第40話 翼を失った体

 大樹の木から「入った」リーチェの空間に世話になって十日。それまで、一日のほとんどを治療に充てていたリーチェがようやく「もう大丈夫だ」と告げた。そんなに時間がかかるなんて、とヘルムートは驚く。


「こんなに時間がかかったのは初めてだ。まじで無理かと思った。きっと、よほど立派な翼だったんだろうなぁ」


 と、リーチェはふらふらになりながらヘルムートに言った。その言葉の意味をヘルムートはよくわからなかったが、なんにせよユリアーナが助かったのだと言うことだけは理解をする。


 ヘルムートはヘルムートで結局高熱を出して、あれから3日以上眠っていたので、リーチェいわく「面倒なやつがいなくて済んだ」と酷い言われようだ。


「やっと、彼女も目が覚めている時間が増えて来た」


 聞けば、ユリアーナは一日で目覚めている時間がほんの数分という状況で、ずっとうとうとと眠っていた。いつ死んでもおかしくないような状態で。その状態から脱出するまで、絶え間なく術を施し続けていたのだとリーチェは言う。


「でも僕も休まないとやってらんないからさぁ。休んで戻ってきたら、まあそりゃ少し悪化してるよねぇ」


 数歩進んで数歩下がる、を繰り返しながらの10日間だったのだとリーチェは言った。


「そんなわけで、僕はこれから数日寝る。彼女はまだあまり動かしちゃいけない。数日後には、あれだな。湯あみでもするといい。今でも一日に一時間起きてないぐらいだから、無理やり起こすなよ」


「ありがとうございます……感謝します」


「おうおう。感謝してくれ! もっと!」


「も、もっと?」


「そうだよ。いやぁ、本当にまじで大変だったんだから……」


 とリーチェが言えば、ガートンが現れて「リーチェ様、お部屋の準備出来ました。眠ってください」と言う。リーチェは「じゃ」と言って、フラフラと自分の部屋へと去ってしまった。


「部屋の準備?」


「術後のリーチェ様は、数日寝だめをするので、快適な状況にしておかねばならない」


 リーチェの部屋に食べ物飲み物の準備をして、目が覚めて手を伸ばせばパン、手を伸ばせばスコーン、手を伸ばせば果実酒や水、という状況を作っておくのだという。ヘルムートはすっかり驚いて


「それは贅沢だが、10日間も治療をしていれば、それぐらいのことをしたくもなるだろうな……ほとんど寝ずに過ごしたのだろうし」


と、半ば呆れながら言った。ガートンも苦笑いを見せる。


「そして、起きたら豪勢な食事を要求される」


「そうか。しかし、それならまだ安心した。パンやスコーンだけで暮らしているのかと……」


「あの方は、まったく食べずに生活する時期と、とんでもない健啖家になる時期がはっきりしている。きっと、お前も驚くだろう」


 どこまでも規格外なのだな……とヘルムートはうなった。


 ユリアーナはリーチェが言ったように、一日に起きていられる時間が少なかった。体内では翼を失ったせいで足りない成分を作り出したり、翼に送るための成分を持て余したり、それらが折り合いをつけるまでに数日かかるのだと言う。その際に起きる痛みを緩和するために薬を飲むが、その薬のせいで起きていられなくなるらしい。


 背の痛みもまだ続く。そんな中、ユリアーナは一度目覚めた時に「胸が潰れて痛い」とだけ呟き、リーチェを大いに笑わせた。当人にとっては笑いごとではなく、息苦しさもあるので今は横向きになっている。床ずれを防ぐために、定期的に体を動かしてやらなければいけないので「横向き大いに結構! うつ伏せだけよりましだ!」とリーチェは言った。


 それから、食事はほとんど口にしていなかったが、目覚めた時間に無理やり食べさせなければいけないと言われた。だが、何時に目覚めるのかがわからないので、ガートンとヘルムートが交代で見ている。そして、食べると言っても本当に一口二口で再び寝る。水も飲む。そして、排泄すらせずに延々と寝る。


 ヘルムートは彼女のベッドの横で、一人用のソファに座って書物を読んでいた。リーチェの家には至る所に本が積みあがっていて――もちろん書架にも大量にあったが床にも積んである――書物には困らない。それだけの量があれば、いくらかヘルムートでも気になるものがみつかるようだ。


(書物を読むなんて、久しぶりだな……ずっと、何をしていたんだか……)


 5回目だ。それまで、再び時間が戻っては、テレージアを救おうとして来たが、その時点ですでに彼は学問からは遠ざかっていたため、そう書物を読むことはなかった。だから、やたらと久しぶりに感じる。


 なんだか、憑き物が落ちたような気がする。テレージアの容態は勿論気にはなっているが、もう「テレージアのためにラーレンを殺す」ことに囚われなくて済むのだと思えば、すっと心が軽くなったように思う。どれほど、自分がそのことだけを目的に生きていたのかが、今ならば十分にわかる。


「う……」


 ユリアーナは眠ったまま唸った。横向きになっている彼女を見て、その背に翼がないことを改めてヘルムートは確認する。


――翼を失ったラーレンは、空そのものを失う――


 ガートンの言葉を思い出す。思えば、ユリアーナはヘルムートの前では空を飛んだことがほとんどなかった。だが、それは翼が黒から白になる途中だったからなのだろうと今ならわかる。


(本当は、美しかったのだろうな)


 ユリアーナが白い翼で空を飛ぶ姿。もう見られないその姿を想像して、ヘルムートは眉根を寄せた。彼女の背に翼があった姿は、あの雨の中のほんのひと時しか見ることが出来なかった。いけない。こんなことで泣きそうになるなんて。心が弱っている証拠だ……と自分を叱責する。泣いてどうする。というか、何故自分が泣きたくなるのだ。そんな権利などありはしない、と思う。


(生きていれば良い、という話ではない)


 自分が彼女の翼を切ったことは事実で、彼女を本当は死なせていたことも事実だ。こうやって一命をとりとめても、そんなことは言い訳にしかならない。


 彼の「4回目」で彼女の翼を切った時、彼は彼女をその場に置いていった。あの家の、彼女の寝室に。血まみれになった翼を手にして、馬に乗って走った。自分の服にも血が飛び散っていた。耳の奥に彼女の泣き叫ぶ声が何度も聞こえたが、彼は彼女を斬り捨てたことを後悔はしていなかった。


 きっと、翼を広げて、朗らかに空を飛ぶ彼女は美しかったのだろうと思う。その「美しい」は一般的な美醜とは違う。そこにあるのは、生命力の強さだ。


(謝ったところで……)


 そんなことに意味はない、とヘルムートは思う。謝罪なんて自己満足だ。だが、彼女は自分が生き返って5回を過ごしたことを知っていた。そして、彼女は10回だと。生と、人から奪われる死が9回も繰り返された中、彼女はあんなに朗らかだった。自分に怒ったり、怒ったり、怒ったり……。


「ふっ……」


 少しだけ、笑みが漏れる。怒られてばかりいたな、と気づいたからだ。


(俺がラーレンを探していたこと、彼女をラーレンだと知って、4回目に翼を切ったこと。それらも全部知っていて)


 なのに、一緒に大樹を探してくれたのか。その辺はお互い様だったのだろう。しかし、ずっと自分を信じた「振り」をしていたのか、と考えると、接していたユリアーナは本当のユリアーナなのだろうかとも思う。


(早く元気になってくれ……そうしたら……)


 話したいことがある、とヘルムートは思った。けれども、実際に「何を」と自分に問いかければ、困ったことにそう話題もない。


 と、その時ユリアーナのうめき声が聞こえた。


「うう……」


「ユリアーナ。起きたか」


「水……」


 ぼそりと呟く。ヘルムートは水を注いだグラスを彼女の口元にあてる。


「う……また、寝てた……? どれぐらい?」


「半日だ」


 もぞもぞとユリアーナは動いて、ベッドの端から落ちそうになる。それへヘルムートは慌てて腕を伸ばした。


「起き上がるのか」


「うん……」


 彼女の体を支えて、上半身を起こす。ベッドの縁に座った彼女は、立ち上がろうとしたが、よろけて体ごとヘルムートにぶつかる。


「無理はするな」


「うう……足がちゃんと……立てない……」


 体を支えてヘルムートは驚く。以前、彼女が家で倒れた時に抱き上げてベッドに連れて行った時に、彼は彼女に「思ったより軽かった」と告げた。だが、今はもっと。


(そうか。翼の分と、この二週間で痩せて筋力も落ちて……)


「ごめん……わたし……やだ。ずっと寝てたから……体汚いよね……」


 そう言ってユリアーナはぐいとヘルムートから離れようとした。しかし、やはりまっすぐ立てない。


「あれ? あれ……あれ……」


「まだ、力が入らないんだろう。ずっと眠っていたから。気にせず、俺に掴まれ」


「違う……ちが……これ……」


 ゆらゆらと揺れながら歩くユリアーナ。数歩歩くと、ヘルムートの腕の中に倒れてくる。最初はきょとんとした表情だったが、しばらくするとじわじわと表情が歪み、しまいには泣き出してしまった。


「う……うっ……うっ……うわああああああああん!」


「ユリアーナ?」


「翼、が、無くなっちゃった。翼が無くなっちゃった……翼、無くなったから、わたし、まっすぐ、あ、歩けないっ、歩けな……うわぁぁぁぁぁぁ……後ろ、後ろに、何も、ないっ……うっ、うううううう……!!」


「!」


 ユリアーナは高らかに泣いた。そんな力がどこにあったのかと思えるほどの声をあげて、ボロボロと涙を流して。空を飛べなくなったなんていう話ではない。まさか、歩くことすら覚束なくなるなんて。ヘルムートは腕の中で泣き続けるユリアーナに対して、何と言葉をかけてよいかもわからずおろおろする。彼女はしゃくりあげ、嗚咽を漏らしながら「歩けない、歩けないよ……」と繰り返した。


 すると、暫くするとドドドドドドド、と轟音を立ててリーチェが現れた。ボロボロの寝間着で、髪もボサボサだ。バン、とドアを開けたと思ったら、彼は叫ぶ。


「うるせーーーーーーーー!!! そのうち! 歩ける! ようになる! 睡眠妨害だ! お前はさっさと湯あみして着替えて、いい子にしてまた寝てろ!」


 それに負けないようにユリアーナは掠れた声で聞き返す。


「そのうちっていつですか……!」


「知らねぇ! お前の頑張り次第だ! 寝る!」


 もう一度叫ぶと、バン、とドアを閉じてリーチェは去っていった。あまりのことにヘルムートが驚いてドアを見ていると、ユリアーナはぐすぐすと泣きながら「湯あみしたい」と言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る