第11話 幽き月

「偉大なる帝よ、こちらにおこし下さい」

「うむ、少翁しょうおうよ、そちは誠に死者の魂を呼び起こすことができるのか?」

「真でございますとも」


 朕が案内された狭い室には薄暗い帳がめぐらされ、真ん中で二つに区切られていた。その周りは燈火で囲まれている。

 帷の向こうには肉と酒が並べられており、これが死者を呼ぶという。

 調合された霊薬を玉釜で煎じた丸薬が金炉で炊かれれば、草のような果物のような、得も言われぬ不思議な香りが漂った。

「まだなのか」

「まだでございます。霊は夜の幽きものですので。それから生きた人間は死者とは相いれませぬ。先程の約束を決して破られませぬよう」

「わかっておる。帳に触れてはならぬのだな」

 そうこうしていると、帳の奥で香の煙がうっすらと形をなしてきたように思われた。薄暗い帳の向こうで薄ぼんやりと人の形を取ってはまた崩れていく。気のせいといえば気のせいと言い切れそうな微かな残滓。


「李よ、李なのか?」

 呼び掛けども返事はない。忸怩たる思いで何度も声をかけるが、煙はゆらゆらとたなびくだけだ。

「少翁よ、これは李の魂なのか」

 道士の声はいつのまにか聞こえなくなっていた。そして白い煙に当てられて、朕は心なしかふわふわとした心持ちとなってきた。

 目を凝らしているとだんだんと李の顔を取っていくように思われる。思わず駆け寄ろうとするのを押し留める。煙のような李は帳の奥で佇んだり座ったり、ゆらゆらと揺れ動く。はっきりとは見えぬものの、確かにその所作は李そのものだった。

 妖のように神霊のように李は不可思議にゆれ、その煙は時折くっきりと形を取ってはまた崩れ落ちた。李よ、何故返事をせぬのだ。

「李よ、李よ、そこにおるのか」


 是邪非邪 李よ、お前は本物なのかそれとも幻か

 立而望之 朕はここに立ってお前を望んでいる

 偏何姍姍其來遲 けれども李よ、何故お前はそんなにゆっくりと蠢き、やってきてはくれないのか


 嗚呼。

 宮廷に飾った笑わぬ絵よりよほど朧げであるのにどうしてこれほどまでに求めてやまぬのか。李よ、お前は李なのだな。亡霊となってもこの反魂の香で朕に会いにきてくれたのだな。


 そのような悲痛な声を延年は帳の向こうで聞いていた。

 広利は精鋭と十分な糧秣を下賜されて今度こそ大宛を打ち破り、三千頭の汗血馬を武帝に奉じた。戦果の内容は酷いものだったが、武帝も広利の戦弱さが身にしみたのだろう。武帝は広利を戦禍から遠ざけ海西かいせい侯に封じた。広利もようやく、誰にも恥じることのない居場所を手に入れたのだ。

 その報を聞いた夜、俺は月を眺めた。

 何かある時に見る月はいつも満月だ。草原で李家の呪縛を解くと誓ったあの夜も、初めて武帝に召された夜も、妹が初めて武帝の前で舞った夜も、そして妹が毒を受けた夜も。

 でもこれで。李家の呪縛は解けた。最後の俺以外は。俺はいいんだ。俺は家族の呪縛を解くための長安城に刺さった楔だ。このまま広利と劉髆と、その子や孫が幸せになればいい。もとより俺は子が成せない体だ。俺で呪いを終わらせる。ここからは出られないから、広利と劉髆に会うことももうないのだろう。そう思うと少し物寂しく感じる一方、呪いから自由になった彼らを喜ばしく感じる。

 心が淡く軽くなった。ため息をついた。これで妹の子も弟も李家の呪いから解き放たれた。

 満月を再び眺め、久しぶりに1人で酒を嗜む。密やかな祝杯だ。俺の中とあの世にいる妹よ。宿願は果たしたぞ。2つ並べた杯に酒を注ぎ、静かに小さな杯を乾した。

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