鼻唄まじりの弔辞
小狸
短編
何事につけ上手くいった試しがない。
何かをしようにも、それらは
小学校の時からである。
グループ活動の時、私と組んだグループだけは、必ずと言って良い程失敗する。上手くいかない。少なくとも、他のグループとの序列をつけた場合、最も下位に位置するようになる。
最初は、こはいかに、と思っていたけれど、少しずつその原因に気が付き始めた。
それは、私の存在である。
こうも何をしても上手くいかないのは、私が居るからではないのか。
そうでなければ、一つくらい成功しても良い筈である。
にも
今日も駄目であった。
会社でのグループディスカッションの後の発表で、私の班だけが上司から叱責を受けることになった。
自己効力感、という言葉がある。
これは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知している状態を表している。
もしもそういうものが数値化される世があったとしたら、私のそれは最早負の数の領域に到達しているだろう。
次第に、その疑念は確信に変わり。
いつからか、私の影には、こんな思いが
自分は、死んだ方が良いのではないか。
自分は、世の中の足を引っ張っているのではないか。
インターネットを巡っていると、まあ色々な文言を見る。本当に色々だ。当然のように人のことを「死ね」だのと罵倒している者もいれば、「死にたい」と希死念慮を衆目を
そんな中で――一際私の目に留まったのは、「無能」という言葉であった。
無能。
思わず奥歯を噛みそうになった。
私は、まさに無能ではないだろうか。
役に立てない。
役に立とうとすればするほど、周囲に迷惑をかける。
生きている価値のない人間。
そして、止しておけば良かったものを、ネットの波を
「無能で頑張る人ほど、迷惑なものはない」
は、と。
思わず声が出てしまった。
仕事帰り、地下鉄の駅で電車の到着を待っている時分のことである。
無能で、頑張る人。
それはまさしく私のことだ。
間違いない。
でも、だったら。
どうすれば良いのだ。
有能になるために努力すれば良いのだろうか。周囲に認められるように頑張れば良いのだろうか。ならば今までやってきたことは、一体何だったのか、無駄だったのだろうか。そもそもその周囲という基準は、何なのか。いや、実際小学校から社会に至るまで、一度として私の存在が集団の歯車となって機構を回せた試しがない。
いつだって噛み合わなかった。
いつだって噛み合えなかった。
そんな私は。
――死んだ方が、良い?
ふと、そんな思いが自然と浮かんだ。
至極当然の考えである。
「生きづらい」と公言できる人は、恵まれている側だ。
大体の人は、自分の主張など許されることなく、世界という良く分からない何かに押し潰されて、抑圧して生きている。
私は。
生きていて、良いのだろうか。
頑張る無能は必要ない、そうならないために努力が必至、しかしそれをするだけの余裕は私には無く、縋ることのできる誰かがいる訳でもなく、世の中は多分私を抜きにしても、否、私を抜きにした方が上手く回っていくだろう。
だったら。
私なんて。
――死んだ方が、良いのではないだろうか。
今朝も、都内のJR線が人身事故で運転見合わせと、案内表示で出ていた。
多分、私みたいな人が、死んだのだろう。
大勢の人に迷惑をかけて、大勢の人のスケジュールを狂わせて、死ぬ。
でも、私は、ずっとそうだった。
私の存在自体が、迷惑そのものだった。
だったら。
これで最後にするから。
迷惑かけても。
良いよね。
私は一歩を踏み出した。
先には何もない。
ただ、虚空が、広がっている。
光が、迫る。
世界にとっては、小さな一歩だが。
私にとっては、大きな一歩だった。
*
ネット上では「なぜ助けなかったのか」「撮ってるだけかよカス」「つーか人に迷惑かけずに死ねよ」「ダイヤ乱れて最悪」等、
大勢の人間に迷惑をかけて、彼女は死んだ。
ただし、それ以降、彼女が人に迷惑をかけることはなかった。
当たり前である、死んだのだから。
迷惑も安心も、何もない。
死んだら。
何にも、ないのである。
令和二年の十月六日のことである。
(了)
鼻唄まじりの弔辞 小狸 @segen_gen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます