第7話

 私の王女としての公務は、ほとんどが国政機関や民間施設の視察、訪問になる。

 本来であれば王妃である母が主に行う公務ではあるけど、母が亡くなってからは私が代行している。

 アレクが妃を迎えれば、その人に大半は引き継ぐことになる。

 別にやらなくても国政には大した影響もない、王家の政治宣伝プロパガンダの一つでしかない。

 そう思っているのだけれど、一年ぶりに戻ってみると、分厚い訪問の要望書の束を儀典官が私の前に積んだ。

 儀典官の「姫様は民の憧れですから」というのは、お世辞として受け取りましょう。

 儀典官に限らず、ローレタリアの武官、文官たちは王家に対する敬意が強すぎるように思う。とくに魔王を倒したからか、戻ってからの私とアレクに対する態度は崇拝の域だ。


 ともかくも、要望書の優先順位を確認して、今後の予定を組むだけで半日以上が経ってしまう。

 夕食までの少ない時間を、近衛騎士の訓練への参加と、入浴に充てる。

 時間が溶けるように過ぎ去り、私は部屋への帰路についた。

 民が求める王女として振舞うのは、私の義務ではあるし、それに不満があるわけではないけれど、やはり少し疲れてしまう。

 部屋の前までたどり着くと、後ろをついて歩く近衛と侍女を下がらせて、部屋に入る。


「テレサ、戻りました」

「はい、おかえりなさい」


 まるで適当な返事は、寝台の上から返ってきた。

 テレサはうつぶせに寝転がり、枕を抱えて書物の頁をめくっている。

 結っていない長い黒髪が、肌着一枚の背中の線を浮かび上がらせていて艶めかしい。

 朝と同じ格好なのだけれど、まさかそのまま外に出ていないよね。


 私になんて、何の興味もないみたいな態度。

 それが、嬉しい。でも、私のことを見てくれないことは不満。


 私は寝台の上に乗ると、テレサの近くに横座りをして、流れる髪を一房掬う。

 癖のない絹のような黒髪は、するりと私の手から零れ落ちる。

 つかみどころがないところが、持ち主とそっくり。


「何を読んでいるんですか」


 私はテレサの背中に覆いかぶさるように、読んでいる書物を覗き込む。

 甘い匂いと、背中の温かさに、ほっとする気持ちと、心臓が締め付けられるような気持ちが一緒に訪れてきて、情緒がぐちゃぐちゃになる。


 テレサは書物から目を離さない。


「ん-、『五王国見聞録』です」


 今から百年ほど前の新暦九百年代の冒険家ユーリ・モルガナが著した風土記。

 比較的近年の五王国の文化を網羅的に記しているので重宝されている書物だけれど、地誌と言うには娯楽的なので貴族の教育に使われることはなく、私も未読だ。


「面白いですか」

「はい。文化的背景に触れてはいますが、食べ歩き日記ですね、これ。美味しそう」


 テレサは貧しい子供時代の反動なのか、食べることにこだわりがあるのかな。


「旅をしたいのですか」

「いえ、読んでいるだけです。本当にこういうことをするには熱意がないと」

「ふぅん」


 興味はあるんだ。

 王都の美味しいお店巡りとか、手軽にできそうなことなら付き合ってくれそう。

 え、何それ。すごく楽しそう。

 実際に実行するには、お互い立場が邪魔しすぎるけれども。


「あの、姫さま、重いのですが」

「失礼ですね。そんなに重くありません」


 まあ、鍛えている分、筋肉質なので、見た目よりも重いのは事実だけれど。

 私は仕返しに、テレサの背中に体重をかけてのしかかる。


「姫さま、人との距離感がおかしいと言われませんか?」

「ひどい。誰にでもこんなことすると思っているんですか」


 むしろ、母と死別してから、家族とだってこんなに触れ合ったことはない。

 それ以外の人となれば、立場的にも過剰に親しくすることなんてできない。

 だから、私は人肌の温もりと心地よさを求めて、テレサに触れようとしてしまう。


「こんなこと、テレサにしかしません」

「わたしにも控えていただきたいのですが。お忘れかもしれませんが、わたしはあなたが嫌いなんです」


 その言葉にむっとした私は、テレサから書物を取り上げて脇に放り投げる。


「何をするんですか」


 不満げに、初めてこちらを見ようと顔を上げてくるテレサの勢いを利用して、腕をつかんでテレサを仰向けにひっくり返す。

 そのまま、テレサにまたがってお腹の上に腰をおろす。


「嫌いならっ」


 自分でも思ってもいなかったような感情的な声が出そうになり、私は深呼吸をする。

 私を見上げるテレサの静かな瞳を、まっすぐに見返す。


「嫌いなら、ちゃんと嫌ってください。どうして話しかけたら答えてくれるの。どうして触れるのを許してくれるの。もっと、もっとちゃんと拒絶してください。そうでなければ、納得なんてできるわけないじゃないですか」


 やだ。泣きたくなんてないのに、涙がこみあげてくる。


「私のことを嫌いだと言うのでしたら、もっと、ちゃんと私のことを見てから言ってください」


 テレサの指が涙を拭おうとしたのか、目元に伸びてくる。

 私はそれを乱暴に振り払って、テレサの胸元に深く顔を埋める。

 柔らかな感触。

 テレサの甘い匂いが強く鼻腔を満たす。

 強く。…んん。


「…テレサ、湯浴みはしましたか」

「いえ?」


 当たり前だけど、昨日は祝典からそのまま私の部屋で寝てしまったから湯浴みをしているわけがない。

 この人、ほとんど二日間、湯浴みしていない!

 もちろん、旅の間はそれくらい当たり前だったけれど。むしろ手拭いで身体を清めるくらいしかできなかったのが、ほとんどでしたけど。

 湯浴みできるのに、しないのは理解できない。

 庶民だって、この国ではほとんど毎日、公共浴場に行くものなのだ。


 別にテレサの匂いが不快なわけではない。

 むしろ少し強いくらいが蠱惑的だ。

 ただ、入れるのに入らないというのが、生理的に理解できない。


 あと、テレサの匂いが移り香したまま、人前に出るのは、何だかとても気恥ずかしい。


「…湯浴みに行きましょう」

「え、これからですか。明日でいいではないですか」

「私と、一緒に、寝るのですから、湯浴みは毎日してください!」


◇◇◇


 王家専用の浴場で、私はテレサと並んで湯につかっていた。

 別に私まで入る必要はなかったのだけれど、テレサを見張るために流れで一緒に入ってしまった。


 先ほどのこともあり、少し気まずくて、微妙に距離を空けてしまう。

 横目でテレサの方を見る。


 当たり前だけれど、裸だ。

 湯に入って少し気持ちが落ち着いたからか、今度はその事実を意識してしまった。

 湯に触れないように布で髪をまとめているため、露になったうなじ。うなじって何でこんなに色気を感じさせるのだろう。

 私は今まで他の女の人にそんなもの感じたことなかったはずなのに。

 鎖骨からなだらかな胸への、美しい曲線。

 胸は私もそんなに大きくないが、テレサは私よりも小ぶりで、ちょうど私の掌に収まりそう。

 いや、おかしい。私がテレサの胸に触りたいみたいじゃない。


 このまま見ていると、目が離せなくなりそうで、私は目を逸らした。


「さっきは、ごめんなさい」


 私の声が、ぽつんとお湯に落ちる。


「感情的になりすぎました」


 ちらりとテレサの様子を窺うと、まるで無関心そうに呆っとしていた。

 燻っていたテレサに対する不満が再燃する。


「ですが、言ったことは撤回いたしません」

「はあ」


 テレサの気のない返事。


「だから、私のことを知ってほしいです。貴女のことを知りたいです」

「わたしは姫さまのことを知りたいとは思いませんし、わたしのことなんて知ってもいいことはありませんよ」

「いいとか悪いとかではなく、ただ知りたいのです」

「わたしの何を知りたいのですか」

「何でも、です」

「何でも、と言われても」

「何が好きで、何が嫌いか、とか。何かを見てどう感じたか、とか。そういうのを全部、知りたいです」


 テレサが不思議そうに首を傾げる。


「そんなことですか?いろいろと疑問をもっているのでは?」

「それは、知りたくないわけじゃないですが、お友だちになるのに大事なことではないでしょう。それよりは、今テレサが何を考えていて、どう感じているかを知りたいです」

「ふぅん」

 

 私は何だかとても恥ずかしいことを言っている気分になって、また視線を逸らした。

 微かにお湯が跳ねる音が隣から聞こえ、私の肩にぴたりと何かが触れた。

 何か、なんて見なくても分かる。

 お湯で温まったテレサのほっそりとした肩が、触れている。しっとりとした肌は吸い付くようで、くっついたまま離れないのではないかと錯覚しそう。

 心臓がうるさいくらいに早鐘を打っている。


「では、わたしが今、何を考えているか教えましょうか」

「は、はいっ」


 耳元で囁くようなテレサの声に、背筋に官能的な痺れが走り、上擦った返事をしてしまう。


「姫さまのこと、変な人だなぁって思っています」

「ひどいっ」


 いたずらっぽいテレサの言葉に、私は触れ合った肩をぐいっと押した。

 そのとき浮かべていたテレサの笑顔は年相応に無邪気で、私は目を離せなくなってしまった。

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