第4話 犬舎の月

 最近犬番になった宦官が美しいという噂が立っている。わしはどうしたものかなと頭を抱えた。宮女が見に来るものだから、仕事の邪魔なのだ。

 長安城では多くの目的で犬を飼っている。食用犬というのが1番多い。あとは様々だ。狩猟用、愛玩用、番犬、儀式用。件の宦官がいるのは狩猟用の犬舎である。その犬舎では帝専用の10頭ほどの犬がおり、わしが調教師として狩りを教えている。


 宦官というのは所詮は犯罪者だ。もともと教育のある者は尚書などの仕事に就くことはあるが、畜舎に配属されるような者には学がない。いつぞやも犬が食えると思って来た体ばかり大きい宦官が配属されたことがあった。猟犬の訓練を見てすぐに怖気づき、反対に食われると思い込んで動けなくなった。

 犬というのは勇敢であるが、存外繊細なものだ。特に上下関係には。だからそうなってしまうと使い物になりやしない。犬に舐められ追い回される。


 わしのもとに新しく配属されたのはまだ20にもならない歳若い宦官だった。やつれて蓬髪が乱れるままの汚い姿を晒していたが、その動作には妙なしながあった。

 仕事自体は簡単だ。朝夕に犬に餌をやり、訓練の間に犬舎とわしの室の掃除をする。その宦官は軽く頷き雑務についた。仕事ぶりは真面目で、特に犬を恐れる様子もなかった。そして何故か妙に犬の扱いがうまかった。


 聞くともともと芸人一座にいたという。その一座では犬を飼うことはなかったようだが以前一緒に興行をした一座が犬を扱っていたそうだ。

 わしはなるほど、と思った。思えばその宦官はそのへんによくいる粗暴な下働きとは異なり、妙に受け答えにも品があった。これも興行を行うなかで身につけたものなのだろう。そのうちわしはその宦官を仕事の補助に使うようになった。宦官は覚えがよく嫌がりもせず、わしが命じる前に率先して仕事を行うようになった。とても仕事が楽だ。そうしていると仕事の半分ほどを任せるようになってしまった。


 困ったな。そういう姿を犬はちゃんと見ている。犬の一部はわしよりその宦官に従うようになってしまった。

 この畜舎の犬は帝が狩りに用いる犬である。帝は狩りを大変好まれる。そうすると尊き御方々の前にも出る機会がある。わしは廷吏と相談して宦官に畜舎のそばの小さな室と簡素な衣服を与えることにした。身を整えて髪を結い直した宦官は見違えるほど美しく、わしと廷吏は目を見張った。

 これほどの見目で後宮内に住んでいたのであれば夫人や貴妃から寵を受けるのは容易であろう。見逃されるはずもない。なにせ後宮には男は帝お一人、女は数千人も侍っていて、召し上げられた後に一度も帝に見えることなく臣に下げ渡される女も多い。見目の良い宦官の中にはそのような宮女に飼われて楽しく暮らす者もいると聞く。そして目の前の宦官は見目がよいどころではなく、わしが宮廷の中で見かけたどの宮女よりもいや、どの貴妃よりも美しかった。


 何故身を整えないのだろう。宮女に飼われる方がこんな宮殿の端で犬の糞にまみれて粗末な暮らしをするよりよほどよいだろう。どうせここからは出られないのだから。

 わしは疑問に思ったが、そこまで頭が働かぬのだろうとも思った。なぜならその宦官はほとんど喋ることがなかったからだ。それにこの宦官の噂を聞いて宮女が鬱陶しく覗きにきても、宦官は顔を隠し犬舎か自室から出なかったから。こんな犬臭いところにくる宮女も珍しいのだがな。


 その日は上林苑じょうりんえんで狩りが取り行われた。空気は良く澄み晴れ渡る。

 上林苑は長安の南にある御料地で、狩りを好む帝が拡大させた三百里にも及ぶ巨大な庭園だ。七十箇所もの離宮が設えられ、多種多様な動物が飼育され、異国の珍しい果樹が植えられていた。

 秦嶺しんれいの山から秋の少し肌寒い風が吹き下ろしていたけれども陽は未だ夏の名残を残して肌を暖める。やはり、狩りには丁度よい日和だ。犬の動きも良い。わしは宦官とともに犬を操り、その日は3頭の鹿を帝に献上した。

 帝は機嫌よく近くまで侍ることを許され、顔を上げるよう御声を賜った。わしとわしの隣の宦官が顔を上げた時、周囲で息を飲む音が聞こえた。そしてわしは宦官がいつもよりも更に美しくその顔貌を磨いていたことに気がついた。


「名は何という」

「李延年と申します。誠に僭越ながら此度の豊穣を奏上仕りたく」

「許す」

 わしはその時初めてその宦官の名を知った。そしてわしの隣に侍る見たこともないような美丈夫はすくりと立ち上がり、宦官特有の少し高い、そしてその美丈夫特有の琴の音のような澄み渡った声を響き渡らせた。その五言の音声とともにふわりと空気は揺れ、それに乗るようにくるりと美丈夫は舞った。宦官の簡素な衣服の裾ですらあたかも精霊の羽が地を撫でたごとくに見えた。

 再び美丈夫が深く頭を下げた時には、わしの瞳からも何故か涙がこぼれていた。それほどその舞は美しく、そしてその口から迸る詩情は胸を打ったのだ。夢の中に連れ込まれたかのように。


 その翌日、李延年という宦官はわしの犬舎から姿を消した。

 それ以降、武帝の側には美しく着飾った宦官が侍るようになったという噂を聞く。

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