第6章(終章)

第30話

 窓から差し込む陽の光に目覚める。


 寒い。

 とても、寒い。


 一糸まとわぬ姿だからではない。

 この腕の中にたしかにあった温もりが失われてしまったから。


 テレサの姿はどこにもなかった。

 乱れて湿ったシーツと、微かに漂う情事の匂いだけが、テレサの名残だった。


 きっと、もう戻ってくることはない。


 いなくなるつもりなのだと分かっていた。

 繋ぎ止めるように抱いたけれども、テレサの心には届かなかった。

 それとも私はただ、最後だから自分の欲望をぶつけただけだったのでしょうか。


 失って初めて、取り返しのできないことだと気が付く。

 そんな使い古された言葉が頭に浮かぶ。

 どこかでテレサは私を望んでくれるだろうと、軽く見ていた。会いたいとさえ言ってくれたのだから、身体を重ねてしまえば一緒にいてほしいと言ってくれると。

 目覚めたらはにかむ貴女がいて、一緒にいてほしいと言ってくれる、そんな甘い夢を見ていた。


 きっと、本当はまだどこかで逃げていた。

 テレサが望んでくれないからなんて言い訳をして。テレサが決めたからという免罪符を欲しがっていた。

 そんな心の迷いを見透かされていたから、何も望んでくれなかったのかもしれない。


 心が凍えるような寒さに、自分の身体を抱きしめる。


「いたっ…」


 突っ張った背中が引きつるような痛みを訴える。

 昨夜、テレサがしがみついて立てた爪の痕だと気が付く。


「…痛いよ、テレサ」


 痛みを堪えるように寝台に蹲る。


「…ううっ」


 喉の奥から、とどめ様もなく嗚咽が漏れる。

 何の覚悟もなかった無様な自分を殺してやりたい。


「ぅあ、あぁぁ、ああっ、あぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ、ぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ」


 それは生まれ落ちた赤ん坊が産声を上げるような慟哭だった。

 声を上げて泣いたのなんて、幼いころ母を亡くしたとき以来だ。


 こんなに大声を上げて、きっと外の近衛たちにも聞かれてしまう。

 それでも感情は抑えようもなく涙を流させるのに、頭のなかには奇妙に冷静な私がいる。

 私はいつもそうだ。

 感情の動きは人並みなのに、意識の一部は常にどこか醒めている。


 その冷静な私は、これがテレサと別れた悲しみで流す涙ではないと理解していた。

 昨夜の感情に任せて動き過ぎて失敗してしまった後悔はあるけれど、テレサが本当にいなくなってしまったことで私はもう心を決めている。


 私を形成していた王女としての役割を放棄するのは怖い。

 私を守るものすべてに背を向けて知らない道に進むのは怖い。

 きっといま王女としての私が死んで、ただの私が生まれなおしている。

 この涙は捨て去られる王女への哀惜と、何も持たない新しい私の産声だ。


「あぁぁあぁぁっ、ぁあぁぁうぁぁぁぁぁっ」


 アレクの妹としての私を殺す。

 子どものときは全てを兼ね備えた兄が憎かった。それでもその背中を追いかければいいことに安心していた。


「あぁぁあぁぁっ、ぁあぁぁうぁぁぁぁぁっ」


 父の娘としての私を殺す。

 不出来な自分を等しく愛してくれた。私のような出来損ないが生まれてきてしまったことが申し訳なかった。


「あぁぁあぁぁっ、ぁあぁぁうぁぁぁぁぁっ」


 母の娘としての私を殺す。

 ただ一人、子どもとして甘えられる人だった。揺籃のようにもっと私を守ってほしかった。


「あぁぁあぁぁっ、ぁあぁぁうぁぁぁぁぁっ」


 ジョルジの姉としての私を殺す。

 純粋に慕ってくれる貴方が愛しかった。なぜ私だけが聖剣を継承できないのか嫉妬していた。


「あぁぁあぁぁっ、ぁあぁぁうぁぁぁぁぁっ」


 そして民の王女としての私を殺す。

 貴方たちの誇れる姫であることが私の支えだった。どうして誰も私のお友だちになってくれないの。


 そこまでするほどのことかと冷静な自分が言う。

 一時の気の迷いではないのかと。

 求められてもいないのに、拒絶されるだけかもしれないのに。


 所詮、私は勇者や聖女のような物語の主人公になれる人じゃない。

 テレサにだって、いつか私とは違う、本当に救ってくれる誰かが現れるかもしれない。

 私はアレクの言うとおりに結婚でもすればいい。意外と私に甘いアレクのことだからいい相手を見繕ってくれるだろう。

 結婚して、子どもを産んで、それなりに幸せに生きて、いつかテレサのことも過去にしてしまえばいい。

 そんなこともあったと、少しの胸の痛みとともに思い出す記憶に。


 うるさい。

 そんな自分は死んでしまえ。


 全部、ぜんぶ死んでしまえ。

 そうやって、テレサを想う気持ちだけを残す。


 この決意が間違っていると分かっている。

 きっと私が愛した、私を愛してくれた何もかもを裏切る行為なのでしょう。

 それでも王女としての全てを捨てて、あの人に向かって歩き出さないと。


 だって、あの人は一人なのだから。

 あの人が一人でいることを、私自身が許せないのだから。


 一刻も泣き喚いたでしょうか。

 もう涙も声も枯れ果ててしまった。


 感情の波が治まり、冷静な自分だけが残る。

 その自分が、立ち止まることを許さない。

 

 さあ、もう十分に泣いたでしょう。

 もう立って歩き出さないと。

 貴女は赤子ではないのだから。


 私は裸のまま寝台を下りて、床に脱ぎ捨てたドレスを拾い上げる。

 これは王女のドレス。もう私が着ていいものではない。

 私はため息をついて、ドレスを寝台の上に置き、シーツを体に巻いてそのまま寝室を出る。


「姫様…」


 居間には、あからさまに動揺した様子のサリア隊長が立っていた。

 私や寝室の様子を見て、昨夜ここで何があったか想像がついてしまったのでしょう。

 気まずい思いをさせて申し訳ない、とは思う。


 きっと、私に幻滅してしまったでしょう。

 それどころか、結婚前の王女が、同じ女の聖女と肉体関係を持つなんて、気が狂ったとしか思われない。

 十数年かけて積み上げてきたものが、今日一日で全て崩れ去ってしまう。

 私の名は、王家の恥になるのかもしれない。


 でも、それでいい。

 世界に見捨てられたテレサの近くにいるためには、テレサを見限ったもの全てを私は捨てないといけない。


 私はサリア隊長の目の前を横切り、家から出ようとする。


「お、お待ちください。そのお姿で外に出られては困りますっ」


 慌てて私の前にサリア隊長が立ちふさがる。

 私は首を傾げて、少し迷う。

 私にはもう近衛に命令する資格はないけれど、ここで強硬な態度をとって迷惑をかけるのも何か違う。


「…分かりました。騎士服を持ってきて頂けるかしら」


 かすれた声で私が言うと、サリア隊長は安堵の息を漏らす。


「かしこまりました」


 一礼して足早に外に出ていくサリア隊長を横目に、私は居間のソファーに腰かける。

 二人掛けのソファー。

 昨日、隣にいた貴女はもういない。


 貴女が座っていたところに触れても、温もりすら残ってはいない。


「待っていてください…」


 きっと、貴女は私を待ってなんていない。

 それでも私は貴女を追いかけるから。

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