第7話『契約の刻印』

「章、章、起きなさい」


 うーん、もう朝か……。

 夢うつつの状態で、リリスの声が頭に響き渡る。


 やがて意識がはっきりしてくると、僕はハッとした。「いけない、寝過ごしたか?」と思い、寝ぼけた頭で腕時計を見る。


 ん……? 一時? 午前と午後どっちだ?

 蛍光灯が付いたままなので、目を瞑ったままでは区別が付かない。

 重い瞼を開けて、窓の外を見る。真っ暗だ。


「まだ深夜じゃないか、もう少し寝させてくれ」


 溜め息をついてもう一度寝直そうとする僕。


「こらこら」


 リリスのおうふくビンタ。こうかはばつぐんだ。


「何だよもう、今何時だと思ってるんだよ」

「何寝ぼけたこと言ってるの」

「ん……?」


 段々と目が覚めてくると、何故こんな時間に起こされたのかをやっとのこと理解した。


「ああ、そうか、そうだった――って」


 リリスに馬乗りにされている自分に気付く。


「何マウントポジション取ってるんだ、逆にノックダウンでも狙うつもりか?」

「ん?」


 リリスは訳がわからないといった表情をしている。


「何だその困惑した顔」

「現代の起こし方って、こういうやり方じゃなかったの?」

「どういう勘違いだよ、全く。とりあえず身体起こすからどいてくれ」


 大人しくリリスがベッドから降りると、僕は身体を起こして思いっ切り背伸びをした。

 とりあえず背伸びしたはいいものの、いまいち目が醒めない。

 何しろこんな深夜なんだ。仕方ないと言えば仕方ないだろう。


「やっぱりこんな時間に起きるのは性に合わないな。冬休みなんだからちょっと寝坊するくらいがちょうど良い」

「あら、夜更かしっていう選択肢もあったわよ。体力が持たないだろうけどね。睡眠不足は禁物よ」


 リリスは腕を組みながら、右手の人差し指を振り回しながら言った。


「契約する気がないのなら、今から一緒にこの赤ワインを飲んで昼過ぎまで寝る?」

「何馬鹿なこと言ってるんだよ」


 彼女の冗談を軽く受け流すと、しばらくかけて最低限の身支度を整え、儀式の為の道具をポーチに入れる。


「さて、大した量ではないが、これで準備完了、と。赤ワイン、蛍光塗料、カッターナイフに絆創膏、懐中電灯。大丈夫そうだな。大した量じゃないけど、バッグに入れて持っていくか」

「ちゃんと契約のセリフは覚えたわよね? 間違えたら命に係わるんだから」

「最悪リリスを読みながら言うから、絶対に大丈夫」


 僕は自信一杯に言った。

 読みながらであれば間違えることはまず無いだろう。


「わかった。それじゃ、霊山に移動するわよ」

「霊山? この時間にか……?」

「あら、怖がりなのね」


 きしし、と笑う目の前のサド天使、いや、むしろ小悪魔と言ってもいいか。

 そんないたずらな表情さえ魅力的だと思ってしまうのだから、僕もいよいよやられている。


「そんなことは、ない。断じて、ない」


 調子に乗らせるのが嫌だったので、断固として否定しておく。


「冗談よ。さて、心の準備が出来たところで、そろそろ行きましょうか」

「オーケー、案内してくれ」

「この服なら大丈夫ね」

「ん? それどういう意味だ?」


 リリスは唐突に僕のタートルネックの首根っこを掴み、おもむろに部屋の窓を全開にすると――。


 翼を広げて遥か空へと羽ばたいた。


「うわぁあぁああ!?」


 訳も分からず叫び声をあげる僕。


「良い声出すわね〜♪」


 最低だこいつ。本当に天使か? 頭に『墮』が付くんじゃないのか?


「やめろ、高いところは苦手なんだ、やめろ!」

「これから肝試しに行くようなものなのに、これくらいで驚いてどうするのよ」

「下ろせ! 下ろせ!」

「ちょっ、危ないわよ! 本気で危ないから暴れないで!」

「…………」


 僕は全てを諦め、全身から力を抜いた。

 もうどうにでもなーれ。


「下歩いてたら間に合わないのよ、嫌ならスピード上げる?」


 どうやら単に驚かせたり恐がらせたりする為だけに、この移動手段を取った訳では無いらしい。

 彼女の提案に、僕はNOで答えた。

 スピードを上げたりなんかしたら余計に恐いじゃないか。


「遠くを見てると意外と気にならなかったりするわよ」

「遠くを見ればいいんだな……?」


 僕は目一杯瞑った目を開いて、西の方角に見える米軍基地に目を向けた。沢山の光が瞬いていて、きっと空から見たら奇麗で、気が紛れると思ったからだ。


 想像通り、それぞれが何の光なのかわからないまでも、多彩な色を持つ光が忙しく煌めいている幻想的な光景を見ることが出来た。

 しばらく僕は、その隠れた絶景、ルーティンワークのイルミネーションに、見とれていた。よく見ると、誘導灯のお陰で、滑走路がはっきりと見て取れる。すると、今まさに飛び立ったであろう飛行機の光が、空へと滑らかに上昇していくのがわかった。


 ふと僕は頭上が気になり、そちらへと目をやると、可憐に瞬く真冬の星が目に入った。


「……なぁ、リリス。天界に星はあるのか」


 僕はリリスを見つめて言った。


「妙な質問ね。答えは、ノーよ。サマーランドって言って、一日中明るいの」


 前を向いたままリリスは返答する。


「夜が恋しくはならないのか」

「…………」


 表情こそ読めなかったが、リリスが少し考え込んでいるのがわかった。


「夜は一人の時にこそ訪れるものなのよ」

「……意味がわからない」

「覚えておいて損はないわ、覚えるかどうかは自由だけどね」

「…………」

「…………」


 僕はしばらく意味を考えたが、結局よくわからなかった。

 ただ無言のまま、数分の時が流れた。


 下方の幹線道路ではトラックが忙しく行き交いしていて、どこからか救急車のサイレンの音が耳に入ってくる。そこは、幾度となく家族と自動車で通り抜けた、馴染みのある幹線道路だった。

 つい下を向いてしまい、再び怖くなり始めたので、僕は再び上空へと視線を戻した。


「……そういえば小学校の頃、プラネタリウムに行って、夏の大三角形と、冬の大三角形と、オリオン座だけは覚えたんだ」

「あら、披露してくれるの?」

「一番南にあるのが、シリウス。零等星。目が良い人は、昼間でも見えるらしい。その北東にあるのがベテルギウス、その西にあるのがプロキオン。大体正三角形になってるだろ?」

「そうね……」

「オリオン座も綺麗に見える。ベテルギウスはオリオン座の左上にあって、右下の明るい星はリゲルっていうんだ」

「素敵な知識ね。……もう空中散歩は怖くなくなった?」

「上を見ていれば、まだ平気だ。下を見たら、少し……いや、かなり怖いけど」

「まだしばらく続くから注意していてね」

「了解」


 僕はまるでデートのようだと思い、少しだけ頬を赤らめた。


 やがて、目的の霊山の頂上に着いた。そして僕は懐中電灯を付けて、魔導書形態のリリスを見ながら儀式の準備を始めた。


 カッターナイフで人差し指を切り、一滴の血と、蛍光塗料を赤ワインの中に入れ、瓶の中で混ぜる。そして魔導書のリリスをよく見ながら、神経を集中させて、綺麗に魔法陣を完成させた。その間、リリスは、特に何も言わなかった。


「……やっと完成した」


 ふぅ、と一息つく僕。


「後は午前二時まで待って、契約の台詞を唱えればいいんだよな」

「そうなるわね」


 腕時計を見る。午前一時五十五分。

 まだ少しだけ時間がある。契約の台詞だけ確認しておくか。


「えーっと……。我が器は自我と共に。我が霊魂は神と共に。我が気魂は精霊と共に。我が生の働きを貴公に捧ぐ、貴公が生の働きを与えたもう。望むべき天界の力を我へと注ぎ込め、本契約ラウチリプス・シモープ……で合ってたかな。あ、二回目は貴公が生の力を与え給え、の間違いだったか」


 赤ワインで描かれた魔法陣が、蛍光塗料を優に超える輝きを放ち始める。


「え……」

「何!? 何が起こっているの!?」

「突然魔法陣が輝き出したんだ!」

「いけない! 章! すぐに魔法陣から出て! 早く!」

「え、一体……」


 ドクン、と、心臓の鼓動が早まる。


「うっくぅっ……が……ァ」


 骨が軋むような激痛が身体を襲う。


「契約の手順を間違えたから精霊たちが怒ってる! もういい! 魔法陣から出て!」

「本契約をしないと、願いは叶えられないんだろ……! 出てたまるかよ……!」


 心臓が血液を送るスピードがおかしいくらい早い。


「あぁあぁぁ嗚呼ァ!」


 思わず叫び声を上げる僕。


「章!」


 リリスは実態形態になると、僕を魔法陣の外へ引きずり出した。


覚醒能力アウェイキング・アビリティ、使うしかないわ……!」


 リリスは上半身を脱がし、僕が持ってきたカッターナイフで人差し指を切り、何かを凄まじいスピードで左胸に書くと、僕の心臓に手を当てた。


回復イーラバ・キア!」


 身体中から、少しずつ痛みが引いていく。忙しく波打つ心臓が、平静さを取り戻す。残ったのは、異常過ぎる困憊だけだった。


「ぐっ……はぁ……はぁ…………」

「何してんのよ、この馬鹿!」


 リリスに熱いビンタを食らう僕。


「生きてて良かった……本当に! 間違えたら命に係わるって言ったじゃない! 魔法の契約を甘く見ないで!」

「甘く見たわけじゃ――」

「見たわよ馬鹿!」

「身体に障るからあまり大きな声は出さないでくれ、お願いだから」

「…………」


 リリスは黙りこくり、不機嫌を顕にしたまま、僕のことを睨み付けた。

 よく見ると、その目に涙を浮かべている。

 そっか、本気で怒ってくれたんだ。


「二時間休憩してからここを出るわよ。回復魔法使うから、それまで寝てて」

「……了解」

「全くこの馬鹿は」


 僕は自分の心臓に手を当てた。……正常に動いている。まだ、生きてる。

 胸の鼓動を最後に確認すると、僕は安心して、眠りの世界へと入っていった。

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