海がみたい

三年

日置の場合

第1話 「海がみたい」


明方の駿河湾を見ていた。

小さな漁船の光の粒がひとつ、またひとつと

帰船の航路を辿っている。

タバコの煙は目で追った先で

空に浮かぶかすんだ朝月を濁してゆっくり消えてゆくので、くたびれた避妊具の残骸を透かして日に焼ける空を見てみたいと思った。

エンジンをかけたまま停めていた車の中から君が出てくる。


「ごめん、起こしてしまった?」


と、僕が言うと君は首を横に振り

両手でグーを握って──大丈夫、

とポーズを見せた。


それから君は、ずっと海を眺めている。

心臓と下半身を2つに分けるように、

水平線が二人の前で真っ直ぐ横に伸びている。

「海」は何も答えてはくれない。






夕暮れ、馴染みの車屋に僕はいた。

スタッドレスタイヤへの換装の為、やまさんに車を預けてもう30分が経つ。

山さんの店のガレージの側にある屋根すらない喫煙所。そこに転がったパイプ椅子に座りながらスマートフォンにずらりと並ぶ取引先からの催促のメールを見て、僕は三度目のため息をついた。


その時だった。


マッチングアプリに「海が見たい」と

たった一言のメッセージが届いた。


どこかの国の煉瓦造りの街並みに囲まれながら

逆光に顔を潜めた

長い髪の女性のシルエットの写真。

ワンピースからストンと肩のラインがおちて

彼女が華奢きゃしゃで色白であるとわかる。

身長は低くて、足首は細くくびれていて、

青い服が似合っている女性。

名前は──あやだった。

それ以外は何もわからない。

彼女の心の叫びなのか、

単なる好奇心なのか…

たった一言の「海が見たい」という

針で刺すような彼女のメッセージに

ぞくっとして僕の下半身は少し熱くなった。


僕は「いつ行ける?」と

そっけなく返信をした後で

溜まった仕事のメールの返信の事など見なかった事にして、スマートフォンをダウンジャケットのポケットの奥に押し入れた。

かじかむ指に息を吐きながら

車の完成を待っていると、


日置ひおきくん!終わったよ」

と、待ち侘びていた山さんの声が聞こえてくる。


「これ本当に1年しか乗ってないの?

もう20,000km回ってるじゃん。えげつないなあ」

ドロドロの作業服に身を包んだ山さんがガレージから出てきた。

雑巾のようなタオルをバンダナ代わりにして、

そのこめかみ部分に挟んでいた100円ライターをあたふたしながら引き抜きタバコに火を付けている。


「出張で使ってるもんで…、苦労かけてるんです」

本当は納車して1年と4ヶ月なのだが、細かいことは気にせず僕は答えた。


「この調子じゃ、来年あのタイヤはダメになるからね。覚えといたほうがいいよ」

山さんはタバコの灰を足下に適当に振り落としながら、スマートフォンを同時に同じ手のひらで転がして起用に操作している。


「了解です。ありがとうございました。」

僕は山さんにお礼を言って車をガレージの中へ確認しに行った。


その後、

「いつも日置君には世話になってるから…」と言って、

山さんは結局2000円しか受け取らなかった。

準備していたお金の半分しか渡していない。

悪いことをしているような気がした。


長野に暮らし始めて2度目の11月を迎えた。

嫌でも目に入ってくる志賀高原はついに葉を散らし終え、やがて降る雪を待っているようで

ほとほとうんざりした。

この町の冬はこれからが長い。

点々とわびしく灯る民家の明かりを見ていると、

とても18,000人も暮らしている町には思えない。

──来年タイヤ交換か…

──この町に僕はいつまでも暮らすのだろうか…

そう思いながら山さんの優しさを確かめるように

ゆっくりとアクセルを踏んで速度を上げてゆく。

家路についた頃にはずいぶんと暗くなっていた。


この町へ越してきてから

唯一の楽しみは毎日温泉に浸かれる事だった。

町の組合で管理された共同浴場は町会費を納めれば

24時間自由に使うことが許され、

その風習から家風呂のない住宅も多くあった。

近隣の旅館の客が面白がって使うこともあり、

僕は普段、人目の少ない深夜に

この浴場を利用することにしている。

しかし、今日ばかりは山さんのガレージで格別に体が冷えてしまったので、

人を避けた至高の時間まで我慢できず

手を揉みながらいそいそと家から3分の共同浴場へ向かった。


相変わらずボロい浴場の洗い場で洗体を雑に済ませて、

湯船にどっぷりと浸かり天を仰ぐ。

明日は月曜日だとなるべく考えないよう努めた。



予想通り、利用者の多い時間に入浴してしまったせいで

顔見知りと何度も裸で挨拶を交わす羽目はめになった。

近くの山でまた熊が出たこと、

息子や、孫の最近の様子。

近くの旅館の客が最近減ってきていることや、

そこの女将の不倫が中居に見つかり前代未聞の騒ぎになっていること。

挨拶に余計に混じってくる世間話は

壊れたラジオのようにせわしなく続いた。

「にんじん」から根の生えたような体で

いそいそと風呂に浸かる雪国の先輩たちは

それでも毎日を凛と生きているように見える。


世間話もようやくひと段落して、

蜘蛛の巣だらけの天井の梁の本数を数え終わる頃、

僕は、どうしてもこの街に脈々と根を張った「にんじん」には

なりたくないと思ってしまうのである。












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