フィール天羽ジャネー

エリー.ファー

フィール天羽ジャネー

 おかしのもと。

 デスク。

 ハウス。


「もしも、私の知らない世界がそこにあったのなら、人々は何を世界と勘違いするのでしょうか」

「きっと、誰も気づくことなく寿命を迎えるでしょう」

「それが生きるということですか」

「呪いです。もはや、生きるというよりも弱さそのものでしょう」


「隣人トラブルそのものですね」


「加速させて下さい」


「地下水を飲み干してみせます」

「頑張って下さい」

「パネルとは、大切な要素です」

「狐の素揚げを食べたいのですが、ダメですか」

「クイズを楽しませて下さい」

「北米版ってなんですか。日本版と、どう違うのですか」

「またもキノコ」

「眼鏡を爆弾に変える力ですよ」

「良い子と悪い子の間にあるのは、憲兵です」

「意味のないパスタを食べる」

「もしかして、嘘をついていますか」

「お金が最高です」

「できる限り、星を見つめていたいのです」

「ゲームって何なんでしょうね」

「いつだって、本物ですから」

「シュール過ぎませんか」

「シュールに違いなどありません」

「文字と言葉ではなく。何者かになろうとするあなたであるべきです」

「メールを乾かす」

「旧知の仲」

「初老のオバケって最高過ぎですよね」

「感情なのか、感想なのか」

「間欠泉なのか、マロンです」

「あの女、自分の美貌に滅茶苦茶自信を持ってたけど、急に出て来なくなったな。どっかでこっそり生きてるのかね」

「別にお前の視界からいなくなっただけで、こっそり生きてるわけじゃないけどな」

「こっそり、とかいう言葉」

「棘つき嘘つき」


「まず、特に物理的な法則も伴っていない芸術批評において、主観的な視点から客観的な視点により色濃くなっていった流れは、そもそも地球という星が多民族国家である点が挙げられます。つまり、同民族、同国家であることで共通した情報を持つということが起きにくくなるので、説明をする、もしくは解説でもいいのですが、情報の共有を客観的な知識もしくは数値によって行う必要が生まれます。結果として、立場の逆転現象が起き、解説不能、説明不能、客観性を伴わない芸術作品の価値が著しく下がるという問題が発生します。つまるところ、批評という行為が成立できない作品自体を無いものとしてみなすようになるということです。これらは、とある日本のアニメーション映画がヨーロッパとアメリカで評価が分かれたところからも理解できます。詳しくは、自分で調べてみましょう。このようにして、世界規模で抽象画が値崩れを起こしてしまったり、芸術作品が社会にアプローチするパターンが少なくなってしまったことから、作品が持つ可能性が明らかに狭まりました。発達した社会と、その解析を終えた人間との間には、ある種の正解が見えてしまうという、洗練故の問題があるわけです」

「面白くないので、これ以上は聞きたくないです」

「ここから、面白くなるのに」

「どう、なるのですか」

「芸術作品は、どんな形であれ見る人へのオナホールであったり、作った本人に向けたセルフメイドオナホールとしての役割がありました。しかし、ある時点から、このオナホールは特定の職業、もしくは立場の人に向けたものになっていきます。オナホールの多様性が失われたと言ってもいいかもしれませんね」

「オナホールって言わない方がいいと思います」

「でも。でも、ですよ。結構、いい表現なんですよ、これ。かなり、的を射ているのです」

「で、その職業、立場の人ってなんなのですか」

「嫌だね、教えない」

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