含め四人いた。
まず、片手で数えられるくらいしか友達のいない俺。
そんな俺と同時期に入ってきた同学年の男。
就活もろくにせず本ばかり読んで周りから忌み嫌われていた四年の男サークル長。
そして……その、サークル長を支える秘書的役割の女。
スタイルはスラッとした高身長で、出ているところもちゃんと出ていて、部室に顔を出すと毎回、お茶を出してくれるくらい愛想もいい、できた女。
好きだった。
評判にならないのが不思議なくらいべっぴんで、俺はツいてると思った。
だけど、チャンスは待てども勝手にやって来ないことに、俺は気付けなかった。
二ヶ月後。
彼女は突然、姿を消した。
そして、意気地なしで無知な俺は、サークル長から真実を告げられることになる。
彼女は蚊を模した人間、蚊人であったこと。
俺は、初恋の相手が人間ではないことを、彼女が居なくなってから知ったのだ。
「おい貴様。いまなんと言った」
そんな、くつろぎの時。
だらしなく浴槽にもたれていた背筋に電撃が走ったみたいに張った。
響いたその声はこの空間の中、それも水が流れる排水溝、けれど人は見当たらない。
何者かが間違いなく、ここにいる……。
「おい、ここは……」
呆れながら、浴槽の持ち手に手をかけておそるおそる首だけを覗かせるとそこには……
身体に貼りついた泥が溶けていくみたいに。
衣服代わりに巻いていた新聞紙が荒波で剝がされ、以前から目についていた意識すると実はしっかりと実のある、白い肌々の身体が露わになったサヤカの姿があった。
「……貴様」
「わ、わわわ悪い。今のはわざとじゃない」
両腕で身体を隠しながら、見上げるその顔には、見覚えがある。
初めて会ったときにも見せた鋭いナイフのような視線、俺は脊髄反射で目を逸らした。
でも今回ばかりは、その視線も代償としては安く感じた。
「な、なんでここにいるんだよ」
「言っただろう。私も匂いが気になると」
「ああ。あれ、自分のことだったのか」
てっきり悪口かと。
「だが、それは良い判断だぞ。ちょうど、俺も臭うな……と感じていたのだ」
「……私は気にしないが、女子にそうハッキリ申す奴は嫌われるぞ」
「元はと言えばお前からな」
しかし、なんだ。
つまりは、もともと俺と一緒に風呂に入るつもりだったのか?
「クッ……屈辱だ。図ったな、人間」
そういうわけでもないらしい。
「か、身体を洗いたかったんだろ? なら、洗って構わないぞ。俺はあっち向いて……」
「貴様の背後で裸体を晒せだと? そんな大胆な真似ができるかッ!」
「えぇ……俺なりの配慮のつもりなんだけど……」
「こんな屈辱的で羞恥な目に合わせるとは……一体、私をどうするつもりだ‼」
「どうするつもりもねえよ! というか俺は被害者側だろ……」
「とにかく貴様は一度、外に出ろ。その汚いモノをもう一度、私の眼前に晒す前にな」
「っ~‼ この変態! スケベッ! エッチ!」
「それは今もチラチラと視線を寄せてくるお前に対して、私が発するべき台詞だ‼」
取り付く島もなく、宅浪は浴槽から、そして浴室からも追い出された。
勢いで自主的に浴室から出たわけだが、よくよく考えたら、小人にビンタされるわけでもないし、相手は小人だから法に触れるわけもないし、そのまま居座り続ければよかったと、浴室の不透明なシルエットはおろか灯りの色しか見えない扉を見て後悔した。
「俺のも見られたわけだし、強引に開けてもいいよなー」
「開ければ、悪を処罰する団体に通報するぞ」
宅浪の独り言にもサヤカは、すかさず浴室から口を挟んでくる。
ちっ、警察の存在は既に知られてしまっていたか。
「服はどうするんだ?」
「また新聞紙とやらを持ってきている。これ以上の期待は無意味だぞ」
「だれが小人の身体に興味を示すかよ」
「どの口が言うか。当然だか、私は貴様より経験豊富だぞ」
「もうそのマウントいいから」
にしては反応がうぶだったが、それについては触れないでおこう。面倒だから。
話していると、小人は長風呂になるらしいので、俺は先に部屋に戻ることにした。
髪は乾かさずにバスタオルで拭くだけ拭いて前髪を上げる。
履いていたパンツを洗濯カゴの中に放り込んだ後、鏡で自身の顔と見つめ合う。
うん、剃り残しはなさそうだ。
「先、戻ってるから。誰にも見つかるんじゃないぞ」
「い、言われなくても分かってる。浪人は先に戻るのか?」
「ああ、ちょっとやることができたからな。ゆっくり入ってくれて構わないぞ」
「……信用はしてないが、言葉には甘えさせてもらうぞ」
どの点で信用してないのかは知る由もないが、警戒してくれているなら安心だ。
「それと――」
「なんだ? 俺、急ぎの用なんだけど……」
「私は蚊人ではない。蚊だ」
部屋に戻った宅浪は電気を消して、布団に寝っ転がった。
脳裏に焼き付いている姿は、赤面して反射的に両腕を隠す彼女。
プライドが高く、高貴で、気高そうな彼女が見せた女子らしい一面を……
先輩が慈悲をくれたあの後のことを……
思い出す。
『けどさ、星石。俺も鬼じゃない。だから、お前が求めてる言葉を嘘でもくれてやるよ』
一見、控えめながらも腕を押し付けられて谷間が作られていた。
『人は成長する。だから、今の俺は大切な人を失って気が動転していた頃の俺とは違う』
引き締まったお腹は労働者の証か、小人のくせにモデルのような体型。
『俺も星石も……あと久保も。そういう宿命なんだよ。特別な力を持ってしまったから』
足もスラっと伸びていて、透き通るような白い肌がそれを際立たせるようで。
『悪は必ずいる。あの子を連れ去った悪は必ず』
フェチニズムな部分は、俺の期待を裏切らない、特別で生々しい刺激を与え……
『悪を滅し、あの子の分まで幸せにしてやってくれ。きっと、星石ならできる』
気付いたときには呼吸を荒くさせながら、手首を上下に激しく擦る。
『同じ女の子を好きだった、星石になら。できるはず、だろ?』
じきに奔流となって迸るように飛び出たそれを満足げに眺めた。
「……ったく、蚊の分際で失恋を分かった気になるなよ」
これは契りと決意の自慰。
明確な意思を持って、俺は再び、歩み始める。
人に変えてしまった彼女にとって、最善の未来を築くために。
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