9 禁じの英智④
魔石が熱を持っているだけで、会場内に不審な様子は見られない。
ケイデンスは不自然にならぬよう頭上を見上げ、次いで足元まで視線を戻した。
天井に連なる照明によって、人々の足元には影が出来ている。
ケイデンスから興味を無くし、憮然とした表情で踵を返すベルノイアにも、当然、ドレスの影が揺れていた。
近衛騎士や侍女たちも、リリアリアに一礼して背を見せる。
その中で一つだけ動きと合わない影が、瞬きの間ほど短い時間、
(っこいつだ!!)
ケイデンスは衝動的に、一人の近衛騎士の腕を掴む。
何事かと周囲に騒めきが走ったその時、彼は浮遊するに似た感覚に襲われて、男を掴む腕に力を込めた。
刹那、同じ騎士団に所属していたはずの男が、奇声をあげて脳天から真っ二つに割れた。
周辺に肉片が飛び散り、凄まじい悲鳴と混乱が会場を渦巻く。
ケイデンスの掴んでいた腕は捩れ、身がすくむほど美しい女の上半身を模した怪物が、赤く色付いた瞳孔で彼を見下ろした。
見続ければ気が触れそうなほど、均整の取れた上半身と、鱗がひしめき合う軟体動物の下半身。海色の長い髪の奥から覗く瞳は、白目まで赤く、ぽっかりと開いた唇も血濡れた赤が目を奪う。
「セイレーン……!」
魔物は悲鳴を上げてケイデンスに襲いかかった。
普段、民の救助要請を受けて相対する時、魔物は魔法使い同様に、歌を用いて攻撃を仕掛けてくる。確かに海上であるほど威力は桁違いだが、基本的な戦法は海も地上も変わりない。
しかし今の状態はまるで、歌い方を忘れてしまったかのように、歪な呼吸音を上げて物理的にケイデンスを引き倒した。
騎士になりすましていた魔物は、血走った目でケイデンスの首に両手をかける。
動転しながらも剣を抜き、蠢く下半身に突き立てると、怪物は更に甲高い声を上げた。
応戦しようともがいた時、そぐ傍で華やかな歌が聞こえ、魔物の体がくの時に曲がって吹き飛んでいく。
「ご無事ですか、ロビンラーク辺境伯子息様!!」
侍女服を飾るリボンの内側から、暗器を手にしたクロエリィが叫ぶ。彼女は朗々と歌いながら、短いナイフをセイレーンの眉間に命中させて、ケイデンスの前に躍り出る。
のし掛かられた時に肺を圧迫されたせいか、激しく咳き込むケイデンスへ、リリアリアが真っ青な顔で走り寄った。
「ケイデンス!」
「っいけません、っ、っ、殿下、すぐに、避難を……!」
「ダメですわ、あなたを置いてはいきません! ライデン!!」
妹と共に前へ出たライデンリィが、同時に同じ「うた」を歌って攻撃の威力を上げる。
そして剣をしならせつつ床を踏み締め、一気に跳躍しセイレーンへ切り掛かった。
阿鼻叫喚となる会場内へ、騒ぎを聞きつけやってきた他騎士団員たちが、即座に二手に別れて避難誘導を開始する。
戦闘に特化した第1、第2小隊は、ケイデンスの兄を筆頭に力強い声量を響かせ、ライデンリィへ加勢に入った。
うねる下半身で切り掛かる団員たちを薙ぎ払い、セイレーンは咆哮を上げる。
おおよそ似つかわしくない
その怒号を聞きながら、ケイデンスは己の脳内が掻き乱される感覚に苛まれ、酷い
「ケイデンス!?」
(なんだ? いったいどうなって、くそ、気持ち悪い、……っ吐きそうだ……! 何かに意識が引っ張られてる……!)
なんとか視線を上げてセイレーンを睨みつければ、魔物は大きく見開いた目でケイデンスを見つめ返した。
徐々にゆったりした動作に変わり、青白い皮膚が仄かに発光し始める。長兄のアゴールが、焦りを滲ませた声を上げた。
「まずい! こんな場所で唄われたら、大きな被害が出る。お前たち、頭部を狙え! 喉を潰すんだ!!」
目の前が赤く点滅し始めていたケイデンスは、その言葉を聞いて、強く意識を引き戻す。
力の入らない上体に鞭打って起き上がり、顔面蒼白で腰が抜けたリリアリアを、夢中で腕に抱き上げた。
(気絶してる場合じゃない! 王女殿下を避難させないと、ここは危険だ……!)
地上に出没するセイレーンは、力の強い個体が多い。長兄の言う通り、こんな狭い会場内で攻撃が炸裂したら、人体はおろか建造物でさえ、無事では済まないだろう。
先ほどは
セイレーンが恍惚とした笑みを浮かべると、先ほどまで貫通していたはずの剣が、頑丈な鱗に遮られて欠け始める。
魔物は背中を反らし、剥き出しの胸に両手を当てて、大きく息を吸い込んだ。
周囲の気圧が急激に下がり、三半規管へ直撃して汽笛のような耳鳴りがする。
視界の端でリリアリアが、涙を浮かべた双眸で、ケイデンスの首に縋り付いた。
(っくそ、なんで俺は、あんな無鉄砲な事を……なんで何かできると思ったんだ、なんで、俺にもできるって思ったんだ……! くそっ、ちくしょう、なんで、なんでだよ、当て付けみたいにお前が歌うなよ……ッ!!)
刹那、確かに意識が、浮遊する。
セイレーンが再び大きく目を見開き、両手で自身の喉を押さえた次には、泡を吹いてひっくり返った。
巨体が床に沈む地響きに驚き、ケイデンスが振り返った時にはもう、セイレーンは痙攣を繰り返して悶え転がる。
そして四肢が引き攣ると、そのまま指先から海水に変化し、存在を失っていった。
「……え?」
呆然とした声が、誰かの口から零れ落ちる。
それはあまりに呆気ない、絶命まで一瞬の出来事であった。
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