68 きっと良い——夏休みの始まり



「あ、月雪さん。期末試験お疲れさま」


 最終日の試験をすべて終えた帰り、Q棟にある階段の途中ですれ違った華奢な男に「風間先生、お疲れさまです」と夢叶が挨拶する。


 小窓から射し込む夕暮れの陽射しが、風間樹かざまいつき涅色くりいろの眸を穏やかに照らした。どうやら風間は、四階にある研究室へ向かっている途中だったらしい。パーマが当てられている栗色の髪は、相変わらず無造作ながらも、お洒落な雰囲気がある。

 夢叶の立ち姿を眼にした風間は不意に、「あれもしかして月雪さん、ジムとか通ってる?」とたずねては、空いている手を顎先に添えた。


「何か前よりも背筋がきれいに伸びてるというか……てごめんごめん。先生からこんなこと言われても、ただ気持ち悪いだけだよね。僕、筋肉がつきにくくてひょろっとしてるから、純粋に羨ましいなって」


 いえ、と首を揺らした夢叶が、「風間先生の言う通り最近はジム、に凝ってまして」と露わになっているうなじに手を当てては笑顔を作る。


「へぇ。先生も時間に余裕が出来たら行ってみようかな」とほっとしたように口角を上げると、左手に抱えているファイルや書類の透き間から、かつんと万年筆が落下した。二人の口が「あ」を作った矢先、転がったそれを夢叶が急いで拾う。

 木製でできたうつくしい万年筆は風間の髪色によく似ていて、落ち着きがありながら柔らかな風合いがあった。風間に差し出そうと手を広げたその時、キャップ部分に筆記体で「I.S.」と書かれているのが映る。夢叶が瞬きをすると、「ありがとう」と受け取った風間が、二つのアルファベットを優しくなぞった。


「これ、前に君に話したことのある元カノと、僕の頭文字イニシャルなんだ」と呟いた風間に、夢叶が以前吉祥きっしょうの書物を借りた際に、偶然眼にした一枚の写真をおもい出す。

 それは学校の教室を切り取った一枚だった。艶のある黒髪のロングヘアに、真っ白なドレスを着ていた女子高校生の姿で——付き合っていたけど、もう会えない。と話していた風間の台詞セリフが、夢叶の深い部分に鈍い音を立てた。

 スラックスのポケットに万年筆をひょいと入れた風間は、不意に左右を見渡してから口を開いた。「そういえば吉祥きっしょうはどう? 月雪さんの役に立ってる?」


 些か音量ボリュームを落とした声に、「はいお陰様で。明日から夏休みなので集中して熟読しようと思います」と夢叶がうなずく。風間はよかったと安堵するように眼を細めた。


「そうだ。あれから神君とはどう? 少しは話し合えた?」

「はい……明希人君に自分の気持ちは伝えました。でも根本的な解決には至って無いです。距離がどんどん遠くなっているような気がして……でも、諦めるつもりはありません」

「そっか。月雪さんが前向きで良かった。月雪さんの想いがいつか実ると信じているよ」


 不安を覗かせながらもしっかりと前を見据える眼差しに、風間が柔らかくうなずく。金縁円眼鏡に浮かぶ双眸には、夕陽のせいだけではない確かな温もりがあった。


「月雪さんは教員にも向いていそうだね」と不意にこぼれたそれに、「え、そうですか?」とポニーテールを揺らしながら首を傾げる。


「うん、君は優しい子だから。自分が傷ついても相手の気持ちを考えることができるし、他人ひとを非難しない」


 ——不幸せになればいいのに。

 それは何時だったか、夢叶の口から放たれた確かな言葉だった。あれから暫くの時間が経過したものの、一本の鋭利な釘となって内側に食い込んでいる。

 そんなことないです、と視線を落とした夢叶がゆっくり首を動かした。


「感情任せになって、自分が言われたら傷つく言葉を使ってしまったことがあるので……優しい思いやりが持てる人になりたいです」


 そう言って寂しそうな笑みを浮かべる彼女に、「彼は寧ろ、そうやって傷ついてる君の方が気掛かりなんじゃないのかな?」と首を捻る。


 正確な名前は口にしていない。だが確信を持っているような口調であった。

 見透かされたような心地になった夢叶が咄嗟に、「か、風間先生はどうして先生になったんですか?」と後毛おくれげを耳に掛けては、誤魔化すように尋ねる。

 束の間、珍しく眼を瞠った風間は、小窓を染める陽射しへと視線を投げ、くすりと笑みを浮かべた。その優しい表情を、以前神秘の森で眼にしたような気がした夢叶が僅かに息を呑む。


「そうだなぁ……その機掛きっかけは僕にとって大切なおもい出だから内緒にさせてもらうよ」、とわざとらしく人差し指を唇の前に置いては、こっそりと口端を持ち上げる。


「それじゃあ先生は研究室に向かうね——あ、それから何でも真面眼まじめに頑張り過ぎないようにね。勉強もジムもほどほどに夏休みを楽しんで」と金縁円眼鏡の奥で笑みを浮かべた風間は、飄々ひょうひょうとした足取りで研究室がある四階へと向かって行った。


「気掛かりか……」と、その後ろ姿を見送るように呟いた夢叶は、一つ吐息をこぼしてからまっていた足を再び動かした。何かを思案するような面持ちで一階へ降りた夢叶が角を曲がろうとする。と、鉢合わせたように誰かと肩が打突ぶつかった。


「痛っ……って夢叶ちゃんか。ごめんね。僕が歩きスマホなんかしてたから」

「ううん、私の方こそぼうっとしちゃってごめん! スマホは大丈夫?」

 

 慌てた夢叶が、椿の手から滑り落ちたスマホを拾う。耐衝撃性のケースを使っているのか、ひびなどの損傷は見られない。軽く操作した椿は、「拾ってくれてありがとう。問題ないから安心して」と柔らかな笑みをこぼした。夢叶がほっとするように肩を脱力させる。


「よかった。何か調べ物してたの?」

「うん。ちょっと調味料を調べてて」


 意外な答えに、「調味料?」と夢叶が鸚鵡おうむ返しする。瞬きする彼女に、椿が画面をタップして見せると、そこには市販されている調味料画像と共に、わかりやすい説明が書かれていた。


「今日は僕が晩ごはんを作る担当なんだけど、中々父さんのように美味しい味付けが出来なくてね。僕が作るのも不味い訳じゃないけど、何か妙に納得が行かないって言うのかな……」


 呟かれたそれに、夢叶は先月偶然ファミレスで食事を共にした出来事が浮かんだ。椿と盞花せんかのステーキを食べる所作が、よく似ていたことをおもい出す。


「そっか。そんなに美味しく作れるなんてすごいね。教えてもらうことはできないの?」

「小さい頃から頼んではいるんだけど、変なところ秘密主義だから教えてくれないんだ」


 困ったように苦笑を浮かべると、「そういえば期末試験はどうだった?」と憶い出したように椿が尋ねる。


「えっと私は、手応えがあるのと無いので落差があるかも……椿君は?」

「僕もそんな感じかな。特に異例イレギュラー歴史学は自信が無いよ。風間先生、普段は飄々ひょうひょうとしてるけど、課題や試験は容赦が無いんだから嫌になるよ」と肩を竦めてから話を続けた。


「そういえば来月の何処かで桃也君と会うことになったよ」

「え、桃也君と?」

「うん、おぼえてない? 五月のあの晩、妖攻ようこうに遭った時に桃也君が僕に言ったこと。『黒い髪飾かみかざり何時何処いつどこで見たのかおもい出せたら、ぜひ俺に教えてくれませんか?』って」


 夢叶が憶い出したように双眸を開く。オッドアイにその様子を認めた椿は、穏やかな口調で話を続けた。


「本当はもう少し前には憶い出していたんだけど、お互いに課題や試験勉強もあったから夏休みに話そうってことになってね。桃也君もここ最近は忙しそうだったし」


 桃也が忙しいという理由に心胸こころ辺りがあり過ぎた夢叶は、些かまりが悪そうに視線を退らした——鍛錬たんれんに毎日付き合って指導してくれているから、とは口に出せず。「桃也君も大学が色々と忙しいみたいで」、と同意してはうなじ辺りに指先を当てた。


 僅かに視線が退れている夢叶をオッドアイに映しては、「その割には夢叶ちゃんに熱心だよね」と椿が微笑する。「え?」とこぼした夢叶が視線を持ち上げた。


「大学の行き帰りが常に桃也君と一緒でしょう? だから仲良しだなと思って」

「うん……仲は確かに良いと思うけど、桃也君は大事な友達の一人だよ。彼氏だって言うはなしがされてるのは知ってるけど、椿君には誤解しないでもらえると嬉しい。桃也君にも申し訳ないから……」


 黙って聴いていた椿が、「ごめん。わかってるよ。あの晩の時みたく何かあった時に夢叶ちゃんをまもるためだよね」と小さく肯く。夢叶がほっと安堵をこぼすと、「美味しいようで、桃也君もなかなか難儀な立場だね」とうつくしいオッドアイをかくしながらぼそっと呟いた。

 夢叶が首を捻ると、「何でも無いよ。話を脱線させちゃってごめんね」と何時いつもの爽やかな表情で謝ってから話題を戻す。


「桃也君に話した後、夢叶ちゃんにも黒い髪飾かみかざりについて話したいと思ってる——そしてあの晩、氷柱つららや黒薔薇で夢叶ちゃんを妖攻ようこうした犯人が僕ではないってことを証明するよ」


 と口にした椿はにっこりと笑った。夢叶がごくりと生唾を呑む。


「夢叶ちゃんが僕のことを疑ってるのには気付いてたよ。それでいて僕を信じたいって想う気持ちにもね……あの晩、妖攻が始まった瞬間に君の傍に居たのは僕だから、疑うのは当然あたりまえだよ。詳細はまた、その時が来たら話すね」


 表情を努めながら、「うん。わかった」と夢叶が肯く。その背中には僅かな緊張が滲んでいた。


「あ。そういえば今日は天気が良いから、月が凄くきれいに見えるらしいよ——お互いにとって、良い夏休みになるといいね」とおもい出したように言った椿は、挨拶を加えてから、夢叶とは反対方向へ歩き始めた。


「ありがとう。きっと良い夏休みになるよ」とその後ろ姿へ声を掛ける。刹那、椿は一瞬だけ歩みをめ、背を向けたままひらりと手を振った。

 

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