第8章 罪を背負って地獄を進む

51 黒い夢と特殊な人間


 恐ろしい、と椿は思った。

 すみって生まれたような、細い川の流れが見える。それは誰かの指の腹から腕に向かって走り、幾つもの曲線を描いていた。視界が明瞭ではないためそれだけしかわからない。音もよく聞こえない——この腕は一体誰の、と椿が思ったところで、誰かに名前を呼ばれた気がした。


 振り返る、けれど視界は霞むばかりで解らない。不安という種ばかりが膨らんでいく。すると、誰かが自分の片手を握った気がした。温かく優しい体温に椿がほっとする。と、急に硬い冷気を感じた。それが強く感じる方へ眼を向けると、黒いが、誰かの黒い曲線を描く手を飲み込むように覆っている——「椿」。


 はっと渇いた息を呑んで眼を覚ます。上体を起こすと冷汗をかいているのがわかった。良い眼覚めではない。緊張と安堵の入り混じった感覚を覚えながら手の甲で額を拭う。すると何時から響いていたのか、閉まっている自室のドアをノックする音と共に、名前が呼ばれた。「椿、起きているか? 今日は時間に余裕があるから、良かったら一緒に朝食を食べないか? 久しぶりにお月見ナポリタンを作ったんだ」


 肩から力を抜いた椿が、「ありがとう父さん。すぐ行くよ」と答える。ドアの向こうで気配が遠ざっていくと、リビングの方からテレビの音が微かに聞こえ始めた。

 ちなみにお月見ナポリタンとは、目玉焼きが乗ったナポリタンのことだ。育てのである遊馬盞花あすませんかの得意料理の一つであり、椿の好物でもある。椿は窓掛カーテンから射し込む光に眼を細めながら、ベッドから抜け出した。


 ——もう七時、七時だよ。起きろ起きろ。グッドモーニング! ハッピーな朝だよ! 新しい朝にベリーベリーサンキュー!


 椿の起床から少し時間が経った後、馴染みある眼覚まし時計の音に、夢叶がゆっくりと瞼を開けた。鸚鵡おうむのように鳴り響くその眼覚まし時計は、朝が不得意な麻子とお揃いで購入したものだ。見た眼は何処にでもあるようなシンプルな眼覚まし時計の割に、音には軽快さを超える迫力がある。

 寝惚けまなこの中眼覚ましのスイッチを押すと、枕元の脇に白いきつねのぬいぐるみがあるのが見えた——何時もの平和な朝だ。なのにどうしたことか、ふと違和感を覚えた夢叶が、眉間を顰めながら視線を横に動かしていく——眼前に居る男に、金色の眸が大きく見開く。柔らかな桃色の髪から覗く寝顔は、起きている時よりも可愛らしく邪気あどけない。身体を折りたたむように縮めた綾杜が、真横で眼を閉じている。


 吃驚びっくりした夢叶は、思わずその場から飛び上がるように上半身を起こした。つい先刻さっきまであった、茫然ぼんやりとした眠気は見事に吹き飛んでいる。


(どうして綾杜君が私の部屋に? それもベッドの上に……ってあれ?)


 Tシャツから覗く腕を眼にした夢叶の顔色が、途端にさあと青褪あおざめた。所々内出血しており、よく見ると微かに唇の端も切れている。大事には至ってはおらず、治りかけのようだ。然し昨晩別れる際には無かったそれらに、胸の奥が締め付けられた。


「何で……」


 夢叶が思いがけず手を伸ばすも、制止するように相手に掴まれる。驚いて見ると、しっかりと瞼の開いた黒いつり眼が、金色の眸を捉えていた。


「心配するな。自然治癒するって前に話しただろ」


 くすりと笑みを浮かべる表情に少しほっとするも、心配なことには変わりない。すると本人は後ろ襟足を軽く掻きながら、「お前の眼覚まし、独特でうるせぇな」とこぼした。


「でもまだ痛むでしょう……? それに助けてもらってばかりなのは嫌だよ。できることは少ないけど、私も綾杜君を助けたい」と訴えるも、綾杜は断固として拒否した。「ばぁか。その力は本当に助けを必要としてる奴に使え。わかったか? ひ弱」


 そう言ってむくっと起き上がった綾杜は、眼の前にある柔らかな頬を指で挟んだ。此処ここで引き下がりたくなかったものの、夢叶が渋々しぶしぶといった様子で頷く。ふっと笑みをこぼした綾杜は、少し名残惜しそうに頬から指を離した。「それにしても、やっぱり彼奴あいつは強いな」


「彼奴?」と夢叶が鸚鵡おうむのように繰り返すと、「神明希人。まあ、俺も容赦無く殴ったけど」と綾杜があっさり言った。「え……まさか怪我をしたのって」と夢叶の動きがぴしとまる。


「そ。昨夜あの後に、神明希人とやり合ってこうなった。まあ互いに怪我はしてるが、問題は無い」


 驚愕の事実に、小さな口があんぐりと開く。綾杜はそんな彼女を横眼よこめに、昨晩の出来事をざっくりと説明した。


「——じゃあつまり、明希人君は綾杜君が帰宅するのを待ち構えていたってこと?」

「ああ、俺を挑発するように妖気ようきを発していたからな。あの感じだと、彼奴が桃也の変身を解く前から知っていただろうな、俺のことを。そして俺が夢叶と接していることもな」

「そんな、綾杜君とはほんとんどこの部屋でしか会ってないのにどうして……」


 真っ直ぐに此方こちらを見る金色の眸から眼を逸らし、さあな、とこぼした綾杜が続けた。「夢叶。昨夜のことで、良い情報ニュースと悪い情報がある」


 その言葉に反応した夢叶がすぐさま顔を上げる。


「昨夜夢叶を襲った氷柱つららに黒薔薇。あれはどちらも、神明希人の仕業しわざではない——つまり昨夜の件で、麻子の遺言の信憑性しんぴょうせいが増したことになる」


 ――夢叶を利用しようと企んでいる人がいるから、親友をまもって欲しい。

 微かに揺れ動く金色の眸を視界に映しながら、綾杜が話を続ける。


「氷柱に黒薔薇、昨夜夢叶や俺たちに妖攻ようこうできる距離にいたのは、知っている限りあの三人だけだ。相手が見える距離にいねぇと妖攻は成り立たねぇからな」


 淡々と告げる綾杜に、夢叶が小さく唾を呑んだ。「三人て、椿君、風間先生、誠君の誰かっていうこと?」


「そうだ。現在いまの時点では状況証拠しかないが、可能性はかなり高い」


 ——もしかして、という微かな疑惑は、昨夜夢叶の中に芽生えていた。然し、明希人じゃ無いからと言って、その三人であって欲しい訳でも無い。

 誠は良き友人であり、麻子のことを深く想っていた。風間は夢叶のために躊躇うこと無く、大切な書物を貸してくれた。椿も誠と同様に友人である。それに昨夜は、危険をかえりみずに夢叶をまもってくれた生命いのちの恩人だ。


 鼓動がいやはやる。ごくと唾を呑む音が静かに響いた。緊張が走る中、意を決した様子で夢叶が口を開く。


「綾杜君に訊きたいことが幾つかあるんだけど」


 真剣な色が宿る眸を、促すように綾杜は見つめた。


「まず、氷柱つらら黒薔薇くろばらも、どうして明希人君の妖攻ようこうじゃ無いってわかったの?」


 すると綾杜は「簡単なことだ」と言って説明した。


「妖気は妖狐一人一人に宿っているものだ。一人一人妖気は異なる。そして、誰かの妖気を真似することはどんなに優秀でも不可能だ――逆を言えば、誰かに化けたところで妖気は変わらない。つまり、桃也の姿でも妖気は俺のままだ」


 耳を傾けていた夢叶は微かに眼を瞠った。

 

「氷柱と黒薔薇の妖気は同じものだった。だがそれは神明希人の妖気とは異なる。だから違うってわかったんだ。まあ妖気をかくすという高次元ハイレベルな方法もあるが、神明希は元々、自分の妖気をかくしてないからな」


 夢叶はそこで、え、と内心でこぼした。以前神秘の森で、椿から聞いた話がおもい出される。

 ——明希人君は、指輪にある妖気を他からは見られないよう妖術で上手くかくしてる。だから容姿が似ているとはいえ、明希人君があの時の子どもだとは最近になるまで確信が持てなかった。


「秘してない……? 指輪にある妖気も?」

「指輪? ……確かに指輪にはかくされている別の妖気もあるが、彼奴あいつ自身の妖気は秘されていない。まあそりゃそうだよな。自分の身体から発せらる妖気は秘さないで、指輪にある自分の妖気だけ秘すなんて意味不明だからな……神明希人と顔を合わせたのは昨夜が初めてだが、見かけたことなら何度かある。あんな精巧で優れた妖気、忘れるはずがねぇよ」


(じゃあ椿君は真実の中に嘘を混ぜて私に話したの……? 綾杜君の話が正しければ、自分の両親を傷つけた子どもが明希人君だと、椿君は最前とっくに知っていたはず)


 無意識に夢叶の視線が下がる。話し振りからして綾杜が嘘を吐いてるようには見えない。然し椿が嘘を吐いたとしても、その必要性も理由もすぐにはわかりそうになかった。口を閉ざした夢叶に綾杜が話を続ける。


「もし夢叶を狙う奴があの三人の誰かだった場合、其奴そいつは相当用心深く、妖気をかくすのが上手い。何故なら氷柱と黒薔薇には妖気を感じたが、三人からは妖気をまったく感じられなかったからだ」


 驚いた夢叶が静かに金色の眼を瞠る。「そんなことが可能なの?」と問うと、一度瞼を伏せた綾杜がうなずいた。


「可能だ。妖攻の妖気はかくせねぇが、自分自身が纏っている妖気や身につけている物に宿っている妖気を秘すことはできる。物にかけている妖術もな……まあ、体得するのは簡単じゃねぇけど」


 再び考え込んだ夢叶を綾杜が静かに窺うと、さらりと揺れた金色の髪から、ちらとイヤーカフが見えた。少ししてから夢叶が疑問を口にする。


「でも妖攻できる距離に居たとはいえ、そもそも三人は人間なんだから、妖術は扱えないはずだよね?」

「普通の人間だったらな——だが、人間でも条件を満たせば妖術を扱える。この世には、そういう、業が深い特殊な人間が存在するんだ」


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