27 憶い出


「まさか九尾の狐が同じ中学にいるなんて。それも同学年に」


 放課後、アスファルトに向かってぼそっと呟く。


 ――九尾の狐は、妖狐の中で最も希少な種族なんだ。だから出会える機会は中々ない。

 ――でもきょう君は会ったことがあるんでしょ? やっぱり怖い妖狐なの?

 ――それは麻子がいつか九尾の狐に出会った時に、自分の眼で確かめてみるといい。


 以前話した慶君との会話をおもい出しながら、寄り道するみたいに帰路を歩く。夢叶ちゃんと会ったあの日以来、私は知らない道を散歩するのにすっかりはまっていた。変わった自動販売機や、面白い看板などを見ると胸が高鳴る。それが私のささやかな幸せだった。自慢出来るほどではないけど、記憶力はいい方だから、迷ったり困ったことは一度もない。でもあんまり長く散歩をすると、慶君と梗子ちゃんに心配を掛けちゃうからほどほどにって決めている。

 私が通う中学は、商業施設などが立ち並ぶ賑やかな大通りから離れていない場所にあった。そんな大通りから眼に入った細い脇道を抜けると、線路沿いの長閑のどかな住宅街へと出る。電車の走行音はうるさくなく、寧ろ心地いい。線路脇に咲く草花たちを見ながら穏やかな気持ちでただ歩く。「夢叶ちゃん……?」


 前方に、歩道橋を渡ってきたと思われる一人の女の子が視界に入った。少し先を歩いているその子はブレザーの制服を着ていて、あの日見た特別なきらめきを背中に揺らしている。身長も髪も、あの頃より伸びている。線路脇に咲く植物と、その周りを軽やかな動きで飛び廻る蝶を見つめる横顔は、一緒に薔薇を見た可憐な笑みと重なる。髪とおんなじ、きらきらゴールドの眸。ひゅっと息を呑む、間違いないあの子は――「呼ぶな、麻子」


 唐突な静止に加え、誰かに手首を掴まれる。痛くはないものの、容易には解いてくれそうに無い力加減と低い声に眉間を顰めた。何なの? しかも何で私の名前を知ってるのよ。恐怖からはほど遠い嫌悪が生まれる。何より再会を邪魔をされたことが許せず、勢いよく振り返った。


「随分と偉そうな態度だけど、失礼にもほどがあるんじゃない? 九尾の狐が一体何の用? ていうか、どうして私の名前知ってるのよ」


 冷ややかなオッドアイが重なる。学ランを着たその男は、今朝見た例の銀髪男だった。嫌悪が遥かに勝るせいか、その美貌を間近に見ても恍惚うっとりしない。寧ろ完璧さを訴えられている気がして不快だ。胸の底がじわじわと悪くなる。銀髪男は失礼にも、私の手首を持ったまま口を開いた。


「神明希人」

「は?」

「俺の名前だ。種族で呼ぶな」


 表情も口調も淡々としているため、この男の感情を読み取ることはできそうにない。ただ他人ひとの神経を逆撫でする才能に優れていることだけは解る。外見通り、声まで凍っているみたいに冷ややかだ。募る苛立ちに、顳顬こめかみがひくと痙攣する。


「やめてくれない? その上からな態度。名前を知らなかったんだからしょうがないでしょう。それとも何、あまりにもモテるから、女子全員が俺の名前を知っていて当然あたりまえだとでも思ってるわけ?」


 ふんっと大袈裟な鼻息を加えながら言い返すと、神明希人は一瞬眉を顰め、ため息をこぼした。


「どうだっていい。そんなことに興味はない」

「へえ、そう? 関心が無さすぎるのも、それはそれで失礼な気もするけど」嫌味のように言ってやると、今度は煩わしそうな顔を作る。それは私の方だと内心で指摘してやった。

 神秘的なオッドアイも、整った鼻筋や輪郭も確かにきれいだけど、それを凌駕してしまう難がこの男には在る。愛想というものを総て捨て去ってしまったような感じだ。女子からあれほどの羨望を集める価値が、本当にこの男にあるんだろうか? 「ていうか、私の質問にちゃんと答えてくれない?」睨みながら訴えると、無愛想に言った。


「用はお前を停めること。名前を知っているのは、子どもの頃に夢叶からお前の話を聞いたことがあるからだ」

「は……え? ってちょっと待って。夢叶ちゃんの姿が見えないんだけど」


 予想外の話に驚くものの、何時の間にか見えなくなった姿に焦りでいっぱいになる。神明希人は落ち着き払った様子を崩すことなく続けた。


「ああ。つい先刻さっき駅の改札に入って行ったからな」

「はぁ? もういいっ、追いかけるから」きっと睨む。「今朝みたいに妖術を使うつもりか?」と銀髪男は更に癇に触ることを言った。

「見てたの? 悪趣味ね。それよりいい加減手を離してくれない?」

「夢叶を追わないと約束するならすぐに離す」

「嫌よ。彼女はずっと会いたかった友達なの。断るに決まってるでしょ!」


 手を離そうとぶんぶん振り回すものの、当の本人は相変わらずの顔をしていて、それがまた更に私の神経を刺激する。神妙な顔を作った銀髪男は、少し間を置いてから言った。


「悪いが、会いに行った処で夢叶は麻子のことを憶えていない」

「え……何言ってるの……何の冗談」


 急に、蝋燭ろうそくの火が消えるみたいに苛立ちが霧散むさんし、得体の知れないものが広がる。――憶えてない? 内心で復唱しながらオッドアイを見るも、その顔に否定は見えない。何故? どうして? 悪い冗談だと笑ってくれたらいいのに。気が張っていた身体から力が抜ける。神明希人が微かに睫毛を伏せた。


「夢叶は、生まれた時から八歳になるまでの記憶がすべて無い」

「どうして、じゃあ……」と続けようとしたその時、知らない声が入り込んだ。


「おい明希人。勝手に居なくなるよ」

「誠、悪い」


 私たちの傍へ駆け寄ってきた男子は、今朝明希人と話していた黒髪君だった。何処となく明希人に似たクールな雰囲気がある。誠と呼ばれたその男子は、私の顔を見ると何故か自分の口許くちもとを片手で覆った。指の透き間から覗く頬は、心胸こころなしかほんのりと赤くなっているように見える。


「名前を、訊いてもいいか?」

「葛木、麻子だけど……」


 奇妙な態度に首を捻る。でも何だか、黒髪君の方が性格も雰囲気も柔らかそうだ。

「麻子って呼んでもいいか?」と躊躇うように訊かれたので素直に頷くと、黒髪君は「矢歌誠」と名乗ってから「よろしく」とほのかな笑みを見せて挨拶した。

 こちらこそよろしくと言って笑みを浮かべると、誠は何故か両手で自分の顔を覆った。その奇妙な態度に私は更に首を捻る。神明希人の友達みたいだし、やっぱり少し変わってる人なのかもしれないと思っていると、無愛想だった男が小さな笑みを浮かべていて少し驚いた。

 あれ、何時の間にか手首が解放されてる。はっとした私は、聞こえてきた電車の発車音に意識を移した。走行する電車に降り注ぐ陽射しは、あの日とよく似た真っ赤な夕陽で。あっという間に距離が開いていく彼女に、幼い頃の笑顔が茫然ぼんやりと重なる。


 ――もしかして、明希人のことも憶えてないの?


 先刻さっきたずねようとしていたことを憶い出し銀髪男を見る。でもその疑問は声にならないまま、喉奥に留まることなく消えた。既に見えなくなった幻影を見つめる表情には、慈しむような神聖さがあり、また怒りや恐ろしさといった情も混在している。明らかに矛盾しているように見えるのに、底の見えない深みが在った。

 胸の奥が急に締め付けを帯びる。つい唇の両端を噛んでは、今朝はしゃいでいた女子たちが思い浮かんだ。外見ばかりを見て定めていたのは、本当は何方どっちだろう。羞恥と愚かさが掛け巡る。先刻までの威勢は何処に消えたのか、私はもう何も言えなくなった。

 

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