失恋の処方箋

佐倉真実

失恋の処方箋





 どちらかが失恋したときには、決まって私の家でピザパーティーをした。


 普段は恋愛の話なんてしないけど、失恋した時だけはお互いに報告しあって集まるのが、いつからかお決まりになっていた、私たち。


 もうずっと、そうやって支え合ってきた。

 もうずっと、そうやって友情を保ってきた。


 絶対に泣けると評判の映画を数本借りて、コンビニで買ったビールと缶酎ハイを自転車のかごに詰められるだけ詰めて、自分達で重くしたのに、重くなったペダルに二人で文句を言いながら家へと向かった。


 私の部屋は四階で、私以外には学生しか住んでない大学近くのぼろい格安アパートには、エレベーターなんてものはついていない。


 自転車を下りると、今度はその階段に対して長いだの、きついだのと文句を加速させながら部屋へ向かう。両手にぶら下げたコンビニのビニール袋の中で、缶同士がぶつかり合って音を立てている。


 だけど、この辛さはウォーミングアップでしかない。


 だって私たちは今から、この世で一番恐ろしくて、厄介で、傷口が見えないからどんな薬を処方すればいいのかわからない、失恋の傷、なんてものと向き合わないといけないのだから。


「疲れた、もう、まじ、無理……」

「ねえ、小夜、いい加減、引越し、したら」

「だって、ここ、安いし、引越し、めんどいし」


 やっとの思いで四階まで上がった私たちは、肩を上下させて息を整える。そして、荷物を持ったままで鞄から鍵を取り出すのにまた苦労する。それにもやっぱり文句を言って、真っ暗な部屋へと続く扉の鍵を開錠した。


 買ってきた飲み物を二人で冷蔵庫に詰める。

 料理をしない私の冷蔵庫にはいつも何も入っていないから、そこの作業はいつだって楽に終わった。


 二人分の部屋着を出して、携帯に登録してあるピザ屋の番号を呼び出す。何の遠慮もなく洋服を脱ぎ始める舞花を見て、部屋のカーテンが閉まっているかを確認した。


 当の舞花は何も気にしていない様子で、手渡したダボダボのスウェットを嬉しそうに着込んでいる。スウェットの中で、器用にブラを外す。役目を失った下着はスウェットの袖口からするりと這い出て、たった今脱いだばかりの洋服の山の一番上に投げ捨てられた。


「かんぱーい」

「え、ちょっと」


 まだピザも届いていないのに、そもそも私は今まさに手を洗っている最中だというのに、舞花は勝手に一本目の缶ビールを開け、私に向かって笑った。


「私まだ、着替えてもないんだけど」

「でもほら、今日の主役は私だから」


 タオルで手を拭きながら咎めると、舞花が、ビールの缶を勢いよく傾けた。

 喉の奥へと真っ直ぐに落ちていく液体が、喉を透けて見えるような気がする。無意識にごくん、と喉が鳴った。


「……うし、私も開けちゃおっと」


 冷蔵庫から自分の分のビールを取り出す。舞花に倣って、缶から直接、一口飲んだ。


「っはー、おいしい、生き返るね」

「一瞬ね、一瞬だけそんな気持ちになる」


 一瞬ね。

 そう言った舞花はもう一度顎を上げて、残っているビールを全て身体の中へ押し流していく。小さな黒子のある舞花の喉元が、懸命に上下する。


 その動きが、空気を求めて必死に水上へ向かっている生き物のようで、何となく、見ていられないような気持ちになった。


 缶ビールをテーブルに置いて、私は自分の着替えを手に取った。着ている長袖Tシャツの上からそのまま、パーカーを羽織るだけ。

 ジーンズを洗面所で脱いで、学生時代に使っていた適当なジャージに履き替え、舞花のいる部屋へ戻った。


「……ねえ、小夜」

「うん?」


 舞花がちょっとだけわざとらしく思えるような真剣な表情を作り、声をかける。


「今日さ、ピザパーティーしよって連絡した時、ある重大な事実に気がついたんだけどぉ……」

「何よ、その持って回った言い方は」

「持って回った言い方? ってどういう意味?」

「遠回しで勿体ぶってるってこと」

「だって重大な事実だよ」

「何?」

「なんかこのところずっと、私のピザパーティーばっかりじゃない?」


 舞香の言葉に、私は息を飲んだ。次に吐く息に、どういう言葉を乗せるか、迷う。

 それが言葉通りの意味なのか、舞花が何かに気がついた上で言っているのか、それによって私の吐くべき言葉は変わってくる。


「……そう? そんなことないと思うけど」

「そんなことあるよ、私ばっかり失恋してるってことじゃぁん」

「えー? 恋多き女だなぁ、舞花は」

「そうじゃなくってさぁ」


 ダイニングに重ねてある雑誌や新聞の山から、ピザ屋のチラシを探している振りをして、私は言葉を選ぶ。

 舞花の方を見ないように。

 舞花に見られないように。


「小夜は、好きな人とかいないの」

「うーん……」


 口を閉じたまま、鼻の奥で音を籠らせ、曖昧な返事をする。


 だって。

 私は。


「まあ、確かに最近、あんまりときめいていないかも。私もう、枯れてきたのかな……」

「何それ!」


 舞花の方を見ると、涙の跡をのぞかせる舞花の目元が、くしゃりと歪んだ。


「……何だろうね」


 何だろう。自分でもよくわからない。

 わからないけど、私はどうしようもなく、この笑顔が好きだな、と思った。


 部屋に投げ出された彼女の下着を見ないようにしながら、チラシを持って舞花へ近寄った。


「はい、舞花が選んでどうぞ。私の奢りでぇす」

「やったぁ、ありがとう」


 声だけは嬉しそうに、だけどその表情は知らない男に投げつけられた悲しみに潰されたままだった。彼女の心は、私ごときでは揺さぶることすらできないのだ。


「舞花、映画はどれから観るの?」

「それも私が選んでいいの?」

「どぉーぞ、お好きに」

「じゃあ、最新作のやつ」


 少し前に映画館でやっていたその洋画は、家族もので、予告だけでも舞花は泣いてしまいそうだなと思った。私はもう、一度観ている。けど、言わない。言ったら、きっと舞花は遠慮してしまう。借りてきた10本の映画はきっと、半分も見ないまま返却することになる。


 心の傷には、涙が有効だと私は知っている。彼女が思い切り泣けるように、私はただ、どれが効くのかわからないけど、いろんな種類のお薬を処方するだけだ。


「ねえ、小夜」

「何よ、舞花」


 呼ばれた声に振り向くと、ピザのチラシに集中している振りをした舞花の瞳が、かすかに揺れていた。


「この時代にレンタルビデオ屋さんが潰れてないのって、すごくない?」

「たしかにね。でもあそこ、別に利益でなくてもいいらしい」

「どういうこと?」

「店長さん、趣味でやってるんだって」

「ふうん?」


 透明のプラスチックケースからDVDを取り出して、プレイヤーに入れながら、舞花はどうでもいい話を、精一杯どうでも良さそうに繰り返した。


 本当は、心の奥でぐずついている傷を持て余しているのは私なのかもしれない。何かにすがっていないと、溺れてしまいそうなのは、ずっと前から、いつだって、私だった。


「ねえ小夜」

「何、舞花」

「傍にいてくれてありがとう」

「……どういたしまして」


 だけど今は、笑顔でいよう。

 だって今日は、失恋した舞花を慰める日で、とっくに失恋していた私の傷を癒すための日じゃないんだから。

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