蓄光

押田桧凪

第1話

「いつも来てくれてありがとう」


 ワクチン4回目の副作用か何かで諒飛あさひが体調を崩したのが二週間前。大学帰りに自宅とは逆方向の家に寄ってポカリを届けるようになったのもその頃からだった。気をつけて、とだけ言って俺は今日もあさひの家を後にする。薬局にいる薬剤師と患者の間で交わされる「お大事に」と呼ぶには正しくないような関係だと思った。


 いっそのこと、来てくれなんて言ってないよね、と断ってくれれば良かったのにと思った。おまえにどうしようもなく恋い焦がれる理由が「ひかり」だと俺は口が裂けても言えなかった。かたちを変えて蛍になる俺は、人文科目の授業で隣に座っていた「あさひ」という人間に近しい光を感じた。それが出会ったきっかけだった。


 しばらくして熱は治まったが、あさひはひどい頭痛らしかった。頭痛を感じると思い出す記憶があって、罰ゲームでぐるぐるバットをした時みたいな地面がぐらぐらするような感覚だと言った。



 点滅が好きだった。ひかりが好きだった。生活の断片をのぞかせる窓の光、切れかけの街灯、漕ぐとウィンウィン鳴って稼働する自転車のダイナモライト、クリスマスを間近に控えたショーウィンドウの電飾。あさひは、そういう光に似ていた。


 信号が点滅するタイミングを狙って横断歩道を渡ろうとするせいで、俺はいつも車に轢かれそうになることがあった。飛んで火に入る夏の虫……って、俺のことかと自嘲じみて笑った。そんな光を、強く欲していた。


 けれども、同じホタルでも点滅の種類・周期は当然異なり、中でもあさひは自分の出す光そのものを怖がっていた。面と向かって言ったことはないが、ずるいと思った。ひかって、ずるい。俺はあさひの放つ冷光──たいていそれは夜になると薄いベッドシーツの上からでも分かる、臍辺りの突起を浮かび上がらせて弱く光った──が好きだった。


「なんで俺は光らないの。ホタルってみんなそういうもんじゃないの」


 子どもの頃、母にそう尋ねるとホタルは光る種類の方が少ないことを知った。例外なのは光る方で、だけど光らない俺はホタルとして誰かに見つけてもらえることは無いのだと思った。



 最後に二人で出かけたのは六月だった。その頃はまだあさひも元気だった。湿った土の匂いが好きで、雨の日に好んで水族館に行くのは俺たちしかいなかった。閑散とした館内を浮き足立ったように早歩きで進みながら、クラゲがいる水槽の前で立ち止まった。


「こいつらは光らされてんだよ、だからかわいそう。ぼくと同じだ」とあさひは言った。見たままの景色を語るように、何の感情も無くそう呟いた。俺はその時、何も言えなかった。俺にとって光は生まれてからずっと羨望の対象だったと。俺は誰も見ていない水槽の前で、あさひの左手をとって強く握った。それに応じるようにあさひも強く握りかえした。



 その日、上がってほしいと言われてリビングに案内された俺は開けっ放しにされたガラス窓が目に入った。ただ、夜風に当たりたかっただけなのかもしれない。しかし、田舎の夜は危ない。網戸をしても入る虫は入る。ましてやここはアパートの1階。こんな時間に窓を開けるのは良くないと俺は思ったが、何も言わなかった。


 あさひが引きこもっている間、何度も出入りするうちにシーツやタオルを取り替えることに新たな俺の役目を見出していた。あさひが自分から換気をすることが珍しかったから、俺は嬉しかったのだ。新鮮な空気を少しでも多く吸ってもらいたかった。


「アクエリとポカリならどっちが好き?」


 ありふれた質問だった。フローリングに直で寝転がったあさひにそう訊くと即答だった。


「アクエリアス。だってポカリは飲んでる時、病気になった気分がするから」


「いや、実際に病気だから心配で持ってきてるんだけどな」と反論しながら、別の可能性に思い当たっていることに俺は気づかないふりをした。


 野焼きの匂いがつくのが嫌だから。お日様の匂いは好きだけど、カメムシの卵が服につくから。花粉症だから。窓を普段、たまにしか開けない理由だって、いくらでも挙げられて、でも多分それが本質ではないことを俺は知っていた。


「焼き芋で落ち葉に火をつけて、煙が空に上っていくあの瞬間。昔は焼けていく匂いがあんなに好きだったのになって。でも、今はそれも怖いんだよね。ちらちら揺れてる火を見るのが、怖い」


 あさひはそう、零した。百均のストッパーを背の低いカラーボックスにも徹底していることも、タンクが落ちて水浸しになった床を思い出すと言って加湿器を置かなくなったのも、一級の遮光カーテンにしたのも、全部震災が起こった「あの日」を経験したことで、あさひが変わったからなのかもしれないと思った。変わる前のあさひを、俺は知らなかった。それから、あさひは揺らめく光を怖がるようになった。自分が出す光さえも。


 そこに電気は無かった。エアコンもついておらず、ただでさえ蒸している夏の夜。室内で裸でいることは恥ずかしくなかった。月の光が、部屋の隅を照らすように射していた。


「なあ。成虫に、なるんだよな?」

 気づいていないふりをして、言い出せなかった一言を俺は意を決して言った。

「うん」


 弱った体、ほぼ水しか飲まない生活、やつれた顔。それらはいつか俺にもやって来るだろう大人になっていくあかしだった。あさひは成虫になろうとしていた。


「正しく進化し損ねちゃったからもうすぐ滅ぶんだよね、ぼくは」


 昔、一度だけ聞いたことがあった。西日本と東日本で生まれた蛍とでは点滅の間隔が違うから、交尾をするとどこの種にも属さない「キメラ」が生まれると。あさひは今でこそ標準語を話すが東北出身で、俺は広島から上京していた。


 進化し損ねた、とまるで存在が欠陥であるかのようにあさひは言うがそもそもその時、あさひの心を支配していたのはキメラを生むことの畏れより、種を残して交われないまま死んでいくことの恐怖だろうと俺は直感した。俺だって、その気持ちは痛いほど分かった。


 大丈夫大丈夫とただ慰めるのも、祝いにケーキ買ってきてやるよと言うのも違う気がして俺は 「今でもあなたは私の光」と不意に口を突いて出た、昔流行った曲の歌詞をリズムよく歌った。ぴったりだ、と思った。


 俺はあさひに出会えて、良かった。光だったら何でも良かった訳じゃなくて、おまえの光に興奮したんだとあさひに言いたかった。


 あさひの光る腹部をじっくりと見つめて、暗闇に慣れた目で何度もそれを認識して、触って、それから舐めた。俺は硬化した肌と、翅を上下させながら貪るようにして光を追った。光を合図にして体をくっつける。熱い吐息を全部、吸い込む。それからゆっくりと刺していく。暗い部屋で散らされた光が気分を高揚させるのと同時に、あさひも本能的にはメスの光を追う側、「れる側」になりたいらしく俺もその時だけはおとなしく抵抗をやめる。


 あさひは反射した光を前にして、自分の光に自分で興奮しているみたいだったから、俺はそれを「新手の自家発電かよ」と言って笑った。攻めとして、オスとしてのさがが光によって呼び起こされてしまうのは無理もなかった。光るのが怖いくせに、光らせるのを嫌っているくせに、それでも本能に抗えないところにばつが悪いなと思った。手入れのされていない長い黒髪が目元にかかり、黒いからだと同化していた。


 それから、暗い部屋で蓄えた光を吐き出すように俺たちはずっと抱擁を続けた。

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