青くて蒼くて碧い影

宇波瀬人

イントロダクション

ボーイ・ミーツ・ドッペルゲンガー



 夏休みが終わり、二学期がはじまる初日のことだった。

 

 暦が八月から九月に変わろうとも暑さがなくなることはなく、家中に籠る熱気によって叩き起こされる。

 

 夏休み中の夜更かしが祟り、脳の奥底から湧き上がる二度寝への欲求と格闘しながら洗面所に向かう。トドメとばかりに冷水を顔面にぶっかけ、髭を剃り、髪をセットして、一通りの身支度を済ませる。

 

 そして、朝ご飯を食べようとリビングに入ったときだった。


「やぁ、おはよう。ソウタ」

 

 ただでさえ憂鬱な平日の朝に加えて、夏休みが終わったという事実に絶望する俺とは対照的に、爽やかな笑顔を貼り付ける――俺が、いた。


「…………はい?」


 なにを言っているのだろう、俺は。暑さと眠気のあまりにとち狂って、幻覚でもみているのだろうか。それとも、母さんがリビングに姿見でも新しく置いたのだろうか。

 

 まったく、寝ぼけるにもほどがある。夏休みボケもいい加減にしとけよと自嘲しながら瞼を擦り、捉える。

 

 依然として朗らかな笑みを浮かべる――俺を。


「……えーっと」

 

 正確には、現在の俺自身ではない。

 

 完全な黒とはいえず、若干の栗色が混ざった髪は、毛先が肩口をくすぐる程度に長さがある。こちらを見据える瞳は丸くて大きく、星々を散らしたようにキラキラとした輝きを湛えていて、朝日を照り返す肌は白く、そんな真っ白な顔に、発色のいい桃色の唇が彩りを添える。

 

 限りなく少女に近いその容姿は、先ほど洗面所で対面した辛気臭い顔の俺とは似ても似つかない。しかし、俺がそれを自分だと認識したのは、女の子みたいとからかわれていた幼少期の俺に似ていたからだった。


「……なに、あの頃に戻りたいっていう願望がみせる幻覚ってこと?」

 

 だとしたら、重症だ。学校に行っている場合ではなく、いますぐに病院に駆け込むべき案件だ。

 

 まさか、自分がそんなことになるんなんてと朝っぱらから絶望する俺に――もう一人の俺が、ケタケタと笑う。


「大丈夫だよ。キミは病気なんかじゃない。これはちゃんとした、現実だよ」

 

 そう宣って、もう一人の俺が椅子から立つ。ほっほっと、ケンケンパの要領でこちらに近づいてくるが、俺はふと違和感を覚える。

 

 片足で跳ぶたびに揺れる髪から漂う甘い香り。体格は小さく、身体つきはどことなく丸みを帯びている。極めつけは声だ。

 

 第一声は驚きのあまり記憶にはないが、『これは現実だよ』と口にした際の声音は高く澄んでいて、まるで鈴の音みたいだった。

 

 これじゃあ、昔の俺とかじゃなくて――。


「えへへ、信じられないって顔だね」

 

 俺が思考に耽っている間に、もう一人の俺がすぐ近くにまでやってくる。あどけない顔立ちをしわくちゃにさせて無垢に笑うそれは、前触れもなく俺の手を取る。

 

 そのあまりの柔らかさに、反射的に手を引っ込めそうになる俺の手を強く握り込んで、もう一人の俺が呟く。


「なら、証拠をみせるね」


「……証拠?」

 

 なにをするつもりなんだ。

 

 そう問い掛ける間も与えられずに俺の手は誘われる。――もう一人の俺の、胸元へと。


「……は?」

 

 直後、掌からぐにゃりとした感触が伝わってくる。そして、指が溶け込むように沈んでいく。

 

 男であるはずの、もう一人の俺の胸に。


「うわぁ!?」

 

 未知なる感覚に愕然とした俺は、情けない悲鳴を上げて飛び退く。勢い余って尻もちをつく俺に、もう一人の俺がケタケタと腹を抱えて笑う。


「おおおおお、お前まさか……!」

 

 こいつは、もう一人の俺なんかじゃない。


「女! ……なのか!?」


「ぷはははっ。傑作だね、キミのリアクション。そうだよ。ボクは女の子。でも、ボクはキミ自身でもあるんだよ。ソウタ」


「は? なにいってんだよ。俺は男だ。それに、大体お前はなんなんだ?」


「ボクは碧(あおい)。キミの中にある別の可能性っていうのかな? 有り体にいえば、ドッペルゲンガーってやつだね、うん」


「……ドッペルゲンガー?」

 

 なにやらもう一人の俺――碧と名乗る奴は満足気だが、俺としては到底信じられない。

 

 当然だ。ある日、目覚めたら自分そっくりのドッペルゲンガーがいました。しかも、そいつは女体化していますなんて事実、簡単に認められるわけがない。あるとしたら、俺によく似た少女が勝手に不法侵入して、悪戯をしているとしたほうがまだ信じられる。


「……ドッペルゲンガーっていうなら、俺のことは何でも知ってるんだよな?」


「うん、もちろん! なんせ、ボクはもう一人のキミだからね」


「なら、俺についての情報をいってみろ。俺しか知らない情報も含めてな」


「それくらい、お安い御用だよ! 氏名は藍田蒼汰(あいだそうた)。年齢は十七歳、高校二年生。誕生日は5月8日。好きなものは、からあげと、同じクラスのアカバネツバサさん」


「……は? おい、ちょっと」

「趣味は読書……にしてるけど、嘘。ほんとはギターで、作詞もしてる。はじめての曲の名前は、『世界を鳴らす鐘』」


「……まて」


「交友関係は狭い。出身中学校が同じのヨミカワツムグくんと話すくらいで、ラインの友達数は一桁。交際歴も当然なくて、アカバネさん以外の女の子とろくに接したことがない。ちなみに、女の子の好みは髪が短くて、明るくて優しい子。あと、胸がほどよく大きくて――」


「待ってくれ!」

 

 意気揚々とまくし立てる碧を、絶叫することで黙らせる。どことなく物足りなさそうに唇を尖らせる碧に、俺は額をおさえて息を吐く。


「……お前、マジなのか?」


「だーから、そう言ってんじゃんか。ボクはキミの……藍田蒼汰のドッペルゲンガーだってさ。でも、完全にキミと同じわけじゃない」

 

 その証拠がこれ、と碧は胸をわざとらしく張り上げる。


「ボクはキミと、対をなす存在だ。だからボクは女だし、よく笑う。根暗で卑屈なキミと違ってね」


「……そりゃ、悪かったな。で? そんな俺のドッペルゲンガーが、なんの用だよ。なにをしに、俺の前に出てきたんだ?」


「あはは、まぁそこが気になるよね。んー、なんていえばいいか難しいけど……。ボクはさ、勝負しにきたんだよ」


「勝負?」


「そう、勝負」

 

 にやりと不敵に笑んで、碧は肩を竦める。


「さっきのソウタのプロフィールだけどさ、ソウタには嫌いなものが一つある。それはなんだか、わかるよね?」


「……」


「自分自身だよ。キミは、キミが嫌いなんだ。でもさぁ、そんなキミに人格の主導権を握らせるの、ボクは嫌なんだよね。藍田蒼汰には、自分を好いて、胸を張って生きてもらいたいんだ」

 

 碧の表情から、はじめて笑みが抜け落ちる。

 途端、暖かなぬくもりがなくなり、底冷えするような冷たい光を眼差しに込めて、俺を見下ろす。


「だから、勝負をしようよ、ソウタ。ボクと、自分自身を賭けて――存在証明をしよう」

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