page16 : 二重の決意

 グレイの研究室は、学園から少し離れた場所にある。

 昼間ですら、余程の音で無い限りこの研究室に喧騒の気配が満ちる状況は訪れない。


 まして現在は太陽が隠れる深夜。

 その部屋で過ごす者たちが静寂を守っていれば、自ずと部屋には静けさが満ちる。


 当然、グレイと学園長が騒がしくお喋りを楽しむ……なんてことは起こり得るはずもなく、研究室には少女の寝息とペンの走る音、書物のページを捲る音だけが静かな音を発していた。


 とはいえその程度で気まずくなる関係性でもなく、


「お姉ちゃん、何を書いているのですか?」

「授業用のメモだ。来週から面倒な授業が始まるからな」


 各々持て余した時間を有意義に使っていた。


「その子の容態はどうだ、フラン」

「魔力枯渇の初期症状がありますけど、身体に怪我は見当たりません。学園長さんの魔力が抜けきれば目が覚めると思います」


 グレイと普通に会話をするフランの存在を、学園長は特に気にした様子もなく文字に視線を落としたまま。


 グレイの正体を知っているように、フランの存在もまた、彼にとっては既知のもの。特段驚くこともない。


「――んっ、うん…………」

「あ、目が覚めたみたいです!」


 その後部屋にもたらされた可愛らしい寝起きの声。

 彼らはその発生源となる少女へと視線を向けた。


「……うぅ、こ、こは…………」

「ここはスペリディア魔法学園だ。身体は大丈夫か」

「……え、ぇだいっ……じょうぶです」

「それは何より。ちなみに、ここに来るまでに何があったかは覚えているか?」

「……あ、わ、私…………男のっ、殴られて……」


 グレイの問に対し、ラクエスは青ざめた表情で震え出した。あまり思い出したくない記憶だ。無理もない。


「無理に思い出す必要は無い。聞き方が悪かったな。ここを訪れるまでの事は分かるか?」

「……す、すみ、ません。よく覚えていなくて……その、ごめんなさい」


 どうやら謝る事が口癖になっているようだ。

 グレイは首を振って彼女の傍に座り込む。


「ここに君を害する者は居ない。謝らずとも、君は何も悪いことはしていないさ」

「……あ、す、すみま」


 ラクエスは再び謝罪の言葉を言いかけて、慌てて口を塞ぐ。

 謝らなければならない環境にいた事を思えば、それを責めることは出来ない。


「グレイ先生、少しよろしいですか」


 そのやり取りの間へと、様子を伺っていた学園長が入り込む。


「君はラクエスさんで間違いありませんね」

「……は、はい」

「では、という名に聞き覚えはありますか」

「……?」


 学園長の問いに少女は首を傾げる。

 知っている様子は無い。


「ふむ、ありがとうございます。ラクエスさん、あなたは死霊術を得意としていますが、それも間違いありませんか」

「……はい」


 何故知っているのか、などと言葉にする余裕もない。

 あるのはただ、その後に訪れる卑しい大人の記憶だけ。


「そう怯える必要もない。このジジイは、こう見えてここのだ」

「がく、えん……ちょう?…………えぇっ?!」


 慌てて顔を上げたラクエスは、その視線を目の前のおじいさんとグレイの間でぐるぐるとさせる。混乱しているその様子は、動揺と言うよりも驚きに近い。


 気持ちの整理が落ち着く前に、情報を与えすぎたようだ。


「ですから、貴方の事情についてはだいたい知っているつもりです。その上で、貴方のこれからの学園生活について、1つ提案があります」

「え、えと……提案、ですか?」

「はい。学園には学生寮が用意されていますが、完璧に安全とは言いきれません。学園内も同様です。大層な防衛設備はありますが、意思のない魔導具では役に立たない時もあるでしょう。そこで、グレイ先生の元で生活していただきたいと思います」

「勿論、君が断るのならば強制では無い」


 学園長の提案にすかさず補足を入れるグレイ。

 未だ抵抗を諦めてはいない。


「無理に……とは言いません。今まで通り学生寮での生活も最大限のサポートはできます。この提案は学園側の事情ではなく、あくまで私個人のに基づいた提案ですから」


 誰との――とは、一切口にしない。

 その存在を口にすることは、彼女の求める所と相違あると判断した。


「少し考える時間があった方がいいでしょう。今日はそのままお休みいただいて構いません。明日の朝、もう一度尋ねることにします」

「何を勝手に決めているんだ。私は許可していな――」

「いいですかグレイ先生」

「…………はぁ、構わん」


 言葉に押されているグレイと言うのも、学園長相手でしか見ることが出来ない貴重な姿だ。


 静かに見守っていたフランがニコニコしているのが何よりの証拠である。


「そのベットをそのまま使ってくれ。私はここにいる」

「私は一度学園に戻ります。何かあれば彼女を頼ってください」


 流れるようにグレイへ丸投げした学園長は、彼女の反論を受け付ける間もなく研究室から去っていった。

 逃げ足の早い爺さんである。


「まったく……まぁいい。用があれば言ってくれ」


 呆れて扉を閉めたグレイは、ラクエスに一言声をかけて資料の散乱した机に向き直る。


 戸惑う少女は二人の気遣いに従い、身体を柔らかな布団に預けた。睡眠魔法で眠っていたにも関わらず、精神的な疲労が重なった少女はあっという間に眠りに落ちた。


 紙切れの上で踊るペンの足音だけが、いつまでもその部屋で音を奏でていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


「…………ん」


 モゾモゾと布団の中で身体を動かし、頭が覚醒し始めるのを感じる。


 黒い布の隙間から差し込む無粋な日差しを遠ざけるように手元の布団を目に被せ、そうして数秒の後、快適な環境に慌てて飛び起きる。


「おはようラクエス。体調はどうだ?」

「……あ、……お、おはよ……う、ございます」


 慌てて飛び起きた少女――ラクエスは、急な立ちくらみに襲われ頭を枕へと戻した。


 そうして昨夜のやり取りを思い出し、今の状況を理解する。――ここは学園の中。グレイ先生の研究室である。


「学生が訪れることは滅多に無い。何か飲めるものがあればいいが……」


 手元のカップに入った焦げ茶色の飲み物を口に流し込み、グレイは研究室に備え付けられた簡易的なキッチンに足を運ぶ。


 ほとんど彩色のないその空間を探し回り、同じ白いカップにココア色の液体の入った飲み物を持って戻ってきた。


「飲めるか?」

「……あ、ありがとう……ございます」


 差し出されたカップを受け取り、その液体をまじまじと眺める。


 暖かな湯気が顔をくすぐり、甘い香りが鼻の奥を刺激する。恐る恐る口に運べば、思ったより熱い。


「あちっ」


 カップを慌てて遠ざけ、フーフーと息を数回吹きかけてから再び口元に運ぶ。


 安心した表情を見せる彼女に、グレイは笑みを浮かべた。


「そろそろ学園長ジジイが訪ねてくるだろう。昨日の提案に対する答えは出たのか」

「……はい。ご迷惑でなければ……えと、先生の」

「そうか。では改めて、自己紹介をしておこう。私はイルミス・グレイ。この学園の教師で、明日から君たちの教室の担任になる」

「担任……えと、Zぜーたクラスの、ですか」

「あぁ。少々特殊な事情のある教室だが、皆優秀だ」


 己の力を強く信じる者、天才故に未熟な者、才能の制御が効かない者、複雑な感情を抱く者、最強にして禁忌に触れた者。そして、――自身の護り方を知らぬ者。


 皆それぞれに事情を抱え、しかし目指す形がある。

 グレイの仕事は、正しい道に進ませることでは無い。彼らの進みたい道にための術をさずけること。


「ラクエス。君にやりたいことはあるか」

「やりたい……こと?」

「目指したい場所、欲しい未来。つまり、だ」


 目的無き学びは教授に値しない。

 目指したい形を想像することが、学びにおける第一歩である。


「わ、私……私はっ」


 これまで歩んできた彼女の道のりを考えれば、己の欲望とも言えるそれを押し殺すことこそ求められてきたに違いない。そんな少女にこれからの未来について求めるのは酷なこと。


 直ぐに答えが出るとは思っていなかったが。


 彼女からの答えは、案外直ぐにやってきた。


「強く、なりたいです。皆を……私自身を、守るために」

「いい答えだ」


 グレイはニコリと笑い、2つの鍵束と胸章を投げ渡す。


「それは私の教室の一員だという証。本来は初回の授業で配る予定だったが、早めに渡しても問題はないだろう。それからそっちの鍵だが……」


 グレイは研究室の扉を空け、向かい側の1部屋を示す。


「空き部屋の合鍵だ。中は自由に使ってくれて構わない。もう一つはこの建物の鍵だ。その鍵で開閉可能だ」

 

 それはグレイからの信頼の証。

 そして、教室の仲間の一員だという証明。


 素直に告げるならば、研究室にも独自の鍵がある。

 例え鍵を失くしても、盗まれるような高価なものは置いていない。毎回扉を開けに行くのは面倒なだけである。


「あり……がとう、ございます」


 ラクエスは鍵を見つめ、嬉しい感情を抑えながら感謝した。グレイの心の内など知る由もない。知らない方が幸せな事もある。


「とはいえ、長いこと使っていなかった部屋だ。寝床や収納場所はあるが、充分とは言い難い。必要な家具や道具があれば手配しておこう」


 学園長が、である。


「おっと、話してる間にジジイが来たな。用があるのは君だろうから、出迎えてやるといい」

「はい!」


 玄関に急いで向かう彼女の後ろ姿は、昨夜に比べて軽さを感じる足取りだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


 ラクエスがグレイの元で暮らす事を決めた日の夜。


――学園長室


「……近頃はそこから訪ねてくるのが流行っているのでしょうか」

「この時間に正面は開いてないだろ」

「当然ですね。それから、今朝以来ですかラクエスさん。いえ、貴方はラクさん……とお呼びした方がよろしいですか」

「どっちでもいい。オレはラクでありラクエスでもある」


 学園長に一人の訪問者があった。

 開いた窓の際に座り、社長机で一息ついていた彼へと話しかける少女――ラクの姿が。


「何か御用ですか?明日から授業も開始されますので、あまり夜更かしはよろしくありませんよ」

「へっ、この時間にまだ仕事してるお前が言えたことかよ。それにしても……つまらない部屋だ。本ばかりで息が詰まる」

「私は好きですよ」


 何をしに来たのか。

 よく真意の掴めない会話が途切れ途切れに交わされる。


「どうだか。エスも文字を睨みながら唸っている時がある。なんでここの奴らは嫌な想いをしながら書物を探すんだ?」

「学生にとっての勉強とはそう言うものです。好きな事ばかりを見ていては前に進めませんから。それに、困っていると言うことは、まだ諦めていないと言う事です。それを理解しているからのでしょう?」

「…………ちっ、お前の相手はやりにくぜ」


 舌打ちをして、彼への小さな抵抗を諦めた。

 引きの早さはグレイと似たものを感じられる。


「まぁいい。寝ろというなら、エスはすでに眠っている。オレも用が済んだらすぐに帰る。……あのも、それを知って見逃したんだ」


 そう。

 ラクがここに来たということは、グレイの魔力探知から抜けてきた事を意味する。当然だが、ラクのような異質な魔力に気が付かないはずがなく、つまりはわざと行かせたのだ。


「でしたら、その用件をお話しください」

「…………がと」

「?」

「ありがとうっ!エスに……居場所を与えてくれて。お前に任せた判断は正しかった」

「私は何もしていませんよ。お礼ならば、グレイ先生に言ってあげてください」

「アイツにはエスが散々感謝していた。オレはお前に言いたかった。それだけだ」


 これは……と学園長は笑う。

 この子といい、といい、どうも天才たちは素直になれない傾向にあるらしい。


「では、その感謝は受け取っておきます」

「だが!オレはエスを第一に守る。そのためなら人殺しだって厭わない。だから……これからも、気にしてやってくれ」

「承知しています」

「じゃあなっ!」


 己の発言に恥ずかしくなったのか、ラクは顔を薄ら赤く染めて逃げるように去っていった。


 しばらく時間を置いて窓に近づくと、誰もいなかったように夜の風が学園を巡回している。昼間は生徒たちで賑わっている景色も、この時間では動いているモノの方が少なく冷たさを感じる。


 だが、手に触れた窓の縁からは、若干の温かみを受け取ることが出来た。


「……明日も、晴れるといいですね」


――いよいよ明日、新しい学園生活がスタートする。

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