最前線の桜シロップ

羽渡

最前線の桜シロップ

 十季ときの月移住が決まったのは、月面の生命生存圏が100㎢に拡張された日のことだった。“決まった”というとさも本人の希望がかなったように感じられるが、どちらかというと“白羽の矢が立った”という表現のほうが正しい。もっとも、十季は「月に行くのが決まった、決まった」と、さも嬉しそうに言いふらすので、本人の主体性や将来性、夢や希望なんかがあった上での進路だと思ってやるべきだった。たとえ月での生活が、ゆるやかな実験用マウスの日々と揶揄されていようとも。

「いいじゃない、ゆるやかなマウス。餌も水も適度な労働も与えられるんだよ。でも、変な注射を打たれることもないし、疾患モデルにされるだなんて、なおのこと……。俺があやかるのは徹底管理下における人道的な扱いだ。そういうの、明衣めいはいいなって思わない?」

 明衣は返事をせずに、人でごった返した街を歩く。この駅にははじめて降りたが、観光地があるだけあってかなりの賑わいをみせていた。十季と明衣の居住区にあるものといえば、均一に作られた住宅と電子図書館だけだし、そして明衣は行楽のための移動というものを16年の人生のなかで一度もしたことがない。同じく十季も、20年の人生のなかで一度も。生まれてはじめての急行列車には気を張ったが、駅から続く大通りを前に、明衣はおのずと浮き足立った。胸の高鳴りという、人々がいつかの時代に置いてきたはずの気分に満たされていたから。

「十季はきっとすぐに死んじゃうよ」

 電子図書館で印刷してきた地図を広げながら、明衣は言う。周知の事実として、月面は人間が生きるのに絶望的に向かない。極端な温度差、降り注ぐ放射線、絶え間ない隕石の衝突、常態化している資源不足。数えればキリがないが、しかしそれらはすべてテクノロジーがカバーしている。少なくとも、生存圏である100㎢以内では。要するに、これから十季はみずからの能力ではなくテクノロジーによって生かされるのだ。それが悪いことだとは思わないが、明衣は考える、テクノロジーで生きれる人間と生きれない人間がきっといて、十季のような無垢な人間は、きっと生きれない側なのではないかと。

「そんなわけないよ。知ってるだろう、月移住を許されるのは心身ともに丈夫な人間だけだ。俺はそれに選ばれたんだから、長生きするに違いないよ」

 けらけらと楽観的に笑うのはこの男の特徴だった。そして、どう願ってもこちらの気持ちを正しく汲んでくれないことも。確かに、十季の親の遺伝子は丁寧に編集されており、疾患リスクはないとされている。それは、明衣も同様の遺伝子から生まれたのでよく知っていることだ。ただ、十季は細やかな問題が積み重なった集合体のようなところがあって、たとえば計画性がないとか、飽きっぽいだとか、物覚えが悪いだとか、衝動的だとか。どれも明衣にはない特性であり、それらは押し並べて「ときどきこういう個体も生まれる」くらいにしか認識されない。そして今は家庭というユニットも、学級というユニットも、職場というユニットもずいぶん希薄で、十季のような男がいてもさほど目立つことはなかった。生まれた時代がよかった、といえるのだろう。こんな男でも、身体が丈夫だという、それだけの理由で月にさえいける。

 道なりに進むと、大きな鳥居がゆったりと景色に出現した。そして、ごく淡い桜吹雪も。隣を歩く十季は、明衣が「走るな」と言うより先に、駆け出していく。やはり、無垢な男だと思う。明衣は彼を追いかけることでしか、ろくに走ったことなんてない。

「すごいよ明衣、湧き水だ! 本当にあるんだ!」

 数メートル先にいる十季が、桜の木の下で手を振っている。かたわらには、岩のようなものからぼこぼこと淡紅色の水が湧いて、泉をなし、まわりに人だかりができていた。薄く、甘い香りが漂う。明衣は、全力疾走による息切れを整えながら、電子図書館で印刷してきた情報に目を落とした。『新たな旅立ちにみなぎる春を。とってもおいしい桜シロップの湧き水です。※一人うつわ一杯まで。※持ち帰り不可。(以下、注意事項が続く)【原材料名】(ここからは印刷権限が与えられなかった)』。要するに、そういったご利益をかかげた神社型の施設である。季節の花と宗教施設の組み合わせは観光名所にうってつけで、近年急増しつつあり、ここもそのうちのひとつだ。なぜ旅立ちと桜が紐付くのかは明衣にはわからない感覚だが、きっと昔の桜は春にだけ咲き、そして春とは旅人の季節だったのだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。意味に内容は必要なく、意味は輪郭だけの状態であればあるほど、まじりけのない意味そのものとなるのだから。

「あたり前だろ。僕が調べて、ここがいいって思ってきたんだ」

 なぜここにきたのか。それはここが旅を祝福する施設であって、唯一の兄弟である男が旅に出るからだ。しかし、それらに付随する感情の内容量は明衣にとって重要ではない。そんなことを重要にしたら、この時代では生き抜けないだろうから。

 さぁ早く、ありつこうじゃないか。桜色に着色された祝福に。明衣は駆け出すが、つかのま、人だかりが騒然となる。つまりは、十季を中心に。あろうことか、十季は湧き水の泉へ飛び込み、全身に春を浴びていた。ふぅ、と濡れた髪をかきあげたと思ったら、両手でシロップを掬い、そして無駄に仰々しく天にかがげてそれを飲む。あ、内容だ、と明衣は思った。だがそれは、輪郭のない内容だった。飛び込み禁止とわざわざ書くまでもない場所に飛び込むなんて、輪郭からはみ出た不純物だ。誰ともつかない悲鳴が聞こえる。それはそうだ。大の男が、合成甘味料でベタベタの湧き水にまみれているのだから。

「不味い! 明衣、不味いよこれ!」

 無垢な男の純朴な笑顔が、明衣を真っすぐに射抜く。しかし、その表情はすぐさま明衣の視界から消え去った。代わりに見えるのは、警備隊が何重にもなって十季を取り囲む、光景。桜のフレーバーと花吹雪は、もはや警備隊の黒色を印象付けるコントラストでしかなかった。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 十季の無垢な声が響く。明衣はその様子を、太刀打ちできない自然現象かのように眺めた。やはりまじりけは、こうして取り除かれるのが関の山なのだ。感情が希薄にできていてよかったと思う。そうでなければこんな光景は見るに耐えないだろうから。

 地球生まれの不純物が、月へと打ち上げられる前の日の、ことだった。


 ---


 月面病の末期症状として、幻覚および幻聴の発症、激しい妄想、妄言、失語、または発狂、または果てしない虚脱感、および抑えきれない自傷行為があると聞くが、十季はそのすべてが同時に発症し、そして同時に消え去り、ほどなくして解放されたかのように死亡したらしい。月面病などたいていは初期段階の投薬治療が可能であり、死に至るなどありえない、とは月という遠い土地で起こった出来事が、地球までの38万kmを経てもなお信憑性を保った場合の話である。要するに、明衣は最初からあまり信じていなかった。やっぱり、すぐに死んじゃったじゃないか。いつか十季に言った言葉を思い出す。いや、月面に到着してから389日間も生きたのならば、むしろ持ったほうだろうか?

 十季の死亡通知と同時に届いたのは、明衣の月への招集依頼だった。十季という実験用マウスが死んだのならば、できるだけ近いマウスを用意して実験を続行する。考えてみればあたり前の話である。同じ遺伝子と同じ技術で作られた明衣は、理論上は十季に一番近い存在で、それは十季の代わりは明衣にしか務まらないことを意味する。予想外だったのは“特別”という言葉がふいに明衣の中で発露したことだ。それは明衣の人生ではじめてのことで、目の前に、きらきらと星屑が弾け飛ぶ感覚すらともなった。その新鮮な衝撃のなすがまま、明衣は招集依頼に承諾のサインをする。もしかしたら自分も死ぬかもしれないが、十季のおかげで〝特別〟になれたのなら、それも悪くないと思った。

 遺留品がある、とは思ってもみないことだった。一般市民を月面に住まわせたらどうなるのか、という実験用マウスでしかないだろうに、そのマウスが遺したものを保存しているというのである。そして、十季という後先を考えない人間がいったい何を遺したのかも、明衣にとっては興味をそそることだった。かくして、地球から月への移動の四日半、明衣は兄の遺したものに思いを馳せて過ごした。もっとも、他にもやることがなかったといえば、そうである。いつかの急行列車の旅が“楽しい”に分類されることを、明衣はそのときになってはじめて知った。

 月面の生存圏は五割が人工の水源であり、四割が研究施設、残り一割が居住区である。到着と同時に感じたのは、居住区が地下にあること以外は地球の住まいと変わらないということだ。清潔で、無色で、無駄のない街。地下通路は明るく、コンテナハウスのような住宅が均一に立ち並ぶ。そのうちのひとつ、指示された番号が刻まれたドアを明衣は何の感慨もなく開けた。中は想像どおりのシンプルな間取りで、これも明衣が住んでいた住宅と変わりのないパターンだった。違うのは、何かを記録し続けるセンサーやカメラが無数に設置されている気配だけ。しかし、ここが〝そういう場所〟であることは理解した上のことなので、驚きはなかった。もっぱらの明衣の興味の対象は、硬質な素材のダイニングテーブルの上に置いてある、箱だ。十季の遺したものがこの中にある。そう思うやいなや、衝動のままに、明衣はその箱を机にひっくり返した。軽かった。拍子抜けである。箱から出てきたのは、栓をしてある試験管が、たったひとつだけだった。中は液体で満たされている。ライトに照らしてみると、ふわり、と液中を何かが舞った。真っ白い、薄皮のような不純物……それが花びらであることに気付き、明衣は気を失う寸前みたいに息を呑む。なんということだろう、十季が最期に遺したものが、桜の花である、だなんて。

 日がすっかり暮れた神社型施設で、明衣は十季が警備室から戻ってくるのを待っていた。観光客たちは帰ってしまって、残るのは明衣と、絶え間なく流れる湧き水だけだ。今回のことで刑を課せられることはないだろうが、この時間のかかりかただと、なにかしらの矯正プログラムを受けさせられている可能性がある。十季は今までの人生でそういったプログラムをうんざりするほど受けているので、今更意味のあることとは思えないが。

 これが夜桜か。明衣が暗闇に浮かぶ桜をぼんやり眺めていると、その奥から十季の影が浮かび上がった。常に気楽な顔の男であるが、さすがに肩をがくりと落とし、意気消沈といった様子である。

「大丈夫かよ」

「頭、ぐらぐらする。変なプログラム見せられたからかな……」

 はは、と力ない笑みを十季はこぼす。憐れだと思った。曲がりなりにも旅立ちの験担ぎをしにきたというのに、この男は、それすらもままならない。

「飲んだの?」

 十季が聞く。一瞬、なんのことかわからなかったが、湧き水のことだと合点がいった。そんなものは、十季が連れていかれてから、思考の外にすっかり追いやっていたのだが。

「飲んでないよ」

「どうして?」

「……気分じゃ、なかったから」

 あたり前だろう、と思う。十季があんなふうに連れていかれたあとで、自分だけうつわ一杯のシロップをいただこうだなんて、発想にすらいたらない。やはりこの男は、どう願ってもこちらの気持ちを正しく汲んでくれなかった。

「そっか、ごめんね」

 言って、十季は明衣の一歩先を歩いた。きっと、最後に見る兄の背だな。……なんて、前時代的な感傷にひたっていると、ふと十季は振り向き、かたわらの、手に届く桜の枝を、一本手折った。ぽきり、という音がやけにあっけなく明衣の耳に届く。

「おい、器物損壊……っ」

 なんということだろう、今度は桜泥棒だなんて! 明衣は目を丸くするが、十季は底抜けに明るく笑っていた。

「いいんだ、俺は月に逃げるもん!」

 十季は走った。そして明衣も。やはり、明衣が全力疾走するのは、この男を追いかけるときだけだ。ぶわり。夜桜は吹雪き、十季の持つ一枝も、それに呼応するように揺らぐ。

「この桜をさ、おいしいシロップにするよ! それで、明衣に飲ませてあげる!」

 十季は明衣の数メートル先で、高らかに言った。まじりけのない、無垢な笑顔で。そんなことを言われたら、何と返すか困ってしまう。来ない日の約束なんて、したいとは思えなかったから。

「きっとすぐ死んじゃうのに、よく言うよ!」

 悪態。それを精一杯投げつける。楽観的な笑い声を最後に、神社型施設は遠のいていった。


 ---


 栓を開けると、花の香りはほんのわずか、あるかないかの儚さだった。液体の色も、いつか見た湧き水のような淡紅色ではなく、ほとんど透明に近い。〝天然〟という言葉が思い浮かぶ。天然であるものにほとんど触れたことのない明衣だったが、それが十季が遺した天然であることは、疑いようがなかった。

 試験管を目の前にかかげ、くい、と傾ける。喉を通るのは、ほとんど純粋のような清らかさだ。桜の花びらが、喉に降って落ち、流れる。

「……おいしいよ、十季」

 きっと、これが無垢そのものの味なのだろう。

 月面で味わうには極上すぎるそれを、明衣は静かに飲み干した。


 終

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