第2話 虎、黒歴史をさらされて身もだえしているけどまだそこそこ元気です


「ちょっと、やめてください!」


 なおも、さけび声が夜の田舎町にひびく。

 虎が急いで駆けつけると、どうも出張かなにかで来たらしき中年男性が、酔っぱらって女性へからんでいるようだ。


「いいじゃんおじちゃんたちにおしゃくしてよ~」


「いやです、はなしてください」


 3人ほどの男性の集団がおり、女性のことをつかんでいるひとりの腕を、獣の敏捷さで虎がムンズとつかまえる。


「この町で、こういうさわぎはやめていただきたい」


「あっ? なんだコラこっちには格闘技やってるムキムキの部下が――」


 反射的に啖呵たんかを吐きかけた男の口が、思わず絶句する。

 うしろにいる男たちも同様であった。ひらいた口がふさがっていない。


 それもそのはず、虎は虎である。

 格闘技やってようがちょっとムキムキであろうが、虎のまえでは生肉か中までしっかり火を通したお肉かぐらいの違いしかない。食い殺されて終わりである。ここがジャングルでなかった幸運をかみしめよ。ジャングルに行ったおぼえはないと言われたらそれはそう。


「と、虎が二足歩行してる!!」

「飲みすぎたぁ~!!」


 男性陣は情けない悲鳴をあげながらダバダバとあらぬ方へ逃げた。

 ふうと虎が息を吐き、


「災難でしたな。この町ではめったに起こることではないので、町のことはどうかわるく思わんでいただけるとうれしいです。それでは」


 と旅行客らしき女性に詫びを入れ、去ろうとすると女性は虎の腕にいきなりしがみついてきた。


「ありがとうございます! ねっ、ちょっと、お礼させてくださいよ」


 虎は突然のことで、「な、な」と激しく狼狽ろうばいする。

 なにを隠そう、虎は人間のとき童貞であった。

 もはや獣の身になっては叶うはずもなしと、特に気にせずに生きてきたが、女性にこうも密着されてはとても平生へいぜいではいられぬ。


「じ、自分、ただのトラですから」


 ただのトラはしゃべらんし二足歩行もせんのだが、いたく動揺しているものと見受けられる。


 と、その返事を受けて女性の力がふっと抜けた。


 虎がどうしたことかとそちらを見やると、女性が今度は目をかがやかせてさけぶ。


「その声としゃべりかたは、トラくん!? もしかしてぼくの友だち、ペンネーム『✝月下の美しき美獣びじゅう✝』のトラくんかい!?」


「ま、まさか、貴方あなたえんさん!? なぜここにっていうか黒歴史のペンネーム読みあげるのやめろぉぉぉぉ!!!」


 虎の羞恥しゅうちが極限までふくれあがり、町をはるかに見おろす山々へもとどこうという声量で咆哮ほうこうを放つ。


 その声は、虎になった直後に出したときよりも、生命をしぼりつくしてようやく出せるような悲痛ひつう音声おんじょうであったそうな。


 ξ ξ ξ ξ


「いやー、ほんとひさしぶりだねぇ。もう6年か、もしかしたら7年ぐらいつかな。こんなところで、会えるなんて……」


 ひと悶着もんちゃくのすえ、ふたりで近くの居酒屋へ入ることとなった。


 木の板を中心に構成されたお店の内装は、豪壮ごうそうさこそないがしずやかな落ちつきを与えてくれる。


 虎は、その巨躯きょくをなるべく小さくさせてイスに座った。


「トラちゃん、これサービス」と言って背なかをもふりと押しつつ肉じゃがを出してくれる女将おかみさんに「あ、いつもすみません。ありがとうございます」と恐縮する。


 その直後にキリリとした顔をつくり、虎がぐいと酒をあおった。


おれがこんな姿になっていて、さぞおどろいたろう」


 つぶやくようにえんさんへ語りかける。

 えんさんは、本名が「まどか」というのだが、その漢字を音読みにしてみなから「えんさん」と呼ばれていた。


 虎が人間であったころに、ふたりは出会っていた。

 声は変わっていないとはいえ、よくえんさんはわかったものだと、虎はおどろきと感嘆とをいだく。


「トラくん……」


「やめてくれ。人であったころの名は、捨てた」


 また、虎がぐいとあおって、テーブルの上から過去を掃いて落としてしまおうとでもするように、つぶやく。


 なんかかっこつけて言っているが、虎が人間であったころの本名は「小寅ことら」であり、むかしもいまもトラという愛称なので捨てるもなにもない。


「じゃあ『✝月下の美しき美獣びじゅう✝』くん……」


「ぐわーやめて!! それはマジでやめてごめんなさいトラくんで大丈夫です」


「ねぇねぇ、なんで『美しき』と『美獣びじゅう』で美が二回あるの?」


「いやそれはあえて同じ言葉を別の読みかたで二回使うことで比類なき美しさを表現できると思ったからでやめて痛い痛い痛い痛い心が痛いやめてマジでお願い」


 虎は心臓の発作ほっさが起きたような深刻さで胸をおさえ、はぁはぁと肩で息をする。


 『✝月下の美しき美獣びじゅう✝』(笑)というペンネームは、虎がいにしえの自作個人サイトをインターネット上で公開していた時代に名のっていた名まえであった。


 そこへほそぼそと自作のオリジナル小説をアップしていたのだが、相互リンク経由でそれを発見し、感想を送ってくれたのがえんさんである。


 えんさんもまた自分で小説を書いており、年齢も近く、えんさんが主催する同人グループへ招待してくれるなどしていっとき交流していたことがあったのだった。


「そうして考えてみると、小寅ことらという本名といい、あのペンネームといい、偶然とはいえまるでおれがこうなることを予見するような名になっていたのは、滑稽こっけいというほかないな……」


「トラくん……」


 えんさんは、


(そのデカさはトラって風体ふうていじゃないね)


(現在の姿は美獣びじゅうっていう認識でいいんだ)


 といった言葉がのどの奥まで出かかったが、水をさすなと思いぐっとこらえた。えらい。


「どうして、そんな姿に……。虎になるというと、われわれの世代だと中島敦なかじまあつしの『山月記さんげつき』を思い浮かべてしまうね。変身譚へんしんたんなんてものは、神話や童話やカフカの『変身』や、山月記さんげつきのさらに元ネタの『人虎伝じんこでん』なんて例をあげるまでもなく、どの国・どの時代でも語られる題材ではあるけれど、こうして実際に目にすることが、あるなんて」


山月記さんげつき……臆病な自尊心と、尊大な羞恥心しゅうちしんゆえに虎になってしまう男の話だったな。あの男は詩で、おれは小説という違いはあるが、そうだな、結局のところ、似たようなものなのだろう。

 おれはかつて、自分を天才と思っていた。おれの書く小説は、おれの命を削り出してりあげた文章は、そこらの凡俗ぼんぞくの書くものとは、まったくもの・・が違うと、本気で思っていた。おれのライバルは、現代のプロではなく過去の文豪たちであると、本心からそう思っていた……笑ってくれ。

 しかし、結局、おれの小説は何年っても、何作つくってもおれ以外の人間にまともに評価されることはなかった。おれいきどおった、世間の見る目のなさを憎悪した、全部、ぶち壊してやりたいと、思った……おれはいつしか、そうした自己評価と、他者や世間からの評価、つまり『真の意味での評価』との乖離かいりに耐えられなくなった……そんなある日、どうしてもたまらなくなって走り出したら、気づけばこんな姿になっていたんだ」


 一気に、吐き出すように話した虎は、そうしたことであいた穴を埋めるようにまた酒をのんだ。


 女将おかみさんにおかわりを頼み、新しいグラスが置かれるまでのあいだ、ふたりのあいだには一言いちごんもない。


 そのうち、沈黙をごまかすためにか、虎が


「しかし、あの男とおれとの違いは、あの男は実際に格調高雅かくちょうこうが意趣卓逸いしゅたくいつと他者からの称賛を得ていて、おれはそれすらなかったということだな……だから、才覚のおとっていたおれがいまも人としての意識をたもっていられているのかもしれないと思うと、皮肉だが……」


 と、えんさんに聞こえるか聞こえぬかの声で自嘲じちょうした。


「トラくん」


 えんさんはえんさんで、聞こえなかったのか、聞こえないふりをしているのか、グラスを両手でつつんで天井を見あげ、ふっと力を抜くように笑って言った。


「いまは、書いているのかい?」


「…………」


 虎は考えるように少し黙ったあと、「いいかいえんさん」と人でいえば眉尻のあたりをくいっとあげ、


「書くという行為は……」


 と、女子高生の月さんへ話した内容と同じことを演説しようとするが、すぐにおかしさがこみあげたのか虎もまたふっと笑った。


「……いや、虎になってからのここ5年は、ほとんど一作も書けていない。もう、自信がないんだろうな。そしてなにより、『書かなくても生きていける』ことを、実感してしまったから。むかしは、書かないと生きていけないと思っていた。あるいは、書かない自分に生きている価値なんてないと、それだけがおれのアイデンティティなんだと、自分に言い聞かせていたんだ。でもそうした思い込みが自分をこんな姿に変えてしまって、それが単なる幻想であったことを知ったいま、自分ごときが、書く意味ってなんだろうって、考えてしまうんだよ」


 その言葉を聞いて、しばしえんさんは目をつむる。

 そうしてちびりと酒を口にふくんで、言った。


「書く意味とか、自信とか、そういうのはおいといてさ」


 イスに背をあずけて、虎へやわらかなまなざしを向ける。


「書きたいと思う気もちは、いまもある?」


「それは……」


 反射的になにかしゃべろうとした虎は、言いわけじみた言葉が自分のはらからわき出ていることに気がついたのか、あえぐように何度か口を開閉させた。


 そのあと、観念するように長く息を吐いてから、つぶやく。


「ある」


 おのれの毛むくじゃらの両手をひらいて、見つめる。


「こんな手になっても、書けるんなら、やっぱり、書きたいなと思う」


「なら、書こうよ」


 えんさんが、風のような軽やかさで、言う。


「苦しんで、うまくいかなくて、また苦しんでさ、そうやってのたうちまわりながら書こうよ。大したものにならなくても、だれの心もふるわさないようなものでも、だれにもまったく求められなくても、しかたないじゃないか。実を言うとね、ぼくもここ最近はぜんぜん書けてないんだ。仕事もいそがしくなって、遅くに帰ってきてごはん食べてお風呂入ったら寝るしかなくて、そうしたときの『今日も小説書かなかったな』が、『今週も』になって、今月もになって、1年になって、つづいていく。いまは少しまとまった休みがとれたから、それで日本をふらふらまわりながら、これからどうするか考えようと思ってたところなんだ」


 えんさんは少し照れたようにニヒッと笑った。


「だから、トラくんと会えてよかったよ。うれしかったし、話しながら、自分の書きたいって気もちも、再確認することができた」


 虎もまた、考えこむようにグラスを見つめていたが、ふたたびグイッとあおると覚悟を決めたように言った。


「そうだな、書こう! 書けるかはわからんが、もう一度、この胸の『書きたい』という気もちにしたがってみよう。えんさん、いつまでこっちにいるんだ。えんさんには、かならずや、この『✝月下の美しき美獣びじゅう✝』の新作をお目にかけると誓うぞ!」


「いやペンネームは変えたらいいじゃん! なに、さっき黒歴史がどうとか言ってたのに、やっぱ気に入ってんの!?」


 えんさんが指摘すると、虎はモジモジとしだした。


「いや、でもいまこそまさに『✝月下の美しき美獣びじゅう✝』って感じだし……」


「やっぱり自分で美獣びじゅう認定してるんだ!」


 えんさんは腹をかかえて笑った。


 虎は、どうも最初にいきおいよく飲み進めたせいでだいぶ酔っているらしい。

 雰囲気を壊すかとあえて書いていなかったが、虎は焼酎か日本酒でも豪快にきっしているかのようなそぶりであったものの、実際にはカルーアミルクをちびちびとのんでいた。

 甘くておいしいよね。ちなみにえんさんは芋焼酎のロックである。


 えんさんは明日には出立予定だというが、一週間後ぐらいにはまたこの町へ戻ってきて一泊しようかなとのよしであった。


 ふたりはその後も、会っていなかった期間を埋めるかのように、言葉をひとつひとつ重ねていく。

 長く天をおおっていた雲が晴れてゆくような、気もちのいい夜であった。

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