養獣譚 分離の巻
古都瀬しゅう
第1話 本体はどこですか
ケモノ生みの孫だからケモノ生みを産むかもしれないなんて、ブローヌ王ってなんて馬鹿なんだろう。うちの国の王様もありえないって知ってて私を売り渡すなんて、やっぱり馬鹿。いつかばれたらあの野蛮な国に報復されるのに。
でも、もう祖国マデラがどうなろうと、関係ない。
丸一日、山を登り続けた逃亡の果てに、泥でよどんだ大きな湖が行く手をふさいだから、私は、そこに身を投げる覚悟を決めた。
湖の片側にそびえる岩山によじ登り、湖に突き出した岩壁に進む。うしろから、追手の兵士が三人、もう逃げられないぞ、戻ってこい、と口々に叫んでいる。
無理やり子供を産まされるなんて、まっぴら。わたしまだ15才よ。何人産んだら終わりになるの?その子たちが「ケモノ生み」じゃなかったら、ぜんぶ殺されちゃうんでしょ。そんなの耐えられない!
ふもとの町で隙をついて逃げ出し、深い森を抜ける荒れた道を必死で登って来た。でも、行くところもないし、逃げ切れるわけもない。
岩の上から湖を見おろすと、濁った茶色い水は底なし沼のようで、たぶん落ちたら浮き上がれない。
すこしだけひるんで顔を上げたとき、遠い対岸にありえないものを見た。
ケモノ!?
白い毛皮に包まれた巨大なケモノが、林の間からこちらを見ていた。それは確かに普通の動物ではなく、ケモノ生みが作り出したケモノだった。
じっと私を見るオオカミのような青い目が、いいのだよ飛び込みなさい、と許してくれているようで、私は岩を蹴り、足から湖に飛び込んだ。
いつのまにか日の光であたたまった大きな岩の上に寝かされていた。
体中が泥だらけ。髪にまとわりついた泥で頭が重い。口の中が泥でじゃりじゃりして、のどにも何かがはりついている。咳き込みながらそれを吐き出した。
見回すと、ここは湖のほとりの滝つぼで、あたりには水の落ちる音が充満している。そして滝の横の岸に、あのケモノがいた。
飛び込む前に見た白い毛皮が泥で茶色くなっている。今もぼたぼたと体中から水がしたたり落ち、背丈は私の3倍はあるはずなのに、ひざをかかえて座り、体を縮めている。私を怖がらせないようにしているみたいに。
「どこですか?」
私はよろける足でケモノに近づき、あたりに呼びかけた。
「ケモノ生み様!助けてくださってありがとうございます。私はペルラ。マデラ国のものです。私の祖父はケモノ生みでした。ですから、あなたのこと、わかります。誰にも話しませんから、どうか、出ていらして。直接お礼を言わせてください!」
じっと座っているケモノのまわりを一周したけれど、「ケモノ生み」の姿は無かった。
「ケモノ生み」というのは、ケモノと呼ばれる自分の分身を持つ特殊な人間のこと。
彼らのケモノは、食べさせた生き物の特徴をとりこんで、大きく育つ。私のおじいちゃんが育てたケモノは犬のようだったり、鳥のようだったり、虫みたいだったりした。ただし一度に持てるのは一体だけ。一体が消えると次の新しいケモノが手の中に出現して、一から育てなおすことになる。けれどここまで大きなケモノは見たことが無い。このケモノ生みは、どれだけ長く一体を育て続けているのだろう。
目の前の超特大のケモノは私の肩に丸太のような指先でそっと触れ、首を振った。おまえには会えない、と言うように。まるで心を持った生き物みたいに。
同化しているんだ。そうわかった。ケモノ生みは、ケモノを召使いのように従えることもできるし、ケモノの体に乗り移り、ケモノの目で見て、耳で聞いて、ケモノに「なる」こともできる。ただしそのように「同化している」間、本体の人間の体は動けない抜け殻のようになってしまう。
「今日会ったよそ者に姿を見せるなんて危険は冒せないということでしょうか」
私はがっかりした声を出して、ケモノの顔を見上げた。ケモノは困った顔をしたように見えた。
しかたないのかもしれない。ケモノ生みはひとりで一国の軍隊に匹敵すると言われ、多くの国が欲しがっていると聞く。私がブローヌに売られたのもそのせいだ。
昔は平和だったから、おじいちゃんのケモノはペットのようなものだった。でも目の前のケモノは戦うために育てられたようだ。大きな口の中には狂暴な牙が並び、指の長い手は人間を握りつぶせそう。するどい爪は馬の胴を真っ二つに切りさけるかもしれない。少なくとも熊と狼を食べさせ、取り込んでいるのに違いない。
ただ、私をみおろす青い瞳は、静かで優しい。
このケモノ生みは、とても立派な方に違いない。自分の力をだれかに使われたくなくて、こんな大きなケモノを育てて、人を遠ざけてきたのかも。
私は滝に向かい、服を脱いで裸になった。少しでもきれいになって、無防備な姿をさらせば、姿を現してくれるかもしれないと思った。滝の水は冷たいけれど、今は夏。長い髪にからまった泥を落とし、体を洗い、服も洗って絞って着なおし、なんとか整えると、むしろ体がぽかぽかしてきた。
ふりかえった私はきょとんとした。
ケモノが両手で目を塞いでいたのだ。そそりたつケモノの足に駆け寄って手を添えると、ケモノが指の間から私をみおろした。
「ケモノの目でさえ私の裸を見まいとするなんて、どういうお方なのでしょう」
胸がどきどきして、どこかこの近くで抜け殻になっているはずの凛々しくも誠実な男性の姿を思い浮かべた。ケモノ生みに女性はいない。男性だけだと言われている。ケモノ生み自体、あまりにも数が少なくて、すべてがわかっているわけではないけれど。
ケモノは私から逃げるように立ち上がると滝の下に入って、うっそうとした毛皮を覆う泥を洗い落とし、白い姿になって戻ってきた。そして私を優しく持ち上げ、ケモノの肩に座らせてくれた。その肩には、人が座るのにちょうどいいくぼみがあって、いつもならケモノ生みがここに座って移動しているのだとわかった。
夜にかけて湖を囲む急な斜面を、ケモノは樹木を掴みながらすいすいと進み、ケモノ生みが暮らしているらしい、湖畔のちいさな平地に着いた。
ケモノ生みは歩いてついてきていたはずだけれど、私はケモノの肩から落ちぬようにしがみつくのに必死で、探す余裕はなかった。
ケモノは必ずケモノ生みの近くにいなければならない。おじいちゃんによると人の背丈の50倍くらい離れるとケモノは消える。だから、育て方に失敗したケモノをわざと遠くにやって、消して育てなおすこともできるのだ。
星明りしかない夜空の下、結局ケモノ生みの姿を見ることはできないまま、眠りについた。ケモノは何かから私を守るように私のそばに横たわっていた。
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