推敲検印

そうざ

Stamp of Elaboration

 引っ越しの準備中に懐かしい本が見付かる事がある。一時期は夢中で読んだものの、いつの間にかその存在すらすっかり忘れている事もある。

 梱包の手を止め、ぱらぱらと捲る――そうそう、こんな書き出しだった、それでああなってこうなって、どきどきしてはらはらして、ああなると思ったらこうなって、急展開の末にどんでん返しが――と、大筋は憶えていても枝葉末節は忘れているものだ。

 知らない場面や知らない登場人物が出て来て、記憶していた展開にはならず、ハッピーエンドだと思ったらバッドエンドで――と、幾ら何でもおかしい。違和感が許容範囲を越えてしまった。

 記憶と違う部分が多過ぎやしないか。別の本の内容とごっちゃになっているのだろうか。

 裏表紙に鉛筆で『¥100』と記されている。何処かの古本屋で買ったらしい。

 カバーと本体の間から紙片が覗いているのに気付く。引っ張り出すと、それはレシートだった。購入年月日、購入点数、価格だけの簡素な印字は、個人店ならではの物だろう。

 店名は『ソウコドウ』。一時期の私は、旅の途中に偶さか出合った古本屋で物色する趣味があった。

 購入年月日は十年前。その頃に訪れた町となると、自ずと絞れる。

 私は、引っ越しの梱包を解いて昔の手帳を探し始めた。


             ◇


 街並みは静謐の中に沈んでいた。谷戸の地形は日の傾きを早め、寒空を呼び込む作用があるらしい。所々にうだつの目立つ漆喰と下見板張りの壁が、瓦屋根を支えながら彼方まで続く。

 十年前、私はこんな宿場町のような場所を訪れた。手帳にはそう記されているが、記憶の方は曖昧だった。

 態々わざわざ遠方まで足を運んだのは、例の本がその後も不可思議な現象を示し続けたからだった。

 看板を一つ行き過ぎ、二つ過ぎ、ようやくく目当ての店を見付けた。錆びの浮いた白地のペンキに大仰な筆文字で『堂觚操』――ではなく右から左へ〔操觚堂ソウコドウ〕と掲げられている。

 煤けた硝子戸から屋内を窺う。陰気な書架の奥に帳場があり、人影が畏まっているのが見えた。

 意を決し、がたつく戸を恐る恐る引くと、仄かな暖気と古色の匂いとが私を迎えた。

「あのぅ、十年前にこちらで購入した本なんですが……」

 店主は黙ってロイド眼鏡を掛けると、頭上の電灯を点けた。橙色の光源は心許こころもとないものだったが、店主は本とレシートとを軽く見比べた後、奥付の情報を確認した。

「この物書きは……何年か前に鬼籍に入りなすった」

「実は妙な事がありまして」

「あぁ……それはきっと」

 店主が小刻みに震える皺の指で示したのは、古い本でよく見掛ける奥付の押印だった。現在は廃止されているが、かつては偽版防止の為に著者の印鑑を貼付する『著者検印』の制度があった。

「検印が何か?」

「これは〔推敲検印〕と言う、うちが物書き向けにやっとるご奉仕じゃよ」

 この先の説明は俄かに信じ難い内容だった。しかし、私が経験した不可思議な現象について一応の納得をもたらすものでもあった。

「物書きという生き物は、己の文章に大なり小なり悔いを残すもんじゃて。あんな風に書くんじゃなかった、こんな風に書くべきだった、とね」

「でも、本は試行錯誤を重ねた上で出版するもんでしょう?」

「それでも一抹の後悔が生まれるらしい」

 文章は、一度ひとたび世に出たらもう取り消しが効かない。重版の折りに手を入れる事は可能だろうが、その都度、自由気儘に書き換えられる筈もない。そもそも売れなければ版を重ねる事自体が叶わない。

「そんな物書きの無念に応えようと、うちに流通ながれて来た本ならば何度でも書き換えられる〔推敲検印〕の仕組みを作ったんじゃよ」

 店主はしゃがれ声でそう言うと、レンズ越しの淀んだ眼で手元の本をまじまじと眺めた。

「この御仁ごじんは特に拘りが強かった。と言うよりも、自信が持てなかったんじゃな。まだ推敲を重ねとる……」

 これが表紙を開く度に内容が異なる原因だったのだ。

 奥付には五十年程前の日付で『第一刷』と記されているが、それを橙色の灯りに翳すと、今日の日付に添えられた『第八百十八刷』の記載が浮かび上がった。今この場で頁を捲ればが読める訳だ。

 この十年、幾度となく書き換えられた内容は最早、初版のそれとは似ても似つかない。手を加える度に向上し、益々面白くなったのかどうか――もし著者自身に判断が出来ないとなれば、後は読者個々人の判断に任せるしかないだろう。

「中には手ずから自著を売りに来る物書きも居る……ほれ、噂をすれば影じゃ」

 引き戸の音に振り返ると、風呂敷包みを大事そうに抱えた人物が、外套の襟で顔を隠すようにして佇んでいた。

 そして、その背後には順番を待つ人影を列を作り始めていた。

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