68 きっと良い——夏休みの始まり
「あ、月雪さん。期末試験お疲れさま」
最終日の試験を
小窓から射し込む夕暮れの陽射しが、
夢叶の立ち姿を眼にした風間は不意に、「あれもしかして月雪さん、ジムとか通ってる?」と
「何か前よりも背筋がきれいに伸びてるというか……てごめんごめん。先生からこんなこと言われても、ただ気持ち悪いだけだよね。僕、筋肉がつきにくくてひょろっとしてるから、純粋に羨ましいなって」
いえ、と首を揺らした夢叶が、「風間先生の言う通り最近はジム、に凝ってまして」と露わになっている
「へぇ。先生も時間に余裕が出来たら行ってみようかな」とほっとしたように口角を上げると、左手に抱えているファイルや書類の透き間から、かつんと万年筆が落下した。二人の口が「あ」を作った矢先、転がったそれを夢叶が急いで拾う。
木製でできたうつくしい万年筆は風間の髪色によく似ていて、落ち着きがありながら柔らかな風合いがあった。風間に差し出そうと手を広げたその時、
「これ、前に君に話したことのある元カノと、僕の
それは学校の教室を切り取った一枚だった。艶のある黒髪のロングヘアに、真っ白なドレスを着ていた女子高校生の姿で——付き合っていたけど、もう会えない。と話していた風間の
スラックスのポケットに万年筆をひょいと入れた風間は、不意に左右を見渡してから口を開いた。「そういえば
些か
「そうだ。あれから神君とはどう? 少しは話し合えた?」
「はい……明希人君に自分の気持ちは伝えました。でも根本的な解決には至って無いです。距離がどんどん遠くなっているような気がして……でも、諦めるつもりはありません」
「そっか。月雪さんが前向きで良かった。月雪さんの想いがいつか実ると信じているよ」
不安を覗かせながらもしっかりと前を見据える眼差しに、風間が柔らかく
「月雪さんは教員にも向いていそうだね」と不意にこぼれたそれに、「え、そうですか?」とポニーテールを揺らしながら首を傾げる。
「うん、君は優しい子だから。自分が傷ついても相手の気持ちを考えることができるし、
——不幸せになればいいのに。
それは何時だったか、夢叶の口から放たれた確かな言葉だった。あれから暫くの時間が経過したものの、一本の鋭利な釘となって内側に食い込んでいる。
そんなことないです、と視線を落とした夢叶がゆっくり首を動かした。
「感情任せになって、自分が言われたら傷つく言葉を使ってしまったことがあるので……優しい思いやりが持てる人になりたいです」
そう言って寂しそうな笑みを浮かべる彼女に、「彼は寧ろ、そうやって傷ついてる君の方が気掛かりなんじゃないのかな?」と首を捻る。
正確な名前は口にしていない。だが確信を持っているような口調であった。
見透かされたような心地になった夢叶が咄嗟に、「か、風間先生はどうして先生になったんですか?」と
束の間、珍しく眼を瞠った風間は、小窓を染める陽射しへと視線を投げ、くすりと笑みを浮かべた。その優しい表情を、以前神秘の森で眼にしたような気がした夢叶が僅かに息を呑む。
「そうだなぁ……その
「それじゃあ先生は研究室に向かうね——あ、それから何でも
「気掛かりか……」と、その後ろ姿を見送るように呟いた夢叶は、一つ吐息をこぼしてから
「痛っ……って夢叶ちゃんか。ごめんね。僕が歩きスマホなんかしてたから」
「ううん、私の方こそぼうっとしちゃってごめん! スマホは大丈夫?」
慌てた夢叶が、椿の手から滑り落ちたスマホを拾う。耐衝撃性のケースを使っているのか、
「よかった。何か調べ物してたの?」
「うん。ちょっと調味料を調べてて」
意外な答えに、「調味料?」と夢叶が
「今日は僕が晩ごはんを作る担当なんだけど、中々父さんのように美味しい味付けが出来なくてね。僕が作るのも不味い訳じゃないけど、何か妙に納得が行かないって言うのかな……」
呟かれたそれに、夢叶は先月偶然ファミレスで食事を共にした出来事が浮かんだ。椿と
「そっか。そんなに美味しく作れるなんてすごいね。教えてもらうことはできないの?」
「小さい頃から頼んではいるんだけど、変なところ秘密主義だから教えてくれないんだ」
困ったように苦笑を浮かべると、「そういえば期末試験はどうだった?」と憶い出したように椿が尋ねる。
「えっと私は、手応えがあるのと無いので落差があるかも……椿君は?」
「僕もそんな感じかな。特に
「そういえば来月の何処かで桃也君と会うことになったよ」
「え、桃也君と?」
「うん、
夢叶が憶い出したように双眸を開く。オッドアイにその様子を認めた椿は、穏やかな口調で話を続けた。
「本当はもう少し前には憶い出していたんだけど、お互いに課題や試験勉強もあったから夏休みに話そうってことになってね。桃也君もここ最近は忙しそうだったし」
桃也が忙しいという理由に
僅かに視線が
「大学の行き帰りが常に桃也君と一緒でしょう? だから仲良しだなと思って」
「うん……仲は確かに良いと思うけど、桃也君は大事な友達の一人だよ。彼氏だって言う
黙って聴いていた椿が、「ごめん。
夢叶が首を捻ると、「何でも無いよ。話を脱線させちゃってごめんね」と
「桃也君に話した後、夢叶ちゃんにも黒い
と口にした椿はにっこりと笑った。夢叶がごくりと生唾を呑む。
「夢叶ちゃんが僕のことを疑ってるのには気付いてたよ。それでいて僕を信じたいって想う気持ちにもね……あの晩、妖攻が始まった瞬間に君の傍に居たのは僕だから、疑うのは
表情を努めながら、「うん。
「あ。そういえば今日は天気が良いから、月が凄くきれいに見えるらしいよ——お互いにとって、良い夏休みになるといいね」と
「ありがとう。きっと良い夏休みになるよ」とその後ろ姿へ声を掛ける。刹那、椿は一瞬だけ歩みを
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