魔力なしのミーレス
月待 紫雲
入学前
出会い
肋骨のあたりに痛みを感じるほど、肺を酷使して走る。
森の木々の間を駆け抜け、逃げる。ちょっとした斜面でさえ転びかねない。
フリート・モンスは桃色の髪を振り乱しながら、体力のない己の体を呪った。レイピアの扱いには多少の自信はあったが、今逃げている相手にそんなものは通用しない。
オーガというモンスターだ。成人男性のニ、三倍はありそうな巨体と額に大きな角を持つ、化け物だった。
背後から地響きが迫ってくる。足止めを買って出た戦士もあまり時間稼ぎはできなかったらしい。
オーガは空間を破って「裂け目」から出てくるモンスターの中でも特に危険とされる種類であった。並大抵の人間では太刀打ちできない。
「あ」
ふわりと両足が宙に浮く。
躓いた。地面から浮き出た木の根に、躓いてしまった。
膝を擦りむき、両手をつく。
痛みに表情を歪めている暇はない。立ち上がろうとして、フリートを覆うような巨大な影ができた。
「……あ」
おそるおそる振り返る。
血が滲んだような赤い体。下顎から突き出た牙に、額から伸びた角。
白息を吐きながらオーガがこちらを見下ろす。右手には巨大なナタが担がれている。
白い肌を真っ青にし、金の瞳を恐怖で濡らす。
心臓が逃げろと警笛を鳴らしているが、頭では現実を悟る。
終わった。
高く掲げられ、振り下ろされる死。
フリートは思わず目を瞑った。
……しかし、待てど暮せど、痛みはなかった。
「おう、無事か?」
快活な、どこか癖のある男の声。フリートは思わず目を開ける。
金の瞳に映ったのは美少年だった。童顔で左頬に傷が一本刻まれている。傷さえなければ、と思えるほど、顔立ちは整っている。
夜を写したかのような紺の髪は無造作に伸ばされていて、灰色の瞳はまるで猫のようだった。体格は小柄だが、胸元がむき出しの、余裕のありそうな奇妙な服を着ていて、鍛えられた胸筋や腹筋が見て取れた。羽織る形で着る衣類のようで下腹部のあたりで紐で縛ってあり、それで服をまとめている。履物は足首に近づくほど広がっており、靴は素足がむき出しの、サンダルのようなものだった。
少年は唇を三日月のように歪めて笑っている。
オーガを背にして、だ。
枝のような右手に握った剣で、オーガのナタの一撃を防いでいるところだった。
片刃の、反りのある剣。特徴だけで言えば、サーベルに似ているが見た目はまるっきり違う。
研ぎ澄まされた獣の牙のようであった。刃は波型で、透き通るように美しく、太陽の光を反射している。
「おい、べっぴんさん。無事かって聞ぃとるんだが?」
癖のある口調で、問いかけられる。べっぴん、とはフリートのことだろうか。
「……え、えぇ。おかげさまで」
「よし。んじゃ、この鬼ささっと片付けるか」
オーガがナタを振り上げて、再度少年へ叩きつけようとする。
少年は振り返りながら、剣を振り上げる。
火花が散り、重い衝突音が響く。
オーガのうめき声がした。
オーガのほうがバランスを崩されて数歩後ろに下がったのである。
「ケッ、見掛け倒しが」
少年の吐き捨てた言葉に、戦慄した。オーガの一撃は凄まじい。オーガに挑んだ騎兵が、その鎧ごと斬られたどころか馬まで真っ二つにされたという逸話があるほどだ。
それを片手で凌いだ。この少年の膂力が桁外れなのだ。
「なんか芸ねぇのか」
退屈そうに剣を担ぐ少年。その態度に危機感というものがまるでない。
オーガは表情を歪め、両手でナタを構える。そして一気に振り下ろした。
少年は片手の剣で弾く。だが、オーガは怯まず攻撃を続けた。
縦、横、斜め。
ありとあらゆる角度から渾身の一撃を繰り返す。
それでも少年は片手で弾き続けた。激しい金属音が森に響き渡る。
やがて。
「——やかましいッ!」
そう叫んだ少年が横薙ぎに剣を振るうと、それだけでオーガの猛攻は止んだ。
体を仰け反らせ、大きく隙ができる。
少年は右手に持っていた剣を左手に持ち替えた。柄頭の付近を持ち、片手突きの構えを取る。
——暴風が、吹き荒れた。
地面が大きく揺れる。
「……え」
オーガが倒れていた。仰向けになって、空を見上げている。
その胸の上に少年がいた。ゆっくりと剣を抜く。位置的に喉を刺していたようだった。
オーガの喉から緑色の血が噴き出す。
オーガの体は破城槌で突いたとしてもびくともしない。それを、恐らくただの突きで打ち倒した。
「こんなもんか」
剣を払い、左腰の鞘に収める。
オーガの体から飛び降りると、フリートに目もくれず立ち去ろうとする。
「待って!」
思わず呼び止める。
「あん?」
少年はゆっくり振り返り、体ごと首を傾げる。
「助けてくれてありがとう」
「気にすんな。ついでだ」
「ついで、って」
少年は気だるげにオーガの死体を指差す。
「コイツと戦いたかった。強そうだったからな。それに、目の前で死なれるのは寝覚めが悪い」
フリートは立ち上がる。膝と手のひらが少し痛むが、当然五体満足だった。
「アナタ、名前は」
「知らん」
「知らん、って」
少年に歩み寄りながら、フリートは眉をひそめる。
「覚えてねえ。名前もどこにいたかも、何もかも」
「記憶喪失ってこと」
「どうやらそうらしい」
フリートは顎に手を当てて考え込んだ。
「おい、何笑ってやがる」
不機嫌そうに聞いてきた少年に、フリートは薄桃色の唇を、細い指先でなぞった。
「……ホントだ」
「おかしいことでもあったか」
「いえ嬉しいことならあった」
フリートは少年に向けて手を差し出す。
「ワタシはフリート・モンス。アナタ、ワタシのミーレスになるつもりない?」
少年は呆けた顔で、「はぁ?」と疑問の声を漏らした。
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