50 枝垂桜と月夜の波紋


 ――やっぱり、ただの飴じゃなかった。

 手にある飴玉を、夢叶が思わず二度見する。風間と誠はどうやら、眼にした妖術が焼肉の記憶に入れ替わってしまったらしい。舐めたら自分も、記憶が別の物と入れ替わってしまうのかもしれない、と夢叶は懸念した。そんな彼女の不安を和らげるように、桃也がくしゃと頭をを撫でる。

「安心して下さい。蜂蜜は疲労回復や、怪我の治癒を早めてくれる飴薬あめぐすりです。妖狐界隈では一般的に出回っているものです。生まれつき身体が弱かったり、体力の少ない妖狐が服用します。妖狐ほどでは無いですが、人間にも多少の効果が認められているので安心して口にして下さい」

 桃也の説明に顔を見合わせた夢叶と椿は、幾らか緊張を和らげながら口に運んだ。じゅわと甘さが広がりながら、透明な包み紙がふわりと宙に消える。ふんわりとした蜂蜜の香りが、心地良く全身を包んでいった。

(すごい、疲れが取れて行くのが自分でもわかる。でもどうしてだろう。この蜂蜜の香り、何処かで……)

 身に覚えがあるような感覚を不思議に思っては、ちらと椿を見る。オッドアイの眼差しは、氷柱つららによってできた腕の切傷きりきずに向けられていた。先刻さっきよりも明らかに薄くなっている傷跡に、夢叶が安堵するように微笑む。

 

「良かった、出血もまってきれいに治り始めてるね」

「桃也君、ありがとう……」

 薄くなった傷跡に眼を向けたまま、椿が礼を言う。口許くちもとこそ笑みを浮かべているものの、その表情は些か硬い。軽く伏せた睫毛の奥に宿るオッドアイは、薄雲のような影を落としていた。桃也が飴についての説明を続ける。

「帰った二人が口にした焼肉味は、ご覧の通り実際に見た記憶と入れ替える飴薬です。今夜のように妖術を目撃した人間が居た場合、舐めさせて楽しいおもい出に変換します。妖術の記憶を持たれるのは何かと厄介ですし、眼にした光景によってはトラウマになりかねませんからね。――まあ、妖術が視える人間なんて、異例中の異例ですが」

 

 桃也は続けて、「焼肉以外にもカラオケやボウリング、映画館、飲み会など、その場の状況に合わせた味が存在します。が、焼肉以外は基本不味いのでお勧めはしません」と苦笑しながら補足した。

 静かに耳を傾けていた椿が、「どうして僕には焼肉味を食べさせなかったの?」と真顔で尋ねる。

「それは、貴方あなたが既に夢叶の妖術を認識しているからです。妖狐や妖術についての知識もある。なので、先刻さっきの出来事を忘れさせたところで、大した意味はありません。勿論、貴方が忘れたいのであれば、改めて焼肉飴を差し上げます」

 すると椿は、「どんな味か気になるけど、遠慮しておくよ」と緩く首を振った。「良かったです。それに俺は、貴方が言っていたことにも興味がありまして」と桃也が話を続ける。

「銀では無い、黒い髪飾かみかざり何時何処いつどこで見たのか、憶い出せたらぜひ俺に教えてくれませんか?」

「うん、それはいいけど。銀の髪飾……その秘伝装具シークレットツールが何なのかは、教えてくれないんだよね?」

「はい。秘伝シークレットなので。まあでも、憶い出せば解りますよ」

 仄かな笑みを浮かべた桃也はそう言うと、夢叶に「帰りましょう」と言い、一瞬でその場を後にする。人通りの多い道中で二人が消えたにもかかわらず、それに気付いているのは椿だけだ。

 

 居なくなった二人の地面を無言で見つめた後、椿は喧騒に紛れるように背を向けた。周りの人達と同じように電車に揺られ、マンションへと向かう。――「おやおや、を舐めた割には、随分と顔色が悪いじゃないか」

 鼓膜を突いた中世的な男の声に、咄嗟に振り返る。と、鎧戸シャッターの降りた商店街の脇道から一人のが顔を出した。「九尾の狐」、と椿が眼を瞠りながらこぼす。

 その女の容姿は浮世離れしていた。年齢は三十代、いや、二十代半ばくらいだろうか。左眼は髪と同じ灰桜色はいざくらいろで、右眼は梅鼠色うめねずいろをしていた。椿自身もオッドアイということもあり、普段から人眼ひとめく。だが女の容姿はそのではなかった。

 淡い桜色の単衣ひとえ着物を着たその女は、そでが煩わらしいのか、少し持ち上げるみたいに、肘辺りで固定するように紐で結ばれている。着物には所々に蝶の柄が浮かんでいた。肩まである灰桜色はいざくらいろの髪はウェーブがかっており、前髪は無造作に左右で分けられている。何より特徴的なのは、その色よりも、所々の毛先を飾るようにして付いている花弁はなびらだ。本物のようなそれは、下睫毛の先にも付いている。――そんな彼女の奇怪なうつくしさは、夜に咲く枝垂桜しだれざくらを連想させた。女は右手にある酒壺さけつぼを傾け、ひっくとあおる。


「僕に、一体何の用ですか」

 警戒心をかくすことなく椿が尋ねる。

「冷たいのう。われはおぬしの母親のような存在でもあるというのに」

 声だけを聞くと男性のようだが、外見は女性にしか見えない。だが不思議と違和感ぎゃっぷは感じられなかった。椿があからさまに顔を顰める。

「僕に母親は居ない……。嘘を吐くならもっとましなものにしてくれないか」そう言うと女は、やれやれと言った風に肩を竦めた。

われはお主が思っているような種類の母親ではない、少し違う。まあそう警戒するな。吾はお主が憶い出し始めた、黒い髪飾について話しに来ただけなのだから」

「どうしてそれを……」

「吾は今夜起きた一連の出来事を見物していてな。すべて把握している。お主が銀の髪飾を見て動揺したこともな。――知りたいと思わないか? 黒い髪飾について知りたいのなら、後日此処まで会いに来るといい」と、椿の胸に紙切れを突きつけた。女の爪先はきれいに整えられており、花弁の爪化粧ネイルが施されている。

 紙を掴み一歩下がっては、「名前も知らない訳の分からない人の処に行けるわけがない」と椿は抵抗した。

「ああすまない、そうだったな。名乗るのを迂闊うっかり忘れていた。われの名は橤橤夭漉ずいずいわかこ。美と酒をこよなく愛する九尾の狐だ。性別は蝸牛かたつむりのようなものだとでも思ってくれ」

橤橤ずいずい……? もしかして橤橤家の末裔か?」

「おやおや、知っているのか」と夭漉わかこが口角を上げると、「偶然書物で眼にしただけだけどね。……酒狂いで独りよがりの一族、と書いてあったのは憶えているけど」

 夭漉は「くだらんな」と緩く首を振った。「独りよがりで冷たいのは、橤橤よりも埀冰たるひ家だろう」

 首を捻った椿に、「何だ、埀冰家は知らないのか」と夭漉は笑って酒壺を傾けた。甘い花の香りが椿の鼻腔を掠める。

「それにしても、愚かな九尾の狐より素質があるかもしれないというのに。――とは、実に残念なことだ」と椿のオッドアイを見ながら弧を描く。椿は眉間寄せ、軽く睨んだ。


態々わざわざ僕に会いに来たのは、本当に黒い髪飾について話すためか? ……信用できない」

「本当だ、と言ったところでお主は信用しないだろう。それを承知の上で話すが、吾がお主に接触したのは、恩返しをするためだ」

「恩返し……?」と椿が眉間の皺を深める。

「ああ。吾の寿命はあともう僅かだからな。本来ならとうに死んでもおかしくはなかったが……。想像以上に、鱈腹たらふく美味い酒を飲ませてもらったからな」

 夭漉は夜空に浮かぶ月に掲げるように、酒壺を持ち上げた。その仕草は一見酔いがまわっているようにも見える。軽く吐息をこぼした椿が首を捻ると、夭漉はぼそっと言った。

「今夜の興はまだ終わっていないか……」

「何?」

 些か遠くへ眼を遣った夭漉に訊き返すも、夭漉は「何時でも待っておるからな」と言い、空いてる手をひらり仰いだ。「待て、まだ話は」と口を開いた椿を制するように、夭漉は袖口から出したアームカバーを両手に装着した。黒いそれは、手首から第二関節までをかくしている。

 

「これは吾の妖攻具ようこうぐだ。会いに来た時は、記念にこれをお主にやろう」

「何言って……」

「恩返しと言っただろう。そもそもわかっておるはずだ。今のままでは自分はおろか、大事な人の心胸こころを救うことも出来ないと。ではまたな、遊馬椿」

 夭漉はそう言うと、酒壺を持っていない左手の、親指から中指までを擦りつけるように優しく弾いた。花弁が散るように、夭漉の身体が瞬く間に消える。その光景を眼にした椿は強く息を呑んだ。

「まさか、あの人が僕の……」と小さく呟いては、自分の手にある紙切れに眼を向けるのだった。



 夭漉と椿が別れる少し前。桃也たちは既に夢叶の部屋へと帰宅していた。慣れ親しんだ部屋に辿り着いたせいか、夢叶は身体から力が抜けてほっとする。お茶でも淹れようと夢叶が台所へ向かおうとすると、それを遮るように桃也が口を開いた。

「気遣うな。そんなことより早く寝て疲れを取れ。俺も疲れたから帰って寝るわ」

 本来の口調に戻った桃也が、欠伸をしながら腕を伸ばす。その様子に、これ以上長居させるのは申し訳ないと感じた夢叶が、台所へ向かおうとしていた足をめた。

「綾杜君。今夜は本当にありがとう。綾杜君のお陰で皆無事だった。生命いのちの恩人だよ」

「大袈裟な奴……。じゃあ、今度礼してくれよ」

「もちろん。何がいいかな?」

「んー、添い寝? って冗談に決まってんだろ。また何かあったら今度こそすぐに呼べよ。今日みたいに遅れたら、解るな?」

 妙な威圧が働いた黒眼に、夢叶が焦りながら肯く。解り易いその表情に、桃也はくすりと白い歯を見せて笑った。そして桃也は、銀の髪飾を通じて部屋を後にするのだった。

 

 マンションの自室に帰った桃也は、瞬時に眼を瞠った。――外の上空から、強い妖気ようきを感じる。解り易く発せられるそれに、桃也の口角が愉し気に持ち上がる。綾杜の姿に戻ること無くベランダへ出ると、とんと足を浮かせては軽々と宙に浮いた。

 南の高い位置に浮かぶ月の下で、柔らかな銀糸を靡かせる見眼麗しい男が、桃也と同じように立ちながら浮いている。月光の影にかくれているオッドアイは、どんな感情を浮かべているのか解らない。だがその口許くちもとには薄らと笑みが浮かんでいた。その手には、まんと書かれた銀の鉄扇が握られている。

「よくもまあ、俺の前に姿を出現あらわせますね。元恋人の危機を知っておきながら助けに来ないなんて、悪趣味にもほどがありますよ?」

「それについては否定しない――そんなことより」

 と、明希人が優雅な動作で、銀の鉄扇を桃也へ向ける。刹那、桃也の全身が突如桃色の煌めきに包まれた。花弁が川に流れるように、闇夜に溶けていく。束の間、煌めきから姿を出現あらわしたのは桃也では無く、綾杜だった。

 

「麻子の眼によく似ているな」

「初対面の相手に随分と失礼な挨拶じゃねえか。麻子からはお前の良いエピソードばかり聞いていたが。あれは作り話だったのかもしれねえな」

 本来の口調で、綾杜は苛立ちをかくすことなく言った。煩わらしそうに桃色の髪を後ろへ流す。

「麻子は何故か、不思議なほど俺への評価が高かったからな」

「……あまりぺらぺらと麻子の話はするな。そんなことより、俺に一体何の用だ?」

 鋭い眼付きを向ける綾杜を気にすることなく、明希人が答える。

「今夜も含め、夢叶をまもってくれた礼を言いたかっただけだ」

「へえ。今夜の出来事がとは言え、夢叶を最悪な形で傷付けた本人が礼を言うなんて、ふざけた話だ。言っておくが、夢叶を護るのはお前のためじゃない。麻子と俺のためだ」

「そうか」

 耳を傾けていた明希人は、一度緩慢に瞼を伏せた。うつくしい白肌に柔い影が落ちる。綾杜は明希人を見定めるように凝然じっと視線を送っては口を開いた。

 

「今夜、お前がどんな想いで夢叶を助けない判断をしたのか、俺は知りたくも無い」

 判然はっきりと口にした綾杜に、明希人の眉が僅かに反応する。

「俺は普段から姿を変えて生活している化狐ばけぎつねだが、お前ほど恐ろしい化狐には逢ったことがねえよ」

「そうか。め言葉として受け取っておく」

「一ミリも誉めてねぇよ阿呆が。つうか、俺にも礼させてくれよ」

 二人の空気が張り詰めていく。互いに笑みこそ浮かべているものの、眼の奥は全く笑っていない。

「馬鹿な従妹いとこを傷つけた礼をなあっ……!」

 はげしい叫びと共に、桃色の強い光を纏った綾杜が、物凄い速さで明希人へ猛進する。号砲どん! と大きな轟音が夜空に響く中、何色もの閃光ネオンが二人を包んだ。耀かがよ煙霧えんむが舞う中、凄まじい速さで宙を飛び交う二人の姿を、白い月と蝶が眺めていた。

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