俺を夢中にさせたもの

ルビーのピアス

第1話

小学生の頃、俺は傷口にできた瘡蓋をよく剥がしていた。目につくと不快になり、傷が治る前にいつも剥がしてしまうのだ。


剥がした部分からジワジワと血が滲むのを見ると、やってしまったという罪悪感と、同時に達成感が湧いた。


それを隣で見ていた女の子によく心配された。

女の子の名前はミノリ。

当時から俺の世話をよくやいてくれていた。

いつの頃からか、どちらから告白されたということもなく友達から恋人の関係になっていた。

いまが28歳だから、約12年は付き合っていたことになる。


そのミノリから1週間前、突然別れを切り出された。


「結婚できないのなら、もう別れよう」


16歳の頃に付き合い始めてからずっと一緒にいたが、煮え切らない俺の態度に焦れたらしい。


無気力な俺を引っ張ってくれる彼女は、いつも楽しそうに見えた。

だが、そう思っていたのは俺だけかもしれない。

彼女との結婚を思い描いたことはあったが、そこでも俺は無気力だった。

こんな男だから振られてしまったんだろう。


1週間前のあの日から、ミノリとは連絡をとっていない。

当然だ。別れたんだから。


スマホの画面を見ると、笑顔のミノリと真顔でピースをした俺の顔の上に、日付と時間だけが空しく表示されている。


スマホをポケットに入れようとした瞬間、不意に呼び出し音が鳴り、慌てて画面を見ると会社からの電話だった。


「坂本さん、田中病院の院長から至急で連絡がきましたよ」


思わず舌打ちをする。


「要件は?」

「さぁ……とにかく来てとしか言われなくって。お忙しいところすみません。行けそうですか?」

「わかった。ちょうど病院の近くだから、このまま行ってみる。」


俺は医療用医薬品の卸売業者に勤めていて、田中病院へは週に1~2回は顔を出している。

昨日も訪問したばかりだ。

駐車場に車をとめ、脳内シミュレーションをした後、ルームミラーでスーツが乱れていないか確認する。


「よし」


病院の受付に声をかけて、そのまま待っていると、香水を漂わせながら身長150センチほどの40代女性が現れた。

院長の愛人だ。


「あらぁ。坂本さん。どうしたのぉ?……もしかして、あたしに会いに来てくれたぁ?」


思わず顔が引き攣りそうになるが、なんとか持ち堪える。


「いやぁ、はは。院長からご連絡いただきまして」

「あぁ……、あのことねぇ。……あんまり気にすることないわよぉ?」


なんだ?

一体なんのことを言っているんだ?


「誰にでも失敗はあることだしぃ……。落ち込んだら、あたしが慰めてあげるからぁ……。これ」


失敗?

昨日、院長に訪問した時は何もなかったと思うが……。

それより何だこれ?

渡された紙を見ると電話番号が書いてある。


「あの、これは?」

「あたしの電話番号。とっといて」

「いや、院長に怒られちゃいますんで」


思わず突き返してしまった。


「何それ。もぉ知らない」


しまった、やってしまったか?

愛人はツンとして窓口の奥に引っ込んだ。

泥沼の火種になりそうなことは、できる限り避けたい。

午前の診察が終わり、診察室に呼び込まれた。

「院長! いつもお世話になっております!」


脂の浮いた髪、無駄についた腹肉、身長約160センチで体重が120キロはありそうな体格の男がこちらを向く。


「これ、見て」


なんだ?


「ここ、注射針の個数を間違えてる。困るんだよねぇ」

「……確かに、申し訳ありません!」


医療機関からファックスなどで注文される物品は、物品管理をしている部署が用意して、日々の定期便で届けられる。

間に俺の手は入っていないが、会社のミスは俺のミスでもある。


「まぁ、これぐらいで目くじら立てて怒ったりしないけどさぁ。気を付けてよね」

「寛大なお言葉ありがとうございます! 次回よりこんなことが起こらないように再度確認を徹底いたします!」

「いいよ、いいよ。ところでさ」


きた。


「最近つれないじゃない。そういえば君、近頃は別の病院の若い連中とつるんでるそうじゃない?」

「はぁ、おかげさまでご贔屓にしていただいております」

「なんだか寂しいなぁ~。もうこっちに来なくなっちゃったりして?」

「そんなことはありません! 院長におかれましては、いつも本当にお世話になっております」


早く話を切り上げたい。


「そう?……じゃあまたさ、君の行きつけのお店にでも飲みに行こうじゃない?」

「はい! ぜひ!」


しまった。


「じゃあまた良い日を連絡するからさ」

「はい! 失礼いたします!」


この院長には度々接待を要求されている。

昨今はコンプライアンスの関係から接待禁止としている会社も多いのにだ。

だが、担当する医療機関のなかでも上位の売上を誇るこの病院からの要求は断れない。

肩を落としながら午後の業務を済ませ、アパートに帰宅した。



俺の住んでいるアパート周辺は、徒歩5分で行けるスーパーと、内科や整骨院、コンビニ、ファストフード店、ドラッグストアがあり、暮らすには不自由のない環境と言えるだろう。

アパート自体は、大通りから少し引っ込んだ位置にあるので、夜は人通りがほとんどなくなり、車の音も気にならなくなる。


アパートの裏手には数軒の戸建てと田畑があり、俺が住んでいる1階には、他の家の生活音がたまに聞こえてはくるが、うるさくは感じない。

むしろ1人になってしまった今は、人が近くに感じられて嬉しい。


自分の部屋に帰りつき、ベッドに体を投げ出す。

ミノリがいなくなってから、疲れやすくなった気がする。


「夜飯は……カップ麺でも食うか」


いつの間にか眠ってしまったようだ。

辺りはまだ薄暗い。

体と瞼がひどく重たくて、起き上がれない。

明日は休日だから、このまま眠っても良いだろうと目を閉じると、どこからか荒い息遣いと金属製のものが揺れる音が聞こえてくる。


思わず息をひそめて音がする方向を探すと、どうやら開いた窓からそれは聞こえてくるようだ。

息をひそめたまま近づくと、アパートの裏手にある戸建て付近から聞こえてくる。


生唾を飲み込み、思わず妄想してしまう。

ミノリとそういうことをしたのは、もう随分前のように感じる。

別れてしまったのだから余計にだ。

しばらくその音を聞いていると、自分が瘡蓋を剥ごうとしているのに気付いた。

この前ダンボールを片付ける際に、はずみで切ってしまった時の傷だ。


まだ荒い息遣いと金属製のものがキシキシと鳴る音がする。

少しずつ瘡蓋を剥がす。


「っ」


まだ治っていないので、剥がす時に痛みがある。

少しずつ剥がしていくと、固くなってきた表面とまだやわらかい部分が見える。

ジワジワと血も滲んできた。

そこを時間も忘れて見つめていた。


ハッとして時計を見ると20時を超えていた。

窓の外から聞こえていた音も消えている。


「カップ麺食うか」


朝は憂鬱な気分で目が覚めた。

休日なのに特にしたいこともない。


久しぶりに学生時代の友人である亮に連絡を取ると、 学生時代によく行っていたファストフード店で、一緒に昼飯を食べることになった。


店内に入り、よくいた席を見ると対戦ゲームで盛り上がる高校生くらいの子達がいる。


仕方なく、2階席の窓際に陣取る。

少しして亮の姿が見えたので片手をあげると、パッと笑顔になり駆け寄ってきた。


「待たせたな! 久しぶり、元気だったか?」

「久しぶり。ぼちぼちな。そっちは?」

「相変わらずクールだな」

「なんだよそれ」

「なんで同窓会来なかったんだよ?」


ミノリと別れた日が同窓会の当日だった。


「体調崩しててな」

「そっかそっか! それならしょうがないよな! それにしても、相変わらずミノリちゃん可愛いかったな~。……お前達別れたんだって?」

「ああ」

「なんでだよ、もったいねぇ~! 俺さ、昔ミノリちゃんのこと好きだったんだ」


知ってる。

俺の席まで来ていたミノリを、いつもチラチラ見ていたの気付いてた。

だが、その頃にはミノリと俺は付き合っていた。


「今フリーならさ、オレ狙っても良い?」

「別にもう関係ないから。好きにしたら」

「やった! 後で恨むなよ」


こいつの軽めなノリをミノリは嫌っていた。

おそらく思いが実ることはないだろう。

その日は食事だけして、後日また遊ぶ約束をして帰宅した。


夜、買ってきた弁当を食べていると、また荒い息遣いとキシキシと金属の揺れる音がした。

また窓際で息を潜めて、瘡蓋を剥ぐ。

こんなことをしたら傷が治らないのはわかっているのに、やめられない。


「っ」


また血がジワジワと浮いてくる。

それをジッと見る。

時計の針の音がやけに大きく感じる。

気づくとまた20時だった。

残った弁当を急いで食べて、その日は寝た。


「坂本さん……、また田中病院の院長から緊急連絡が入ってて……。だいぶ怒っているみたいで」


電話口の同僚の声が少し震えている。

今度は何なんだよ。

苛立ちを隠さず大きくため息をつき、急いで訪問することを伝え電話を切った。


田中病院の待合室に着くと、愛人含め事務員の態度がよそよそしい。

戸惑いながら診察室に入ると、空気で院長がピリついているのがわかった。


「君さぁ、事務の佐藤ちゃんに色目使ってるでしょ」


佐藤は愛人だ。


「まさか! そんなこと」

「ほらぁ~、そういうのって……良くないと思うんだよねぇ~」


聞く耳をもたない。


「担当変えてくれるかな」


会社に戻り、上司に事情を伝えると、肩を優しく叩かれ慰めてもらえたが、気持ちは収まらなかった。

それからどうやって家に帰ったか覚えていない。


アパートの駐車場についた。

微かに獣のような荒い息づかいと、キシキシと金属製のものが揺れているような音が聞こえる。

まだ薄暗いとはいえ、こんな時間でもしているのかと、半ば呆れながらアパートの裏手をのぞいてみると、思ってもいなかった光景がそこにはあった。


戸建ての庭にある小さな畑に犬が繋がれている。

犬は鉄柱にロープで繋がれていて、遠くにある玩具を犬が取ろうとする度に軋み、音を出していた。

もちろん犬は玩具を取ろうと必死なので、息遣いも荒い。


「あぁ……っ。俺はこんなものに夢中になっていたのか……」


思わず乾いた笑いが漏れた。

しばらくその場に立ち尽くしていると、別れたミノリから着信が入った。


「もしもし……。タケル?」

「……」

「久しぶり……。あのさ」

「……」

「……」

「元気にしてたか?」

「うん……。あのさ。亮君と付き合い始めたんだ。一応、報告しとこうと思って。じゃあね」

「……そうか」


久しぶりに鳴ったスマホを握り締め、しばらく立ち尽くす。

そして犬小屋に背を向けて、その場から去った。

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俺を夢中にさせたもの ルビーのピアス @rubi-nopiasu

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