50 枝垂桜と月夜の波紋
――やっぱり、ただの飴じゃなかった。
手にある飴玉を、夢叶が思わず二度見する。風間と誠はどうやら、眼にした妖術が焼肉の記憶に入れ替わってしまったらしい。舐めたら自分も、記憶が別の物と入れ替わってしまうのかもしれない、と夢叶は懸念した。そんな彼女の不安を和らげるように、桃也がくしゃと頭をを撫でる。
「安心して下さい。蜂蜜は疲労回復や、怪我の治癒を早めてくれる
桃也の説明に顔を見合わせた夢叶と椿は、幾らか緊張を和らげながら口に運んだ。じゅわと甘さが広がりながら、透明な包み紙がふわりと宙に消える。ふんわりとした蜂蜜の香りが、心地良く全身を包んでいった。
(すごい、疲れが取れて行くのが自分でも
身に覚えがあるような感覚を不思議に思っては、ちらと椿を見る。オッドアイの眼差しは、
「良かった、出血も
「桃也君、ありがとう……」
薄くなった傷跡に眼を向けたまま、椿が礼を言う。
「帰った二人が口にした焼肉味は、ご覧の通り実際に見た記憶と入れ替える飴薬です。今夜のように妖術を目撃した人間が居た場合、舐めさせて楽しい
桃也は続けて、「焼肉以外にもカラオケやボウリング、映画館、飲み会など、その場の状況に合わせた味が存在します。が、焼肉以外は基本不味いのでお勧めはしません」と苦笑しながら補足した。
静かに耳を傾けていた椿が、「どうして僕には焼肉味を食べさせなかったの?」と真顔で尋ねる。
「それは、
すると椿は、「どんな味か気になるけど、遠慮しておくよ」と緩く首を振った。「良かったです。それに俺は、貴方が言っていたことにも興味がありまして」と桃也が話を続ける。
「銀では無い、黒い
「うん、それはいいけど。銀の髪飾……その
「はい。
仄かな笑みを浮かべた桃也はそう言うと、夢叶に「帰りましょう」と言い、一瞬でその場を後にする。人通りの多い道中で二人が消えたにもかかわらず、それに気付いているのは椿だけだ。
居なくなった二人の地面を無言で見つめた後、椿は喧騒に紛れるように背を向けた。周りの人達と同じように電車に揺られ、マンションへと向かう。――「おやおや、
鼓膜を突いた中世的な男の声に、咄嗟に振り返る。と、
その女の容姿は浮世離れしていた。年齢は三十代、いや、二十代半ばくらいだろうか。左眼は髪と同じ
淡い桜色の
「僕に、一体何の用ですか」
警戒心を
「冷たいのう。
声だけを聞くと男性のようだが、外見は女性にしか見えない。だが不思議と
「僕に母親は居ない……。嘘を吐くならもっと
「
「どうしてそれを……」
「吾は今夜起きた一連の出来事を見物していてな。
紙を掴み一歩下がっては、「名前も知らない訳の分からない人の処に行けるわけがない」と椿は抵抗した。
「ああすまない、そうだったな。名乗るのを
「
「おやおや、知っているのか」と
夭漉は「くだらんな」と緩く首を振った。「独りよがりで冷たいのは、橤橤よりも
首を捻った椿に、「何だ、埀冰家は知らないのか」と夭漉は笑って酒壺を傾けた。甘い花の香りが椿の鼻腔を掠める。
「それにしても、愚かな九尾の狐より素質があるかもしれないというのに。――
「
「本当だ、と言ったところでお主は信用しないだろう。それを承知の上で話すが、吾がお主に接触したのは、恩返しをするためだ」
「恩返し……?」と椿が眉間の皺を深める。
「ああ。吾の寿命はあともう僅かだからな。本来ならとうに死んでもおかしくはなかったが……。想像以上に、
夭漉は夜空に浮かぶ月に掲げるように、酒壺を持ち上げた。その仕草は一見酔いが
「今夜の興はまだ終わっていないか……」
「何?」
些か遠くへ眼を遣った夭漉に訊き返すも、夭漉は「何時でも待っておるからな」と言い、空いてる手をひらり仰いだ。「待て、まだ話は」と口を開いた椿を制するように、夭漉は袖口から出したアームカバーを両手に装着した。黒いそれは、手首から第二関節までを
「これは吾の
「何言って……」
「恩返しと言っただろう。そもそも
夭漉はそう言うと、酒壺を持っていない左手の、親指から中指までを擦りつけるように優しく弾いた。花弁が散るように、夭漉の身体が瞬く間に消える。その光景を眼にした椿は強く息を呑んだ。
「まさか、あの人が僕の……」と小さく呟いては、自分の手にある紙切れに眼を向けるのだった。
*
夭漉と椿が別れる少し前。桃也たちは既に夢叶の部屋へと帰宅していた。慣れ親しんだ部屋に辿り着いたせいか、夢叶は身体から力が抜けてほっとする。お茶でも淹れようと夢叶が台所へ向かおうとすると、それを遮るように桃也が口を開いた。
「気遣うな。そんなことより早く寝て疲れを取れ。俺も疲れたから帰って寝るわ」
本来の口調に戻った桃也が、欠伸をしながら腕を伸ばす。その様子に、これ以上長居させるのは申し訳ないと感じた夢叶が、台所へ向かおうとしていた足を
「綾杜君。今夜は本当にありがとう。綾杜君のお陰で皆無事だった。
「大袈裟な奴……。じゃあ、今度礼してくれよ」
「もちろん。何がいいかな?」
「んー、添い寝? って冗談に決まってんだろ。また何かあったら今度こそすぐに呼べよ。今日みたいに遅れたら、解るな?」
妙な威圧が働いた黒眼に、夢叶が焦りながら肯く。解り易いその表情に、桃也はくすりと白い歯を見せて笑った。そして桃也は、銀の髪飾を通じて部屋を後にするのだった。
マンションの自室に帰った桃也は、瞬時に眼を瞠った。――外の上空から、強い
南の高い位置に浮かぶ月の下で、柔らかな銀糸を靡かせる見眼麗しい男が、桃也と同じように立ちながら浮いている。月光の影に
「よくもまあ、俺の前に姿を
「それについては否定しない――そんなことより」
と、明希人が優雅な動作で、銀の鉄扇を桃也へ向ける。刹那、桃也の全身が突如桃色の煌めきに包まれた。花弁が川に流れるように、闇夜に溶けていく。束の間、煌めきから姿を
「麻子の眼によく似ているな」
「初対面の相手に随分と失礼な挨拶じゃねえか。麻子からはお前の良いエピソードばかり聞いていたが。あれは作り話だったのかもしれねえな」
本来の口調で、綾杜は苛立ちを
「麻子は何故か、不思議なほど俺への評価が高かったからな」
「……あまりぺらぺらと麻子の話はするな。そんなことより、俺に一体何の用だ?」
鋭い眼付きを向ける綾杜を気にすることなく、明希人が答える。
「今夜も含め、夢叶を
「へえ。今夜の出来事が
「そうか」
耳を傾けていた明希人は、一度緩慢に瞼を伏せた。うつくしい白肌に柔い影が落ちる。綾杜は明希人を見定めるように
「今夜、お前がどんな想いで夢叶を助けない判断をしたのか、俺は知りたくも無い」
「俺は普段から姿を変えて生活している
「そうか。
「一ミリも誉めてねぇよ阿呆が。つうか、俺にも礼させてくれよ」
二人の空気が張り詰めていく。互いに笑みこそ浮かべているものの、眼の奥は全く笑っていない。
「馬鹿な
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