第10章 君が知りたいことは、そこに行けば総て解るよ

67 本音と建前


 夏季にしか鳴かない、いや、鳴けない虫の声が街に響く。成虫になってから七日間しか声を上げられない彼らに共鳴するみたいに、うだるような熱気が肌に纏わりついていた。


「昨日も暑かったけど今日も暑すぎるでしょー。せっかく髪気合い入れたのに、外出たら一瞬で汗だくだなんてもう嫌になるー」

「ええ、でも寝坊して日焼け止め塗り忘れた私より良いじゃんかあ」

「えーっ、それはやばいよー」

「今日は過去最高だった昨日よりも暑くなるって天気予報で見たのに、朝からやらかしちゃったよ。ああほんと、早く秋が来てくれないかなあ」


 すれ違う女性の会話を耳にした男は、その暑さをおくびにも出さずに歩いていた。紺色の髪に汗が伝うことはなく、淡々と涼しげな空気を纏っている。暑くないふりをしているのだとすれば器用だ。男は扁桃ああもんどの黒眼を隣に向けると、後ろの高い位置で金糸を一つに結んでいる彼女を視界に入れた。

 ノースリーブから覗く腕は、細いながらもほどよく引き締まっており、鍛錬たんれんの成果か、背筋も糸をぴんと張ったようにきれいに伸びている。すると、彼女が喉をこくりと動かすのが見えた。それは水分を欲して唾を飲んだというよりも、緊張を体内に留めるようで——それを見た男が、ふと思い出したように口を開く。


「今朝は、それはそれは酷い半眼でトーストをかじっていましたが、試験の方は大丈夫なんですか?」


 と、綾杜から桃也に化けている男が、下瞼に薄紫を浮かべている彼女に訊ねる。夢叶ははさみで切り取るみたいに「酷い半眼」「試験」、とゆっくりと反復した。


「すみません。少々説明不足でしたね。今にも失神しそうな眼だったということです」

「そ、そこまで言わなくても……でも大丈夫! 歩いてる内にすっかり眼がめたから」

「そうですか。とは言えくれぐれも気を付けて下さいね。あの半眼は、それはそれは周囲の人達の集中を妨害する恐れがありますから」と不躾ぶしつけ台詞セリフがさらりとした笑みと共に返ってくる。


「桃也君こそ、その口が災いを呼ばないように気をつけてね」

「勿論です。ご心配には及びません。こんなことを言う相手は貴女あなたしか居ないので」


 と笑顔で言うと、彼女の頬がわかりやすく膨らんだ。何時いつもの調子が戻りつつあることを認めた桃也の表情がふっと和らぐ。「そこまで言わなくてもいいのに」、と視線を逸らした夢叶は唇を小さく尖らせた。そんな夢叶を桃也が無意識に見つめる。


「……可愛いな」


 ぽつりとこぼれた本音は、横断歩道の信号機から流れる鳥のさえずりに潜んでいく。「ごめん。何か言った?」と顔を向けた夢叶に口端を持ち上げると、「まるでお子様みたいな膨張面ふくれっつらだなと思いまして」と一瞬で口調を戻した。夢叶が眉根を寄せては、額にじわりと浮かんだ汗を指先で軽く拭う。


 もう七月下旬ということもあり、蒸し暑い熱気が周囲を支配していた。この世に存在するすべてを燦爛さんらんたる陽が燃やしており、はげしい光を浴びる生命いのちは絶え間なく鳴いている。時折首筋を撫でる風だけが行き交う人々の救いであった。陽射しを受け止める夢叶の金糸とイヤーカフが、晃然きらりと光を生み出している。


「それにしても昨日は雨が酷かったから晴れて良かった」と呟いた夢叶に「今日は一日中天気が良いみたいですね」と桃也がうなずくと、何時の間にか夢叶が通う大学の正門前に辿り着いていた。

 早いですね、と僅かに語尾が下がったそれに桃也自身が驚いてはふっと小さな吐息をこぼす。大学内に意識を向けていた夢叶は、その微細な変化に気付くことが無いまま口を開いた。


「今日も大学まで送ってくれて本当にありがとう」

「いえ。貴女と歩く時間は嫌いじゃないので」


 五月のあの晩。氷柱つららや黒薔薇の妖攻ようこうに遭ってからと言うもの、万が一という観点から大学の行き帰りや外出時は基本、桃也に化けた綾杜が同伴することになっている。そんな彼が傍に居るお陰か、夢叶の生命いのちが危うくなったことはあれから一度も無い。然しだからと言って危機が失せた訳では無い。


「周囲の方々に迷惑を掛けないように、ちゃんと起きていて下さいね。そのためにもこれを飲んで、最終日の試験も頑張って下さい」


 眠気撃破、というまり文句が並んだ飲料缶を差し出す桃也に、「もう……でもありがとう」と両手で受け取る。上品に微笑んだ桃也は、「ではまた後で」と言っては軽やかに背をひるがえした。そのまま夢叶が正門を通る——と、不愉快さを滲ませた幾つもの眼玉が、汗ばんだ肌にじろりと刺さる。


「美人だとすぐに彼氏が出来るのね。ああ羨ましい」

「明希人君が浮気したってはなし、あれ嘘なんじゃない? 浮気したの本当は夢叶ちゃんだったりして。明希人君可哀想かわいそう

「アキユメカップルなんて愛称で呼んでた私たちが馬鹿みたいよね。可愛い顔して中身は腹黒いなんて怖すぎ」


 尾鰭おひれの付いたはなしが続々と輪を広げては、不穏なよどみが増幅していく。彼女らの眼差しに宿る嫌悪の中には、妙な快楽というあやしい光も潜んでいて。最早試験よりもはなしに夢中らしい。

 僅かに俯いた夢叶が彼女らの前を小走りで通り過ぎようとした、束の間。急な静寂が辺りを覆った。違和感を覚えた夢叶がおもてを上げると、十メートル先の前方から一人の男が此方こちらへ近付いてくるのが見える——明希人だ。


 蒼々あおあおとした強い陽射しを受ける銀糸は、今にも透き通りそうである。男は前方を映してはいるものの、夢叶を視界から区別するような冷たさを宿していた。自ずと明希人から視線を逸らした夢叶が、地面と顔を合わせたまますれ違っていく。


「今日も最高にクールね。ただもう少し近寄り難いオーラが無ければ、話しかけに行けるのに」

「明希人君、夢叶ちゃんと別れてから彼女居ないんでしょ? 私立候補したい!」

「別れて直ぐ男を作るひととはさよならして正解よ」


 遠ざかる男に熱い眼差しを送り続けては、また自然と世間話が始まった。既に彼女らから少し離れた夢叶の耳には判然はっきりとは聞こえなかったものの、あまり良い内容ではないことは何となく肌で感じていて。


 暫くして歩みをめた夢叶は、ゆっくり後ろを振り返った。丁度、明希人が正門を後にする姿が視界の遠くに映る。彼の足取りは寸分のきさえ見せない、迷いの無い動作であった。角を曲がり見えなくなった眺めに金色の眸をかくす。そしてゆっくりと長い睫毛を持ち上げたその時、親しみのある声に名前を呼ばれた。


「夢叶」

「誠君、おはよう」


 その柔らかな笑みは明希人と別れた後も変わらない。唯一態度を変えることなく接してくれる誠は貴重な存在であり、夢叶にとって大切な友人の一人だ。此方へ近寄った誠は、彼女の下瞼を見るなり眉間を顰めた。


「……あまり寝れなかったのか?」

「うん。自信が無いせいかちょっと緊張しちゃって」

「そうか。でも夢叶なら大丈夫だ。あれだけ熱心に勉強したんだから」

「……誠君、ありがとう」


 眉尻を下げた夢叶に誠が安心させるように励ます。切長の眸がふっと和らいだ表情は、夢叶の心胸こころを温かくするものがあった。


「そういえばこっちに明希人が向かってたのを見たんだが、彼奴あいつの姿を見たか」

「うん。先刻さっき正門を出て行くのを見たよ。明希人君、今日はもう試験が無いのかな」

「いや、一コマ空けてまた三限にある筈だ。少し早いけど一緒に昼飯食べようと誘いたかったんだが、間に合わなかったな」


 そっか、と夢叶が一拍置いてから視線をそろりと下げる。と、側にそびえるうつくしい緑を広げる樹の下に、せみじっとしている様子が見えた。はねには歪な穴が空いている。ベンチ下に居るその体は、神秘的な役眼やくめを終えたと告げるみたいに微動だにしない——夢叶が小さく息を呑む。不意に心胸こころを掠めた沈黙に、すぐさま視線を持ち上げた。


「明希人、時間が出来るとよく一人で何処かに行くんだよ。忙しいのかユアのご飯も最近は頼まれるしな……とは言え、訊いたところで素直に教えてくれるような男じゃないからな。秘密主義なところ、もう少し緩めて欲しいよ」


 そう言って寂しそうに吐息をこぼすと、「二限からの試験頑張れよ」と夢叶の肩に手を乗せてはその場を後にした。誠の声援を耳にした夢叶は、すうと新鮮な空気を体内に迎え入れる。胸に生まれた黒い点を吐き出すように歩み始めた彼女の背後では、さっと風に吹かれた透明なはねが、沈黙をまもるように混凝土コンクリートさすっていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る