第5話 憶い出


「まさか九尾の狐が同じ中学にいるなんて。それも同学年に」とぼそっと呟く。


 ——九尾の狐は、妖狐の中で最も希少な種族なんだ。だから出会える機会は中々ない。

 ——でも慶君は会ったことがあるんでしょ? やっぱり怖い妖狐なの?

 ——それは麻子がいつか九尾の狐に出会った時に、自分の眼で確かめてみるといい。


 その日の放課後。以前話した慶君との会話をおもい出しながら、私は一人歩いていた。夢叶ちゃんと会ったあの日以来、私は知らない道を散歩するのにすっかりはまっていた。変わった自動販売機や、面白い看板などを見るのが楽しくて。それは私の小さな幸せだった。

 今日も寄り道をしながら知らない道を歩く。自慢できるほどではないけれど、記憶力はいい方だから困ったことは一度もない。でもあんまり長く散歩をすると、慶君と梗子ちゃんに心配を掛けちゃうからほどほどにって決めている。

 私が通う中学は、商業施設などが立ち並ぶ賑やかな大通りから離れていない場所にあった。そんな大通りから眼に入った細い脇道を抜けると、線路沿いの長閑のどかな住宅街へと出る。電車の走行音はうるさくなく、寧ろ心地いい。線路脇に咲く草花たちを見ながら穏やかな気持ちで特に目的もなく歩く。すると歩道橋を渡ってきたと思われる一人の女の子が前方に見えた。


「夢叶ちゃん……?」


 少し先を歩いているその子はブレザーの制服を着ていて、あの日見た特別な煌めきを背中に揺らしていた。身長も髪も伸びている。線路脇に咲く植物と、その周りを軽やかな動きで飛び回る蝶を見つめるその横顔は、一緒に薔薇を見た可憐な微笑みと重なる。髪とおんなじ、きらきらゴールドの眸。間違いないあの子は——「呼ぶな、麻子」


 会いたかった人の名前を呼ぼうとしたその時。突然後ろから呼び止められ、誰かに片腕を掴まれた。痛くはないものの、容易には離してくれそうにない不気味な力と知らない声に、嫌悪と苛立ちが湧き上がる。何より再会を邪魔をされたことが許せない。私は眉間に強く皺を寄せながら勢いよく振り返った。


「何なの。失礼にもほどがあるんじゃない? ていうか九尾の狐が私に何の用? どうして私の名前を知ってるの?」


 冷ややかな眼差しで私を見る男は、何と今朝見た例の男だった。でも今の私にあるのは驚きでもなければときめきでもない。あるのは不愉快さだけ。すると氷のように冷たい雰囲気を発する男は、私の腕を掴んだまま言った。


「神明希人」

「は?」

「俺の名前だ。種族で呼ぶな」


 表情も口調も淡々としているため、この男の感情を読み取ることはできそうにない。ただ他人ひとの神経を逆撫でする才能に優れていることだけは解る。外見通り、声まで凍っているみたいに冷ややかだ。私は特に苛立ちをかくすことなく口を開いた。


「その上からな態度やめてくれない? 名前を知らなかったんだからしょうがないでしょう。それとも何、あんまりにもモテるから、女子全員が俺の名前を知っていて当然だとでも思ってるの?」


 ふんっと大袈裟な鼻息を加えながら言い返す。明希人は一瞬眉を顰め、ため息をこぼして言った。


「俺はそんなことに興味はない」

「へえそう。関心が無さすぎるのも、それはそれで失礼な気もするけど」と嫌味のように言ってやると、明希人は少し煩わしそうな顔をした。それは私の方だと内心で指摘する。

 神秘的なオッドアイも、整った鼻筋や輪郭は確かにきれいだけど、それを壊してしまうくらいの難がこの男にはある。愛想というものがまるでない。女子からあれほどの羨望を集める価値がこの男にあるんだろうか——「ていうか、私の質問にちゃんと答えてくれない?」と軽く睨みながら訴えると、明希人は無愛想に言った。


「用はお前を止めること。そして名前を知っているのは、子どもの頃に夢叶からお前の話を聞いたことがあるからだ」

「は……ってちょっと待って。夢叶ちゃんの姿が見えないんだけど」


 予想外の話に驚くものの、いつの間にか見えなくなっていた姿に焦りでいっぱいになる。すると明希人は落ち着いた様子を崩すことなく憶い出したように言った。


「ああ。つい先刻さっき駅の改札の方に入っていったからな」

「はぁ? もういい! 追いかけるから」ときっと睨みつける。すると「今朝みたいに妖術を使うつもりか?」とその男はさらに癇に触ることを言った。

「見てたの? 悪趣味ね。それよりいい加減手を離してくれない?」

「夢叶を追わないと約束するならすぐに離す」

「嫌よ。彼女はずっと会いたかった友達なの! そんなの断るに決まってるでしょ」


 腕を掴む明希人の手を離そうとぶんぶん振り回すものの、離れる気配がまるでない。苛立ちが怒りへ段階を上げるも、当の本人は相変わらずの顔をしていて、それがまたさらに私の神経を刺激する。明希人は少し間を置いてから言った。


「悪いが、会いに行ったところで夢叶は麻子のことを憶えていない」

「え、突然何言ってるの……何の冗談」


 耳に訴えたそれに狼狽うろたえる。流石に笑えない冗談だと想った。募らせていた苛立ちが、ろうそくの火が消えるみたいに霧散むさんし、代わりに得体の知れないものが襲う。身体から急に力が抜けた。私の手が震えているのか。それとも私の腕を掴む、この男の手が震えているのか。


「夢叶は生まれてから八歳になるまでの記憶すべてがない」

「どうして、じゃあ……」


 もしかして、と続けて訊こうとした束の間。私たちの間に入るようにして一人の男の声が聞こえてきた。


「おい明希人。勝手に居なくなるよ」

「誠、悪い」


 私たちの傍へ駆け寄ってきたその男は、今朝明希人と話していた黒髪男だった。何処となく明希人と似たクールな雰囲気がある。誠と呼ばれたその男子は、私の顔を見ると何故か自分の口許くちもとを片手で覆った。指の隙間から覗く頬は、心胸こころなしかほんのりと赤くなっているように見える。


「名前を、訊いてもいいか?」

「葛木麻子だけど……」


 ふいな質問に首を捻りながら答える。明希人と似た雰囲気があるものの、どうやら黒髪男の方が性格が良さそうに映った。

「麻子って呼んでもいいか?」と何故か躊躇うように訊かれたので素直に頷くと、黒髪男は「矢歌誠」と名乗ってから「よろしく」とほのかな笑みを見せて挨拶した。

 こちらこそよろしくと言って笑みを浮かべると、誠は何故かさらに両手で自分の顔を覆った。その不思議な行動に私もさらに首を捻る。少し変わってる人なのかもしれないと思っていると、無愛想な男が小さな笑みを浮かべていて少し驚く。

 そんな明希人がいつの間にか私の腕を解放していることに気がつき、聞こえてきた電車の音へ意識を移した。走行する電車に降り注ぐ陽射しは、あの日に似た真っ赤な夕陽で。離れていく彼女に幼き笑顔の面影が重なる。


 ——明希人のことも憶えてないの?


 先刻さっきたずねようとしていたことが憶い出され口を開く。でもその疑問は声にならないまま、喉奥に留まることなく消えた。既に見えなくなった電車を見つめる顔には、雰囲気からかけ離れた優しさがあり、静かな怒りの類があり、そして想像に及ばない恐ろしさがある——少なくとも私の眼にはそう映った。途端に、羞恥に似た愚かさを自分に覚える。先刻までの威勢は何処に消えたのか、私はもう何も言えなくなった。


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