しんせかい

押田桧凪

第1話

 あなたは108センチだった。通天閣にできたスライダーに乗るにはまだ身長が足りなくて、あなたはその場にへたりこんで泣いてしまった。なすすべもなく取り残され、片手をついた床の冷たさをまだあなたは覚えているだろうか。「大きくなったらまた来ような」という頼りない言葉しかかけることができなくて、わたしもほんの少しだけ泣いた。あそこに見えるタワーは300メートルもあるんよ、と気を紛らわせようと思って言った。わたしはあなたに投げかける話題を探していた。


 あなたはこの場所を「てんのうじ」と呼んだ。間違いではなかったし、わたしは「5文字の名前だよ」というヒントも出していたので、合ってはいた。それから、あなたはまた考えるような仕草をした。「しんせかい」とわたしは満を持して言った。


 ここは新世界。あなたがこれから見るであろうすべての景色を含めて、そう名付けたのだと自信を持って言える気がした。ほら、ほらとまるでわたしの方が興味の赴くままに目移りする子供のように高いところを指差して、あなたにいろんなものを見せてあげたかった。草がいっぱいあるところ、とあなたの言う「てんしば」の路面が航空写真で見るとTEN-SHIBAになっていると気づいたのはいつだっただろう。ここは変わっていく街だった。


 休館中の美術館の前を通ると動物園の紹介パネルがあって、それを見てあなたは「あれ、ホッキョクグマとかいたっけ?」と呟いた。そこは幼稚園の遠足で何度も行ったことのあるあなたにとって馴染みの場所だった。それから……えっと、どう行くんだっけ。マップで事前に調べていた目的の公園まで行くのにわたしは手間取っていた。二人して路上に立ち止まる。


 方向音痴でごめんな、とわたしは謝った。「方向音痴ってわかる?」と訊くと、あなたはううんと首を振った。


「迷子になりやすいってことや。ゾロはすぐ迷子になるやろ、せやからとーとはゾロに似てるんや」


 あなたが好きなアニメのキャラクターを例に挙げて説明した。いつもかーかの後をついてきた人生だったから、わたしは自分で地図を読んだことがなかった。再びわたしは地図アプリを開いた。


 気を紛らわすようにわたしはあなたの歩く姿を見つめた。それは闊歩という言葉に相応しい歩きで、あなたはすぐに股を開く癖があった。それはかーかから受け継いだものだった。でもあなたは女の子じゃないから、別に気にすることは無いようにわたしは思った。かーかはその癖のせいでスカートを開かないように常に気をつける必要があって、足を開かないように卒業式の練習の時には両足の間にハンカチを挟む工夫までしていたと聞いた。


 緑色の色あせた歩道橋に上ると、階段の踊り場で眠りこけている老人がいた。あなたはそれを無言で指差してわたしにいつも向けるのとは別の、堪えるような笑みを浮かべた。おそらく浮浪者だった。「見たらあかんで」とは言わなかった。あなたが知らないことといつか知ることのすべてをわたしは歓迎していた。ここを危ない街だとあなたに思わせたくなかった。観光地ゆえに道端に大量に散らばったゴミ、大通りにあるピカチュウの自販機ですらその下にはタバコの吸殻や凹んだ缶が落ちていて、そこはあなたが通る場所ではなかった。だけど、それもいつかあなたが知っていくことだった。公園がようやっと近づいてくる。


 あなたと違ってわたしは高いところが苦手だった。あなたと一緒に登ることができないから、散歩の帰りに寄ることになっている公園の滑り台であなたはいつも遊んだ。


 幅の狭い階段を上って、両足で立ってから滑ろうとする。「あぶないで」とわたしが言った瞬間、腰からつるんと滑った。(ほら言わんこっちゃない)と口を挟みそうになるのを抑えて、わたしはそれを見守っていた。あなたの言う「できるで」をいつも信じていた。転んで痛がるふりをするのを覚えてほしくなかったから、泣き止むのを待って「えらいえらい」とうわ言のように、だけど心からの言葉で褒めることを忘れなかった。


 とーとと呼ばれたのがかーかよりも先だったことがわたしの誇りだった。かーかの抱っこととーとのおんぶ。とくに決まりがあったわけではなかったのに、とーとの時はあなたにおんぶをせがまれて、うらあああとおかしいくらいの雄叫びをあげながら、天然芝の上を駆け抜けると、あなたの髪の毛が揺れているのが見なくてもわかった。散歩を終えて、あなたはすぐにご飯を食べてお風呂に入って歯を磨いた。



 笑った時に銀歯の見える父が、わたしはかわいそうだと思っていた。キラキラするものが好きで、お祭りの時に光るうでわをあんなにねだっていたのに、大人になって父の銀歯を見るたびに、あなたの歯だけは守ろうとわたしは決めたのだった。料理を作るのはかーかで、歯磨きをするのはわたしとーとの役目だった。


「ほだか、」とわたしは呼んだ。穂高。背が高くて、身体だけではなくて人として大きく育ってほしい。そんな願いを込めてつけた名前をわたしは呼んだ。縁日に遊びに行った時にほだか、と呼んで大型扇風機のミストで涼みに行ったかと思ったら一体どうやってそうなったのかびしょ濡れになって帰ってきた姿を、わたしは怒れなかったことを思い出す。


 生後四ヶ月になると赤ちゃんは知らない女性の声よりも母親の声を速く処理すると聞いたことがあって、それは父親の声でも母親にかなうことはなく、羊水ごしで聞いたかーかの声に本能的に及ばないということがわたしには怖かった。


 だから、かーかが怒ればいいと思っていた。かーかが怒ってくれれば、あなたはすぐにわたしのところに避難してくれると少しだけ密かに願っていたりもした。


 あなたは濡れるのが好きで、わたしはあなたに濡れて欲しくなかった。ドライヤーでしっかりと髪を乾かしたのを確認してから、膝にあなたの頭を載せた。あーってして、とダブルチェックで今度はわたしが歯を磨いていく。1年生になったとはいえ、まだ歯磨きは完璧とは言えない。みがき残しは虫歯になる。手の届いていないところを重点的にブラシを伸ばして、わたしはあなたをきれいにしていく。


 四角くてほんの少し丸みがあって並びが良くて白くてきれいな歯、光るよだれ。オレオを齧った時に抜けたところから大人の歯が生えてきて、ブラシでゆっくり撫でるように磨くことを忘れなかった。



 賃貸やから、が口癖になっていたかーかは狭い部屋の中でわたしがあなたとボール遊びをすることを嫌った。だからリモコン入れのある柱に鉛筆で身長を刻もうとした時も、マスキングテープを使うんならええよと促されたのだった。今では剥がれそうになった水玉柄のテープの切れ端を眺めて、いつの間にこんなに大きくなったのだろうとわたしは思った。


 あなたには兄弟がいないから、かつて車内ではあなたの定位置になっていた、座れなくなったチャイルドシートを小学校のバザーに回すことにしたし、お豆さんをつかむ練習をしていた矯正用の箸はもう捨てた。災害用の抱っこ紐ももうサイズが合わなくなって、あなたの方がわたしより逃げ足が速いかもしれない。


 そうやって、わたしにできることは少なくなっていく。いつまでわたしが。いつまでわたしが、あなたに教えてあげることがあるんだろうとわたしは思った。


 わたしの知らないあなたが溢れる小学校へ、今日もあなたはランドセルを背に進んでいく。あなたの、しんせかいへ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しんせかい 押田桧凪 @proof

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ