第32話
私が会議室に入っている間に、近衛の間でも情報が共有されたのでしょう。部屋まで付いてくる近衛は、サリア隊長以外、男の近衛に変更されていた。
おそらく、監視の役割も兼ねているのでしょう。
物々しい雰囲気の近衛を引き連れて、昨日までの自室まで歩く。
公式にはどうか分からないけれど、もう私は自分自身を王女だとは思っていない。だから、この部屋も私のものではない。
王が手配したのか、部屋の前には侍女もいなかった。
だから私は、自分で部屋の扉を開けようとする。
「姫様」
声をかけてきたサリア隊長に、少し驚く。
まさか、この状況で彼女から声をかけてくるとは思わなかった。
「何でしょうか」
「少し、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
更に意外なことを言ってくる。
私の行いを非難したいのでしょうか。内心はともかくとして、直接言わなければ気が済まないほどの不満をもつとは思いませんでした。
「どうぞ、中でうかがいます」
なんと言われようとも、甘んじて受けなければいけない義務が私にはあるでしょう。
「ありがとうございます。失礼します」
私とともに部屋の中に入り、閉めた扉を背に立つサリア隊長。
私は数歩離れて、相対する。
寝台や椅子に腰を下ろすのは、気が引けた。もうここにある全てに、私は触れる資格をもっていないのだから。
「サリア隊長。先に私から申し上げたいことがあります。私は王都を去ります。公式には死亡したことになるでしょう。今までお世話になりました」
「それは、聖女様に関係したことですか」
「はい、詳しいことは申し上げられませんが」
サリア隊長は何か逡巡するように言い淀んでから、口を開く。
「昨夜、聖女様にお会いしました」
「え…あ、そうですね」
私が眠っている間にテレサは出て行ったのだから、警備についていたサリア隊長と顔を合わせているのは当たり前だ。
「聖女様から、姫様のことを頼まれました」
「え…」
テレサがそんなことをするなんて信じられない。
あの人は社会的責任を果たすことには律儀だけれど、それ以外のことには無関心だ。そして、私に対して何か責任を持っているわけではない。
え、あの人、私の何のつもりなの。
「そのときに、以前のことを謝罪されたのですが…」
「…以前? 謝罪?」
何の話でしょうか。
というより、二人に接点があったなんて知らなかった。
「はい、その…姫様と
テレサと東屋で…
それを思い出した瞬間、頭に血がのぼるのが分かった。
あの膝枕はその時だって十分に恥ずかしかったけれど、今となっては昨夜の行為と簡単に記憶が結びついてしまう。
弾力のある太もも、柔らかな下腹部、甘い声と匂い…
私は何とか表情の平静を保とうとする。
「そうなのですね。何のお話を?」
「姫様のことで、少し言い合いのようになってしまいまして」
「私の?」
「はい、聖女様が姫様に対して王家への敬意に欠ける接し方をしていると咎めてしまったのです。それで、聖女様から王室に仕えているだけなのか、姫様自身に仕える価値を見出しているのかと問い質されました」
「テレサがそんなことを…」
少し胸がざわざわする。
嬉しいような、腹立たしいような。
あの頃のテレサは、私のことなんて関心ないって顔をしていたじゃない。それなのに、私の知らないところで、そんなことを話しているなんて。
「そのことを、言葉が過ぎたと謝罪されたのですが、私自身ずっとその言葉が忘れられず考えていました」
サリア隊長は、真っ直ぐに私を見ている。
その目は、たしかに私自身を見ていた。
「私は姫様を尊敬しています。民が敬愛する振る舞いは貴女自身の気高さです。近衛ですら憧憬する武勲の誉は貴女自身の鍛錬の賜物です。私は、例え貴女が王女でなくとも、貴女に仕えられたことを誇りに思います」
「サリア隊長…」
私は。
何にこだわっていたのだろう。
テレサでなくても、こうして私自身を認めてくれる人がいる。立場や位に一番こだわっていたのは、私だったのかもしれない。
きっと、私が向き合っていれば、お友だちになれた人はもっといたのでしょう。
それでも、それが分かっても、テレサに向かう気持ちは何一つ変わらなかった。
選択肢が一つしかないから、テレサを選んだんじゃない。例え何十人のお友だちができたって、テレサだけは私の特別なただ一人だ。
「ありがとうございます。私にとって大切なものを再確認できました」
「姫様。私は何があったのか事情は存じ上げません。ですが、姫様が選ばれた道を信じています」
「私に間違いはないと?」
「いいえ」
ゆっくりとサリア隊長が首を横に振る。
「何が正しいかは私にはわかりません。きっと、姫様だって間違えることはあるのですね。それでも、姫様が選ばれた道をただ、信じています」
私には、彼女の言う信じるが、どういう意味かは分からない。
彼女自身にも分かっていないのかもしれない。
ただ、祈りのように真摯な言葉だということだけが、理解できた。
例え私が祈るべきものをなくした身だとしても、彼女の祈りまで否定しようとは思わない。
「…良き王女でいられなかったことを申し訳なく思います」
「姫様は十分に良き王女でした」
そう言ってサリア隊長が浮かべた笑みは、柔らかな年相応の自然なものでした。
それを素敵だと思えたことが、嬉しかった。
◇◇◇
サリア隊長が退室して、四半刻も経った頃。
ノックの音がして顔を上げると、部屋に入ってきたのはジョルジだった。
いえ、違う。ジョルジオス王子。
もう、私の弟ではない。
「姉様…」
五年前の私によく似た顔を物憂げに曇らせ、私を見ている。
成人もしていない王子は、きっと重要なことは何も知らない。そんな王子を冷たく突き放すことは、さすがに心が痛んだ。
そんな自分の弱さがいやになる。
何も知らないから彼を許すなんて、何も知らなかったころの自分を許されたいだけみたいではないか。
それに、王子にだけ姉として振舞うのはでは、けじめがつかない。
「殿下、私はもう王族ではありません。姉などと呼んではいけません」
「本当、なのですね。陛下が、別れを済ませろと…」
やはり、王の計らいでしたか。
このまま顔を見ることなく、去るつもりだった。だから、会えたことを嬉しいと思ってしまう。
だけれど、それは捨てたはずの王女としての感情だ。
ただの未練でしかない。
「はい、すぐにでも宮殿を去ります」
「…姉様と聖女様が、その、不適切な関係にあると噂するものがおりますが、そのことと関係があるのですか」
そんな噂があるのですね。
噂になっているというからには、昨夜のこととは関係なく私とテレサはそのように見られていたのでしょうか。
人前でテレサに対して、そこまで逸脱した行為をしたことはないのですが。
「テレサとのことであるのは違いありませんが、なぜそのような噂が?」
「聖女様が…」
「え、私ではなく?」
「はい。宮殿に来た正教会の方が、姉様と話す聖女様を見かけて驚いていたそうです。あの方が、私的な会話をするところを見たことがある人は誰もいないからと。そこから、聖女様が姉様と寝所をともにされていることと合わせて、特別な関係にあるのではないかと言う噂が立ったようです」
「そう…」
私は、どれだけのものを見逃してきたのだろう。
聖女としての顔以外で、テレサが他人と話しているところなんて一度も見たことがなかったのに。それが演技だったとしても、私以外とは。
私はもっと、自分がテレサの特別である自覚を持つべきだったのだ。
最初に嫌いだと言われた、あの時から。
そうすれば、もっと、もっと…
こうなる結末は、きっと変わらなかった。
それでも、もっとテレサの心に寄り添えれば、少しでも傷つけずに済んだのではないか。
無意味な後悔だろうか。
そんなことは、ない。これからテレサと一緒にいるのなら、同じことを繰り返してはいけないのだから。
「姉様は…」
王子は戸惑うように、その言葉を口にした。
「聖女様を愛しているのですか」
愛しいかと聞かれれば、愛しいと答える。
親愛も、友愛も、敬愛も、性愛も全部ある。
ただ、恋愛かと言われると答えに詰まる。恋なんて、そんな甘酸っぱい感情をこの気持ちに当てはめていいのかが分からない。
私もテレサも、そんな言葉を素直に口にできるほど純粋には生きられなかった。
ああ、やっと目の前のこの子を突き放せそうだ。
同じ王族であったのに、王子は簡単に愛なんて言葉を口にできる。
王子には王子の悩みも苦しみもあって、それは比べるようなものではない。それでも、そんな言葉を口にできるくらい、真っ直ぐに生きることができたのだ。
王子が悪いわけではない。
でも、きっと私たちとは生きる道が違い過ぎる。
私たちは体を重ねてさえ、お互いのことを好きだと言うことさえできない。
だって、その言葉を口にすれば、恋が始まって、そしていつか終わる。私たちの結びつきはもっと切実で簡単に言葉には出来ないものだから、終わるような関係は始めることもできない。
テレサにさえ言うことのできない言葉を、それ以外の人になんて言うわけがない。
「それは貴方に言うべきことではありません」
私の口調に明確な拒絶を感じたのか、王子が怯む。
「姉さ…」
「殿下はもう、私などに関わってはいけません」
何か言いかけた王子を、私は遮る。
「私のことは忘れてください。私のことを理解しようとすることは、王族として生きることの妨げにしかなりません」
それでも何かを言い募ろうと、何度か口を開きかけ、言葉が見つからずに王子は俯く。
唇を噛んで上目遣いの視線を向けてくるけれど、私は無言で冷たい目を返す。
王子は悄然として、踵を返す。
扉に手をかけたところで、振り返る。
「姉様が僕のことを弟だと思わなくても、僕にとって姉様は姉様です。だから、姉様の幸せをただ祈っています。それくらいは、許してください」
一瞬、泣きそうな微笑みを残して、王子は部屋を出て行った。
私は、その背中を無言で見送る。
王子。
弟であった人。
王族である貴方には、謝罪もしない。
私は貴方に、言うべき言葉を持たない。
祈るべきものも私にはない。
それでも、貴方の人生が幸多きものであればいい。ただ、そう思います。
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