あなたはわたしを二度斬り捨てる

今泉 香耶

第1話 9回生きて死んだユリアーナ

「ユリアーナ、覚えていて」


 母親の声がする。お母さん、そこにいたの。ユリアーナは後ろを振り返ったが、すぐに「そうではない」と理解をした。これは夢だ。だって、後ろから話しかけられたと思っていたのに、母親の姿はどこにもない。


 辺りは風で茂みがそよぐ森の中。だが、そこには虫の音も鳥の声も、それどころか草がかさかさと擦れてたてる音一つも聞こえない。音がない世界に母親の声だけが響いているのだ。これが夢でなければなんだと言うのだろう。


「わたしたち『ラーレン』が本当に困ったときには、森の大樹にお祈りをするの」


「もりのたいじゅ?」


 姿が見えない母親に返事をすれば、優しい声が返って来る。


「そうよ。声が届けば、森の大樹はわたしたちを助けてくれる。いい? 森の大樹に、祈るのよ」


 もりのたいじゅにいのる。その言葉の意味はよくわからなかった。けれど「幼い」ユリアーナは「わかった」と答えた。


「森の大樹に祈りなさい。きっと、助けてくれるから」


 わかった。もりのたいじゅにいのるね。ユリアーナはそう答える。ああ、そうだ。これは夢なのではなく、記憶だ……とぼんやりと思う。


(幼いわたしの記憶……ねえ、お母さんの姿を見せて……)


 夢の中の記憶。それに縋りつくようにユリアーナは願った。記憶ならば、そこに母親がいるはずだ。何の話をしてそんなことを言い出したのかをなかなか思い出せない。ただ、約束をした。何かがあれば。自分たち「ラーレン」が困った時は、森の大樹に祈れと母親は言った。


(そうだ……)


 緩やかに思い出していくユリアーナ。そうだ。そんな話をして、ある日突然彼女は家を出て行って。そして、二度と戻って来なかったのだ。それがどうしてなのかはわからない。いや、もしかしたらわかっていたのかもしれないが、彼女には思い出せない。


 やがて、夢の映像はすうっと消え、現実世界と思われる場所へと彼女は一気に引き戻された。ああ、そうだ。自分は夢を見ていたのだ……。




 ユリアーナはハッと瞳を開ける。どうやら床で眠っていたようだ。夢を見ていたと思ったが、一体それが何の夢だったのかを、既に彼女は覚えていない。ただ、覚えているのは「自分が死んだ」ことだけだ。彼女は起き上がると、床の上にぺたりと座った。


「死んだ時にも、夢を見るのかな……?」


 それとも、あれは走馬灯のようなものだったのだろうか。ぼんやりと考えつつ、瞬きを何度かする。


 そこは、辺り一面真っ白な光に包まれている何もない小さな部屋。いや、部屋なのかどうかもよくわからない。ただ、光の壁がぐるりと円形に立っていて、その中央に彼女は座っている。その光景に彼女は嫌と言うほど見覚えがあった。


「そうだ。わたし、今『9回目』が終わったんだ……」


 9回目。それは、彼女の生き返りの回数だ。


 ユリアーナは母親を失ってから数年経て、そこから繰り返し生き返っては死に、また繰り返し生き返っては死んでいた。そのせいなのか、繰り返す前の出来事が徐々に曖昧になっていき、今は母親の顔すら思い出すことが困難だ。


 彼女の脳には9回分の「自分が行ったこと」が断片的にしまわれており、それすらすべてを覚えているわけではない。そもそも、その9回分でも、普通の人々の一生分の半分にも満たないのだが、生き返りを繰り返す彼女の脳は擦り減っているのかなんなのか、記憶が混濁して時系列に明快に並べることすら出来ない。


 彼女はもう夢の中に母親の姿がなかったことなぞ覚えていない。それどころか、何の夢を見たのかも。そんなことよりも、もっと大切なことに気づいたからだ。気付きと共に、笑い声が口から漏れてしまう。


「あは、あはは、あは……」


 そうだ。自分は9回目でまたも死んだ。死んだから、ここにいる。ユリアーナは声高らかに笑った。ぼろぼろと両目から涙を零しながら。


「あはは、あはっ……! そりゃそうよね! そりゃあそうだ。わかってたのよ、わたし。わかってたの……!」


 9回。どれも、ほとんど同じ時期に、誰かに殺されて終わってしまう。もうこれ以上繰り返しても、それは免れないのではないかと折れそうになる気持ちを必死に鼓舞して、彼女は生き返り続けた。


 最初の頃に死を迎えた時、あと何回もチャンスはある、と思った。思っても怖かった。恐ろしかった。死に対する恐怖心は、生き返ることが確定していても拭い去ることは出来ない。苦痛が伴うならば尚更だ。そして、彼女の死のほとんどは「苦痛が伴う」方法だった。


 それでも、最初はまだなんとかなると思っていた。痛いけれど、苦しいけれど、まだやり直しが出来る。次こそはどうにか。そう思いつつ、だが、最後まで抗いながら生きた。しかし、4回、5回と回数を重ねるたびに「自分は何をしても、ここで死ぬ運命なのではないか」と、己の背に忍び寄る死神の姿を見て見ぬふりを出来なくなった。


 また死ぬ。次生き返ってもきっと死ぬ。それも、誰かに搾取されるように、早く。あっという間に何度も「終わり」が近づく。


 生きるために「生き返って」いるのに、最早彼女は死ぬために生き返っている。そして、死なないようにと生きるのに、やはり死んでしまう。あっけなく、いつもいつも同じぐらいの時期に、彼女の生命の灯は誰かによって消されてしまうのだ。


「あ、あ、もう、もう……」


 ユリアーナは四つん這いになって、頭を床につけた。その唇からは苦渋の言葉が漏れる。


「もう、これ以上は無理です……無理です……」


 そんな彼女に、男性なのか女性なのかよくわからない声がかけられた。


『あと一回残っています』


「いいえ。もう、無理です。だって、わかったんですもの」


 顔をあげるユリアーナ。そこには、もやもやとした白い霧のようなものがぼんやりと人間のような形を表す。その姿を見ても男性なのか女性なのかやはりよくわからない。だが、それが言葉を発していることだけは彼女に伝わる。


『何をわかったのですか? 世界を救う方法ですか?』


「世界を救うかどうかはわかりません。でも、9回も生き返って駄目だったんですもの。いくらなんでも、馬鹿なわたしにだってわかります」


 両手で顔を覆って、ユリアーナは再び頭を床につけた。泣きながら身体を2つに折れば、その背には白い翼がばさりと広がった。彼女は、有翼人種なのだ。


「どうしても駄目だってわかりました。だって……」


 苦しげな声。一度そこで切って、息を吸って、吐いて、そしてもう一度吸って。言いたいけれど、言いたくない。認めたいけれど、認めたくない。その言葉を発するにはエネルギーが必要だった。


「わたし、何度生き返っても、ラファエルを好きになってしまうんですもの! 回避しようとしてラファエルを見捨てては死に、ラファエルをドクターの元に置いていっては死に、出会っては死んで……もう、疲れました……そして、最後には罪を重ねて……10回目も、きっと同じ。同じなんです……もう、わたしには、世界を救えない……」


 落胆する彼女を励まそうとする白い霧。だが、何を言ってもユリアーナは俯いて首を横に振るだけだ。そこにあるのは絶望だけ。本当の絶望に辿り着いた者は、誰の言葉も耳に届かない。それでも、姿を持たぬ声は何度も彼女を励ました。しかし、当然、それは彼女にとっては意味がない言葉だった。


 やがて、カーン、カーン、と鐘の音が響いた。『時間がありません』と姿がない声が言えば、ユリアーナは再度「もう無理です」と繰り返すだけ。


『ユリアーナ、それならば……』


 遂に、心を決めた姿のない声は、最後の問い掛けをユリアーナにした。


『10回目を、他の誰かに預けますか?』


 最早ユリアーナは頭をあげることもままならず、顔を伏せて泣きながらそのまま両手を頭の上にあげて組んだ。それは、祈りのようにも、自分の心を決めたことに対して勇気を出すためのものにも見える。


「はい……わたしは……ここまでです……ごめんなさい……頑張ったのに……」


 頑張ったのに。9回、生き返って、戻って、何度も何度もやり直して。けれど、どうしてもある時点でユリアーナは死んでしまう。何が悪いのかはわからない。だが、そのうち数回の理由はわかっている。自分がラファエルを好きだったからだ。


 けれども、どうしようとも、駄目なのだ。深手を負って倒れているラファエルに会わなければ良いと思った。けれど、その先には彼の死と、彼女の死が待っていた。仕方がない、とラファエルに会って、自分の家に連れ帰って看病をした。それでも彼は死んでしまった。そうか。医師のところに連れて行かなければ駄目なのか。そう思って連れて行っても、結果的に世界を救う前に自分は死んでしまう。何を持ってして「世界を救う」のかは、実はユリアーナはわかっていない。しかし、ここに死した後に来るということは「世界を救えなかった」のだろうと思う。


 そして、この9回目は。自分は、世界のことなどどうでもよく、ただひたすらラファエルに愛されたくて、それだけを願って立ち回った。だが、それでも駄目だった。世界の最後を彼女はいつも目にしないが、9回目の死の寸前に「もう駄目だ」と彼女は諦めに近い感情を抱いた。そこで、彼女を繋ぎとめていた、細い糸がぷつりと切れた。


『あなたは頑張りました。ありがとう』


「うう……う、うう……」


『それでは、残された1回を、転生者に預けましょう』


「てんせいしゃ?」


 聞き慣れない言葉にユリアーナはオウム返しをする。


『はい。あなたの代わりに、誰かがあなたとして生き返ることになるでしょう』


「わたしとして? その人は、ラファエルを愛さないでしょうか」


『わかりません。ですが、転生者にあなたの身体を与えることで、あなたが『しなかった』ことや『出来なかった』ことを何かしてくれるかもしれませんね……』


 ゆっくりとユリアーナは顔をあげた。再び、カーン、カーン、と冷たい鐘の音が響く。これまで、その鐘の音を聞いて蘇っていたユリアーナ。だが、今のそれは哀悼の意を表すようにすら思う。


「わたしは、どうなりますか」


『あなたは、ここまでです』


「そうですか……」


 悲しみの涙が止まらず、ユリアーナの両眼からははらはらと流れる。ゆっくりと顔をあげると、白い霧がふわりと彼女を抱きしめた。それは、霧のようでいて霧ではない。まるで人間の体に抱かれているようで、ユリアーナは「お母さんのようだ」と思う。彼女にはすでに母親の記憶がほとんどない。だが、母親以外に、彼女は誰にも抱かれたことがなかったのだ。


『ここで終わることは怖くありませんか? あなたは本当にこれで死んでしまうのですよ』


 その答えに、ユリアーナは泣きながら無垢な表情を見せた。


「さあ? わたしが悲しいのは……もうラファエルに会えないということだけです……」


『本当の死を怖がらないほど、あなたは摩耗をしてしまったのですね』


「そうでしょうか。よくわかりません。だって、わたしはもう……途中から、ずうっと死んでいたようなものですから……」


 白い霧は「耐性があっても10回もの生き返りは、魂が削れてしまうのですね……」と呟いたが、ユリアーナはそれを聞いていないようだった。忘れてしまっていた母親からの抱擁に心穏やかになり、彼女は瞳を閉じる。


『わかりました。安心してお眠りなさい。最後の一回は、別の者にあなたを託します』


「ありがとう」


 ございます。と続けたつもりだったが、何かの腕の中でユリアーナの姿は薄くなり、消えていく。彼女の表情は穏やかだったが、どれほど悲嘆に暮れて心が壊れた結果なのかは、形のない霧には伝わった。あまりにも静かに、ユリアーナは消えてしまう。そこに、誰がいたのかもわからないほどに。それが「9回目のユリアーナ」が終わった瞬間だった。


 カーン、カーン、と鐘の音が響く。


『時間がない。転生をする魂を探さなければ……』


 そこへ、他の声がひとつ割り込んだ。白い霧のようなものがもう一つ姿を現す。


『交代だ』


『ああ、そうですね』


『わたしの4回目が終わったので、ここを使わせてもらう』


 見れば、先程までユリアーナがいた空間にぼんやりとした人の形が現れる。それは、次に「生き返る」者の姿で、まだところどころの輪郭しか見えない。それは、その場で『彼ら』が交代をし終わっていないからだ。


『あなたも、次で最後の1回なのですね』


『そうだ。わたしが選んだ者は、お前が選んだ者ほど『本質』に近くないので、時間を巻き戻すチャンスは5回だけだ』


 彼らは互いの姿を認識しあっているのだろう。2人の『神』は向かい合って溜息をつく。


『次で、世界を救えるとは思えないが……』


『それでも、祈りましょう。我々には、それしか出来ないのですから』


 そう言って、ユリアーナとして生まれ変わらせる転生者を探すために、1人目の『神』はその場から去った。


『次が、最後の1回だ』


 残った2人目の『神』がそう告げると、ぼやけていた男の輪郭がゆっくりと形を現した。

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