ニューヒエラ外伝
番(ばん)
追放王子の章
星の塔
プロローグ - 始まりの日
雨が降っていた。
はあはあという必死な息遣い、濡れた地面を蹴る鈍い音。遠くから聞こえる怒声は、自分達を探す追手のものだろう。
降りしきる雨は、少年の腕を、肩を、その短い黒髪を濡らす。
少年は森の中を走っていた。必死に息を切らして、自分と同じ体躯の少女を背負って。
彼の背でぐったりと目を閉じる少女は、彼とは対照的な真っ白に輝く髪だ。もう少しで腰に届きそうな長さのその髪は、雨で背中にびっとりと貼りついている。
その足で地面を蹴るたびに、頭が揺れるたびにずきり、と鈍い痛みが頭に走る。身体が熱い。風邪だとか病気だとかによる症状ではない、というのは少年自身が一番良く分かっている。
胃の中に、重たい石を抱えているような感覚がする。頭の中には身に覚えのない知識がとめどなく流れ込んできていて、一瞬でも気を抜けば自分が何者か分からなくなってしまいそうだ。
こうなった経緯を思い出して、少年は忌々し気に舌打ちする。一歩遅かった。自分がその身を差し出すつもりだったのに、足りなかった。
と、そこで少年の足が止まる。彼の目の前には剣を携えた兵士が何人もいた。この国の安寧を守る存在、王国騎士だろう。先回りされてしまったようだ。
遠くで聞こえていたはずの声、足音はいつの間にかすぐそこまで迫っていた。少年がちら、と後ろを見れば、同じように剣を構える男たちの姿があった。10歳になったばかりの、ましてやもう一人を背負った状態で走っている子どもが、大人たちから逃げおおせるはずがない。
雨が地面を打ち付ける音、剣を握る手に力を込める音、肩で大きく息をする少年がふう、と吐く音。
「ここまでです、王子。王女と共に戻りましょう」
全部で20人はいるであろう集団の真ん中にいる男が告げる。少年は彼を静かに睨みつけた。
「『王子』、『王女』ね。生贄の間違いじゃねえのか? 得体の知れない力を植え付けるために育てられた従順な器だろ」
「いいえ、違います。その力は、導き手となるためのもの。王家の者として、その力で以て王国を、民を護り、導く。イーセス王女はその王の器となるべき御方というだけの話です」
「それ、どこまで本気で信じてるんだ? ……話にならねえな」
はあ~……、と少年は大きく息を吐く。速くなった鼓動の音に合わせて、頭がズキズキと痛みを訴える。
そうして、力を抜いた。少女を背負って立っていた腕の、体の。
そして、知識の奔流から必死に逸らしていた、思考の。
頭の中で囁きかけてくる魔の声に、身を委ねる。
全てを壊せ、この力ならできる、と。
そう囁いたのは、自分の声だっただろうか、それとも。
◆
気がつけば、血溜まりの上に立っていた。
自分を取り囲むようにして倒れ込む人、人、人。
今や土に染み込んでいるのは雨水だけではない。
雨の音が、地面を叩く。転がっている彼らを、叩く。
彼らの呻き声と、ざあざあという音と、少し落ち着いた少年の息遣いが、響く。
少年は空を仰いだ。天から降り注ぐ雫が、頬を流れる。そうして顔を濡らしても、乾ききった目と心は、何の感慨も示さない。
ざっ、と地面を踏みしめる音を聞いて、少年は振り返る。
「リース様……?」
そっと声をかけてきたのは、青髪の騎士だ。少年のよく知る顔。セミロングの髪を無造作に結いたその人物は一見すると男性のようだが、女性であることを少年は知っている。
彼女は目を見開いて、辺りを見渡し、困惑が滲んだ表情で少年の方を見る。あなたがこれをやったのか、と言いたいのだということがよく分かった。
「……アレイン」
少年は彼女の名前を呼ぶ。そうして真っ直ぐに彼女の目を見た。アレインと呼ばれた騎士は、一度瞬きをして目を逸らし、何かを考える素振りの後で少年を見据える。
「王女と、ご一緒だと伺いましたが。イーセス様はご無事で?」
その言葉を聞いて、少年はふ、と笑みを浮かべる。
「ははっ、この状況で最初に聞くのがそれかよ」
「いえ、お聞きしたいことはたくさんあるのですが……優先順位を考えておりました。……私は、王子殿下と王女殿下に忠誠を誓った身。最優先すべきは、主君の無事です」
「ふーん?」
少年はにたりと笑う。一度ゆっくりと瞬きをして、満足気に笑った。
「イーセスはここにいるぜ。無事……とは言えねえが、たぶん命が危ないとかはねえと思う」
と言って、背にいる少女——妹の姿を見せる。相変わらず目を覚ます様子はないが、不規則ながらも確かな呼吸は聞こえた。
彼女がどういった意図で自分達に忠誠を誓うのかは分からないが、その忠義は確かなものなのだろう。
この惨状を見ても、自分が王国のしきたりに背き、国にとって重要な儀式をめちゃくちゃにしたとしても、このようなことが言えるのだから。
それに。
少年は満足そうに笑ったまま、品定めをするように口を開く。
「なあ、アレイン。おれが前にした話、覚えてるか?」
突然投げかけられた問いに、騎士はきょとん、とした表情を浮かべた後、暫し思考する。そして、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「話……申し訳ありません、どの話でしょうか」
「心理テスト」
人差し指を立ててその一言を告げると、騎士がはっとした表情になる。
「ああ……あの」
「『ある王国に騎士がいた。主君はその国の王子だが、同時に騎士とは国に忠誠を誓い護る者である。王子が国に反旗を翻した。さて、騎士は何を護ったか?』」
にやりと微笑んだまま告げると、騎士は苦笑いする。
「全然心理テストではなかったじゃないですか」
「はは~、まあ心理学なんてほとんど知らねえからな」
目の前の惨状と、陰鬱とした空模様にそぐわない、からっとした笑顔を浮かべる。その後で、改めて騎士の目を見つめる。
「それで、おまえは何を護るんだ?」
「リース王子と、イーセス王女です」
少年の問いに、彼女は姿勢を正し、即答した。右手を胸に置き、左手は背中に、敬意を示す。それまで余裕のない表情を浮かべていた彼女の顔は、忠義を尽くす騎士のものになっていた。
少年は再び満足そうな表情で、頷く。
「ありがとう。残念だがこいつを守るには、おれ一人じゃあ足りねえ」
少し表情を曇らせて、自分の背で眠る妹を見る。そして最後に小声で付け加えた。
「……おまえがいてよかった」
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、騎士は少年の下へと近寄る。そこに横たわる自分の同胞たちに、心の中で追悼の意を示しながら。
そうして少年の目の前に立って、右手を胸に、頭を下げる。
「貴方のお望みのままに」
少年は真剣な眼差しで一度頷くと、背負った少女を示す。
「イーセスを頼む」
「……?」
疑問符を頭の上に浮かべた彼女に、ひとまず妹を受け渡す。少女を抱きかかえた騎士の懐から剣を抜く。
「とりあえずおまえの家で匿ってくれ。この騒ぎに便乗すれば、国外へ出ることだって可能だろう。ああいや、いっそおれが暴れて注目集めておくか」
現在の状況、これから自分がすべき行動を脳裏に巡らせながら話す。何か言おうとした騎士に対して、今度は懐に金貨や宝石を詰める。有事に備えて、王城から少しずつ拝借していたものだ。
「当分の生活費はこれでなんとかなるだろ。あとは……」
辺りを見渡す。この惨状は自分がやったものなのだろう。頭痛はひとまず落ち着いて、思考はすっきりしている。倒れ伏す彼らは、辛うじて息はあるようだ。
「たぶん、イーセスにも何かしらの魔術……? みたいな力が宿ってる可能性が高い。おれのが悪魔のものだとすると、こいつには天使の……昔どっかの文献で読んだ記憶がある……もしかしたら、癒しの力かなんか……」
きょとんとする騎士を前に、少年は頭を回し続ける。全て推察の域を出ない。でも、なんとなく思う。たぶん、上手く行かないということはない。自分が辿るべき道筋が見える。その先が視える。
少年は生まれ落ちた境遇、運という意味では天には突き放されたが、自分には道をこの手で切り拓く力が備わっている。そんな気がする。
望む未来を、思い描く。
「商売に使えるかもしれない。医者の代わりができる可能性だってある。そしたら、生きてけるだけの金が稼げるだろうし」
まあ、と最後に付け加える。少年は要領がよく、自分で殆どのことを達成できる。故に他人に期待しない、する必要がない。自分にできることが他人にもできるとは思っていない。自分以外に何かを託すなんて、宙ぶらりんで無責任なことはしたくない。
だが、唯一期待するとすれば、それは目の前の彼女だ。
敵しかいないこの国で、唯一信頼できる、自分たちを護る騎士。
「……まあ、おまえならなんとかするだろ」
こいつになら、大事な妹を任せていい。そう思えるほどに、彼女は信頼できる大人だった。
その言葉を聞いた騎士は目を見開いた後、目元を緩めた。表情が大きく動きこそしないが、その顔に喜色が表れる。
「リース様がそう仰るとは。お任せください。命に代えても、イーセス様をお守りいたします」
しかしその後で、微笑を消して口を動かす。
「しかし、リース様は」
「さっきも言ったろ? おまえらが身を隠すなり逃げるなり動きやすくなるように、適当に引っかき回してくる」
剣を握っていない右の手を見つめ、意味不明な記号を思い浮かべると、その手に黒い炎が灯った。手を握り、その炎を掌に収める。
「……おれには、もっと力が要る。イーセスを守れるような、力が」
騎士が抱える妹の頭をそっと撫でる。
「あと、たぶんおれと一緒にいない方が良い。既にそうなってる気はするけど、おれは今後大罪人扱いされるだろうしな。それなら全部おれに押し付けて、おまえらは白でいるべきだ」
話しながら、少年は脳をフル回転させていた。これからの未来。可能性。自分の抱く目的と、そこに至るまでに必要なもの、時間。
目的は、目の前の真っ白な命を守ることだ。唯一の肉親。血を分けた、大切な妹。双子の片割れ。無垢で優しい心に付け入られ、国の大人たちの陰謀に巻き込まれてしまった彼女が、これから笑顔で過ごせる国を、世界を。
イーセス・ベネディの幸せを、守りたい。笑顔でいて欲しい。自分がどうなろうとも。どんな手段を使おうとも。
そのために必要なものは、力だ。全てをねじ伏せる実力。金。人材。それを得られるとすれば。導き手となるような力を、得るとすれば。
「……塔」
数年前から聞かれるようになった噂の名を口にする。嘗ての英雄が眠る場所。頂上まで登り詰めた者には、新たな英雄となるべき力が与えられる。
もちろん、タダでとはいかない。数年前に現れたらしいその塔は、挑戦者の命を呑み込んでいた。世界のいくつかの場所に出現しているが、未だに踏破されていない塔が多いのはそういうことだ。
準備をしよう。自分に宿ったこの力のことをもっと知って、剣術も磨いて、装備も揃えて。天には見放された少年だが、優れた頭脳も、剣術の才能も、人を思うように動かす魅力も、更には得体の知れない力まで持っている。できないことはない。いや、やらねばならない。
視える。力を手中に収め戻ってくる自分の姿が。これを、現実のものとしてやる。
「数年後、きっとこの国に一番近い塔に踏破者が現れる。その噂が流れたら、そこで再会しよう。……イーセスは抜きで、おれとおまえの2人でな」
少年は歯を見せて、にやりと笑った。
◆
「おーい、着いたぞボウズ」
低い男の声でリースは目を開ける。
そこは馬車の荷台だ。ふわあ、とあくびを噛み殺しながら伸びをしていると、荷台を覆っていた布が捲られ、光が差し込んでくる。
夢を見ていたらしい。2年前の、全てが終わり、始まった日。あの時のイーセスほどに伸びた黒髪を指で梳かしながら、リースは荷台から降りた。
「いやあ助かったぜー! タダで運んでもらえるなんて」
「荷物が少し増えたくらいだ、大したこたぁえよ。……それに、ああも頼み込まれちゃあな」
「必死に頼んだ甲斐があったってもんだな~」
頭を掻きながら、にかっと愛想よく笑って見せる。
「んでまぁ、そんな貧乏性で独りぼっちのガキが、砂漠ン中にある市場に何の用だ?」
「お? あれだよあれ」
リースは人で賑わう市場の奥、ポツリとそびえ立つ塔を指さした。
指先にあるものに視線をやって、男は感嘆の声を上げる。
「あれって……」
「塔。俺今からあのてっぺん行ってくるからさ、登り切った暁にはお前に代金でも支払うよ! 踏破者が出たら駆けつけてくれな?」
「はぁ? おい、もう行くのかよ! ガキが一人であれに行く気か、バカか!?」
「じゃあな~!」
取り残される男に軽く手を振って、リースは駆け出す。
この2年間、準備をしてきた。自分が行使できる力、魔術についての知識。身体能力と剣術の向上。戦闘や探索のための装備。あらゆる手を使って、様々な人を頼って、使って、必要なものを揃えた。
あらゆる手を使って。
始まりの日。あの日にたくさんの人を傷つけた。それから何かの糸が切れた。手段を選ばなくなった自分は、時に人を騙し、虐げ、望むものを手に入れてきた。
この不平等な世界で守りたいものを守るには、綺麗事ばかり言ってはいられない。
これからも自分は罪を犯し続ける。そしていつか、罰を受けるのだろう。
それでいい。
この身体、命の全てを捧げて、望む未来を、掴み取る。
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