籠庭の女王

白猫ねねこ

召喚の儀_1



 帰りたい。


「我らがイルデトゥスは建国より六百年、戦火で焼かれる大陸に生まれて以来、歴代の王の御加護の下、繁栄を続けてきた」


 帰って寝たい。ドレスもローブも脱ぎ捨てて、ベッドの上でごろごろしたい。


「此度行われる王召喚の儀は、初代イルデトゥス国王たるエディルーシア女王陛下が構築された我が国の要というべき魔法だ」


 だが真っ白な髪と髭を蓄えた神官長の垂れるありがたいご高説は、まだまだ終わる兆しがない。


「死した王の魂を、この地に遺された記憶から呼び戻す魔法。今日そなたたち女王の血を引く者らの中から王座に相応しいとされる者の前に、かつての栄光の王が再び甦られる」


 この地に生きるものなら、生まれてから何度も聞かされる聞かされる史実。

 己の国を神秘の国たらしめるそれを聴きながら、少女は白いローブの下で欠伸を噛み締めていた。




 かつて女神から遣わされた娘が興したとされる国イルデトゥス。

 花の盛り真っ只中であるその日、国で最も神聖とされる儀式が行われる大聖堂で、王の血筋に連なる者たちが集められていた。


 白ローブの列に並べられた少女もまたその一人で、イルデトゥス王族の末端に名を連ねていた。

 今日のために王孫であった祖母の時のローブを引っ張り出して来たが、長く放っておいた所為かやっと取れたと思った黴臭さがまだ鼻に付く気がする。ドレスも新しく仕立てる時間も予算もなく、仕方なく手持ちから一番それらしい白色を用意した。

 髪だって深く考えずにいつも通りの二つ結びで、化粧も適当に紅を差しただけ。装飾品も、母から受け継いだ王族の証だという指環のみ。


「さあ、今こそ奇跡を目の当たりにする時――では、一人目から順に前へ」


 漸く口上が終わったのか。

 俯いていた少女の前に、巫女役の女官の手が差し出される。


「お手をどうぞ」


 自分より血が薄いというだけで王族と見なされなかった女官は、神殿が用意した真新しい白のローブを纏っている。化粧も丁寧に施され、たっぷりとした栗毛もきっちり結い上げられて、何処からどう見ても高貴な女性だ。

 きっと何も知らない者の前で横並びすれば、女官の方がより候補らしいと口さがなく言われることだろう。実際、少女自身もそう思う。


 真白い袖になされた金刺繍を冷めた目で見下ろしていると、引っ手繰るように手を掴まれた。手の甲に刺さる爪に思わず声が出そうになったが、唇を引き結んで何とか堪える。


 引き摺られるように舞台に上がる直前、少女はほんの一瞬だけ神官長の感情の薄い顔を盗み見た。


 少女を適当に呼んだくらいなのだ、この神官長は恐らく下位王族の名前など碌に覚える気もないのだろう。正直、こんな茶番すらやめてしまいたいと思っているのかもしれない。

 現に次期国王候補を決める場だというのに、現王夫妻はまだ会場に現れない。有力候補だと言われる上位王族たちも同様だ。


 期待されていない空気の中、舞台に描かれた召喚の陣の縁に跪く。被っていたフードが無造作に払い除けられ、癖のない灰金髪が零れ出た。


 この場の誰よりも明るい髪色に、舞台に近い位置に座っていた貴族たちが眉を顰めるのが見える。


「…………」


 ひとつではない戸惑いの視線を無視し、晴れ空を思わせる青い瞳を閉じる。教えられた通りに、広間の奥にある女神像に向けて両手を組み、頭を垂れる。


「この身に流るるイルデトゥスの血に連なる王よ。どうかわたくしに、貴方様のお力をお貸しくださいませ」


 成功すれば召喚の陣が光り出し、王が現われるのだという。

 だが何も起こらない。ただただか細い声が大聖堂の高い天井に虚しく響いて消えるだけ。当たり前だ、これはしきたりの為に仕方なくしている茶番なのだから。


「では、次の者――」


 仮にも王族である少女に対し、まるで虫でも払うかのように神官長の手が翻る。その横には、少女とそれほど序列の変わらない青年が、黒みの強い瞳に嘲りと根拠のない優越感を覗かせて立っている。


 舞台を降りようとする少女に、今度は義理でも差し出される手はない。巫女役は既に次の青年の手を取っている。


 確かにこの場に立っている筈なのに、何もかもが遠くに感じられる。見るものすべてとの間に不明瞭な膜でもあるかのような疎外感が、気怠く少女を取り巻いている。


 冷たい泥の中にいるかのように、ただただ息苦しい。外界を遮るフードを被り直し、少女は薄紅の唇を軽く噛み締めた。


「王政なんて、やめればいいのに」


 その悪態は誰にも届いていない、筈だった。


『――ではやめてみますか?』


 不意に聞こえた、若い女の声。僅かに愉楽を含んだそれに今まさに舞台を降りようとした少女が振り返った瞬間、召喚の陣が強い光を放ち始めた。


「っ……!?」


 魔法陣から迸る、眩いほどの白。魔力そのものとでも言うべきか、今までに体験したことのない力の奔流に煽られ、少女は思わずその場に尻もちをついた。


「おい! 何が起こっている!」

「まさか、召喚の陣が反応したのか!?」


 予定外のことに、広間中のあちらこちらから怒号が飛び交う。

 だがそれに構っている道理はない。少女は青い双眸を細め、白い光の中に現れる影を凝視する。


 まず目に入ったのは、鮮やかな紅のドレスだ。真紅の薔薇が咲き誇るように、上等な絹をふんだんに重ねられたそれは、開けた襟やたっぷりとした袖に緻密な金刺繍が施されている。

 一見華奢な四肢は、しかし黒いレースに覆われた首筋から腰にかけて女性らしい柔らかな曲線を描いていて、大輪のドレスがよく似合う。

 絹の狭間から覗く肌は雪のように白く、ドレスの紅との対比とも相まって酷く鮮烈だ。


 今なお光にたなびいている髪は、黒絹を紡いだかのよう。長さは背丈ほどあるのではないだろうか。黒髪を彩っている金細工に劣らないくらい艶やかで、指通りは大層よいに違いない。


 でも風呂の時に洗うのが大変そう。少女が現実逃避がてら頭の隅でそんなことを考えている内に、白い光は消える。


 そうして漸く見えた顔は、この世のものとは思えないほどの美貌だ。

 見るからに滑らかな真珠肌とすっと通った鼻梁は人形のように無機質で、だが顔を縁取る柳眉には何処か愛らしさも伺える。

 頬から小さな顎へと描かれる線は流麗で、淡く色付いた唇は花弁のよう。ひとたび微笑めば、誰もが我を忘れて彼女に魅入られるだろう。


 人間とは思えない、神々しささえ覚える美しさに、少女は暫し見惚れた。建国女王をこの地に遣わした女神でさえも足元に及ばないのではないだろうかと、当の女神像の前にいることさえも忘れるほどに。


 いつの間にか広間に満ちていた沈黙の中、召喚の陣の中に立つ女は長い睫毛を震わせながら瞼を開く。


「…………」


 少女を見つめるのは、深い黒眼。まるで月夜を映す水面のように、澄んではいても底の見えない瞳に、少女は吸い込まれるような錯覚を抱いた。

 だがそれも一瞬のこと。緊張する彼女を宥めるかのように、夜水面の双眸が柔和に細められる。


「召喚に応じ、参上致しました。わたくしは第一代イルデトゥス国王エディルーシア」


 高く澄んで玲瓏とした声。それほど大きなものではなかったが、重苦しい沈黙の中ではよく響く。


 この場にいる誰もが息を呑んで二人に注視しているのがわかる。きっと視線に実体があったのなら、今頃無数の針に似て少女に突き刺さっていただろう――だが今の少女に、そんなものなどどうでもいい。


 座り込んでいる少女に合わせてか、美しい女が僅かにしゃがむ。その際、少女の鼻腔を掠めたのは知らない花の香りだ。


 途端、視界を覆っていた薄膜が取り払われる。何よりも鮮やかに、女の姿をした神秘が、少女の青い目に焼き付けられる。


「お名前を教えて頂けますか、わたくしの王」


 少女は口を開いた。

 それまで蹲っていた泥の中から、夜闇を優しく照らす月明りに手を伸ばすように。美しき女王の声に応えるためだけに、止めていた息を吐き出す。


「アウローリィア」




 それが、末端王族でしかなかったアウローリィアの世界を変えた出逢いだった。


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