闇夜の錦

長尾

闇夜の錦

 生まれて初めて男の人から「かわいいね」と言われたのは、処女を売った夜のことだった。



 ずっと女性を花に例えるのが好きだった。音楽の先生は白薔薇、母は夕顔、えっちゃんはすみれ、むぎむぎは向日葵。わたしは……なんだろう。


「君はさ、花じゃない。なんか違うよ。……肌触りがひんやりしてすべすべさらさらしてる感じが、絹かな。絹織物だよ、君は」


 初めてお付き合いした、バイト先のお兄さんにはそのように言われた。彼は『肌触り』などといったが、わたしの髪の毛しか触ったことがなかった。なんとなく距離が近づいていたので、

「これって付き合っているんですか」

と確認してから3日、

「好きな子できたわ、別れよ。君さ、隙がなさすぎ。陰でなんて呼ばれてるか知ってる? “鉄仮面”だよ」

……そう。わたしの感想はそれだけだった。悲しみも憎しみもわかなかった。好きではなかったのかもしれない。




「……聞いてる?」


「ああ、ごめんね。考え事してた」


 昔からよく言われてきた。無表情で何を考えているかわからない。雲をつかむようだ。クールぶってお高く止まって鼻につく。……そう。それならそのような人間になってやるだけのこと。何かになりたいなんて思ったことも考えたこともない。わたしには夢も目標もない。


「どこのホテルがいいとかある?」


「……アプリコット」


「ラブホとか知ってんだ。意外だな」


「聞いてきたのはそっちでしょ」


 このおじさんも、お金を渡したら、わたしのことなんてすぐに忘れる。わたしなんて、ただの綺麗な着物みたいな、華はあるけれど記憶に残らない、贅沢な消耗品程度のものなのだから。


「ねえ、名前教えてよ」


「……絹子」


「嘘つくなよ、古風すぎるだろ」


「名前なんてどうでもいいでしょ? ……ねえ…」


「はは、案外せっかちなんだな」


 こうして車の中で、潤んだ瞳で上目遣いをすれば、肩を抱き寄せて唇を押し当ててくる。みんなそうだ。わたしにとってはこれはルーティンワーク。


 セックスワーカーが哀れな女だと決めつけるのは早計だ。わたしのように、ひまつぶしにもなって、軽い運動にもなって、お金にもなる、三徳包丁的な気持ちで援助交際をしている人間もいる。性行為が好きか嫌いかと聞かれると、そういう次元にあるものではないので、わからない。人間にとって性行為とは子孫を残すための本能であって、嗜好としての性行為はその上の次元にあり、またその上に経済効果がある。性はビジネスだ。愛する人との愛を確かめる行為などではない、なぜならセックスは愛がなくてもできる。好きでもないおじさんたちに数え切れないほど抱かれてきたわたしが言うのだから、それは確かだ。



「わあ、ラブホの匂い久々。テンション上がってきちゃったな」


「あなただったら久々じゃないでしょ? 一週間ぶりとか?」


「本当だよ、マジでご無沙汰なんだから。一回戦で体力尽きちゃったらごめん」


「ええ? いっぱいたのしませてよ……」


「わかったよ〜!!」


 このやり取りも幾度となく交わしている。同業者には、金ヅル相手に気持ち悪いと思う女もいるようだが、わたしはなんとも思わない。だってこれでお金稼いでいるわけだし。おじさんたちに気持ち悪いという感情を抱くとすれば、きっとプライベートでショッピングモールなどを歩いているときにすれ違う男ども全員に気持ち悪いと思うだろう。そのくらいわたしの中で、男性=性行為を求め彷徨い金を出す生き物、になってしまっている。


 たのしませてよ、なんて言ったが、別にセックスに何も求めていないので、早漏だろうが包茎だろうがアブノーマルなプレイを求められようが普通のセックスだろうが早く終わろうが長時間労働だろうが、セックスはセックス。裸になってやることやってお金をもらって帰る。楽しくもなく、苦痛でもなく、虚無。



「俺さ、さっさと服脱いで布団の中でキスしながら抱き合ってる時間がいちばん好きなんだ」


「いいよ、じゃあ、ワンピースの背中のチャック下げて?」


「なんか本当に興奮してきた。俺でいいの?」


「……早くしないと帰るけど」


「わ、わかったよ」



 男の人は服を脱がせるのが好きだから、セックスする日はこういう厄介な服を着てくることにしている。彼はジッパーをゆっくり下げて、そのままスルリとワンピースを床に落とした。



「……キャミソールも下着も脱がせて?」


「わかった」


 下着に手をかけられた瞬間は、流石に『この人にこれから抱かれるんだ』と思う。思うだけ。


 恥ずかしそうに腕で胸を隠し、少し内股になって、顔を赤らめて、


「先、ベッドいく……」


 というと、彼は急いで服を脱ぎ始めた。わたしがベッドに入ったと同時にベッドに入ってきた。


 ここからは場の空気に任せるしかない。


 彼はまじまじとわたしの顔を見つめた。そして、ねっとりと舌を絡めてきた。背中に腕を回し、足を絡め、甘い吐息を漏らして、いつものセックスが始まる。



 わたしは、もし好きな人ができたら、セックスはしたくないと思う。そのくらいビジネスに染まった性しか知らない。求められても、軽いキスで誤魔化そうと思う。いやディープキスくらいはしてもいいかな……でもスイッチ入っちゃうよな……やっぱ唇が触れるだけのキスで誤魔化そう。


 そもそも、好きな人なんてできるだろうか。人間だれしも、恋愛はセックスありきじゃないだろうか。恋愛感情ってなんだろうという議論を、えっちゃんとむぎむぎとしたことがある。わたしは、親友の進化系だと思うと言ったが、二人に全否定された。それは結局友達であって、友達とは違う感情を抱くものだと言われた。違う感情って? というところを質問責めにして突き詰めていくと、根本は性欲だった。つまり、相手を性的に見てものすごくアリだったらそれは恋愛感情だと。だが、わたしにとって性欲とはお金のもとであって、相手をアリかナシか考えるまでもなく、金を払ってもらえるなら、誰にでも抱かれる。


 たしかに、たまに粘着質なおじさんを引き当ててしまい、ガチ恋されて、ストーキングもされて、お金儲けのためなら誰とでも寝ることが発覚すると、尻軽女と罵り、いくらでも出すから結婚してほしい、俺だけのものになってほしい、と主張される。それが幸せな結婚とは思わないので丁重に断り、警察の影をチラチラと見せ、諦めてもらう。


 始めからわかってるじゃないか、わたしが誰にでも寝そうなことは。マッチングアプリで連絡してくるおじさんたちには必ず条件を出す。『ゴム有で一回五万円、生なら十万円、これが出せないならわたしは会いません』これでかなりふるいにかけられる。金額提示してくる時点で、この子はセックスでお金を稼いでいるんだ、お金のためなら誰でもいいんだ、とわかるはずなのだ。


 

「かわいい」とあの夜言われてから、わたしは上目遣いや潤んだ瞳など、あざとい女ぶるのが上手なのだとわかった。素でいるときは鉄仮面などと言われる始末だが、これから抱かれる女の仮面を被ると、かなり化けるようだ。顔の出来は、母を見ているとそこそこ良いのだろうと察する。本人たちの前では言えないが、えっちゃんやむぎむぎよりは綺麗な顔をしている。胸もそこそこある。港区女子っぽい服装で胸元を強調した顔の写らない写真をアイコンにしていれば、おじさんたちは入れ食い状態だ。


 お金を払えば抱かれてくれるとわかっているリピーターもいる。しかし徹底して年齢も名前も連絡先も明かさない。昔アイドルが歌っていた……いくつに見えても、わたしが誰でも、わたしはわたし、これからすることに関係は一切ない。微笑みながらキスを催促すれば、舌が蕩けるほどキスしてくれて、そのまま……。リピーターさん達はわかっている、抱かれる女Aの生態を。だから余計な詮索はしない。



「……本当に名前教えてくれないね」


「だって忘れるでしょ、今夜のことなんて明日になれば」


「忘れないよ」


「忘れるよ、あなたもわたしも仕事や日常にせかせかして、この記憶は薄れてく」


「それでも君のことは忘れない、君みたいな人はそうそういない」


「なにをみてそう思うの? お金に目が眩んでる、あなたが最初言ってた、使い古された膣だよ」


「君には感情がないから」


「……そう」



 そんなことを言う人は初めてだ。大抵はこの、抱かれる女Aの仮面に騙されて、仮面の奥の無感情な瞳は見ていない。この人は存外勘が鋭かったようだ。



「否定しないんだ」


「まあ事実ではあるから。感情なんて邪魔なだけ」


「なにかあったの?」


「なんにも」


「それも教えてくれないんだ」


「少女Aの事情に深入りしてどうするの? また会える確証もないのに」


「……俺がここでお説教するのもうざいよなあ」


「そういうこと。……まあひとつ言うなら、痛覚の欠落した人間を見たことある?」


「哲学?」


「わかんないならいいよ。お金ちょうだい」



 彼とはそれっきりだ。


 痛覚の欠落した子どもを、テレビで見たことがある。眼球をつついたり、膝を擦りむいて出血しているのに気付かないまま木のぼりしたり、ガラスの破片を踏んでも平気な顔でいたりしていた。血が流れても、なにも感じないのは、生命維持が難しかろうと思う。その子どもが生きているのか死んだのかなんて知らないが、それを見たときになにか近しいものを感じたのは覚えている。


 真面目に泣くこともせず、ニコリともしない幼少期のわたしを見て、母は発達障害ではないかと慌てたそうだ。実際そうなのかもしれないが、どうだっていい。


 幼稚園のうちに、周りの子はどうやら嫌なことがあったら泣きわめき、嬉しいことや楽しいことがあったらやかましく騒ぎたてて笑うのだと知った。わたしには欠落しているものだった。最初はうるさくて、幼稚園が大嫌いだった。けれどその感情もすぐに薄れた。やかましい子どもたちは、みんなバカなのだと思うことにした。バカを相手にする理由はない。わたしはひとりで絵本を読んだり絵を描いたりして自由時間をつぶした。先生たちも、わたしを自閉症ではないかと心配した。そうであったとして、なんだというのか。心配される筋合いはない。


 小学生になると、周りに合わせないと大人がうざったいことを学んだので、友だちと遊ぶときは意識して笑うようにした。ふざけているときはふざけるフリをするし、友だちが具合悪そうにしていたら心配するフリをする。友だちといっても、ただ絡んでくるだけの顔見知りでしかなかったが、便宜上友だちと呼んでいた。


 それから、大きくなっていくにつれて、仮面は増えていった。家族向けの仮面、いつメン向けの仮面、クラスメイト向けの仮面、先生向けの仮面、バイト先向けの仮面、客でいるときの仮面……。素でいられる時間は自室のみだった。素でいるときは、まったく感情が揺らがず、無理に作ることもないから、疲れを放出することにだけ神経を使った。それでも、表情は乏しいらしく、仮面は完璧ではなかった。いつしか“鉄仮面”と言われ、なにを考えているかわからない不思議ちゃん扱いされ始めた。高校で浮いていたわたしに興味を持った物好きが、えっちゃんとむぎむぎだった。


 夢も目標もなく、未来とかどうでもよかったので、進路問題は最大の壁であった。大学進学はもはや当たり前のイベントだが、親に金を出させるのは気が引けた。これまで散々発達障害かも自閉症かもと言われ精神科や心療内科に連れていき、気苦労をかけた自覚はあるから、そこまで迷惑をかけるのはよくないのはわかっていた。勉強も別に好きなわけではないし、いや嫌いなわけでもないが、勉強はするのが当たり前だし、好き嫌いで語れる次元にない。けれど、これ以上無駄に勉強したところで、それは徒労だろうと判断し、高卒を最終学歴に置くことにした。


 就職は、バイト先が正社員で拾ってくれると言い出したので、それに甘えて、ぬるっと就職した。バイト時代のガンガン客商売ではなく、裏方の事務職に変わって、多少苦戦はしたが、なんとなく大きなミスをすることもハラスメントの類もなく、それらに気付いていないだけかもしれないが、安穏にやっている。すなわち性を売るのは裏稼業だ。


 身体を売るのは、高校生のときに覚えた。道端でナンパされ、別に断る理由もないなと思ったし暇だったのでついていったら、処女を一万円で買ってくれるという。処女になんの特別性も感じていなかったわたしは、破瓜といううざったいイベントをクリアし、その報酬に現金がついてくることに利益しか感じなかったので、喜んでお願いした。男の転がし方もその人に教わった。言われたとおりにやってみると、「かわいい」と人生で初めての言葉をかけられたのでそれは素直に嬉しかった。


 それからは、ちょっと本業だけではひとり暮らしも苦しいので、副業とまではいかないが、なんとなく続けている。嬉しかったのはあの初めての夜だけで、いまは驚くほどなにも感じない。



 いまは若いからこんなことができるが、歳を重ねたわたしには、なんの価値もない。最初で最後の3日間彼氏に言わせれば、絹糸のわたしは、いまは若さという付加価値から、錦織物と呼ばれる最高級の反物だろう。それが、歳を重ねれば重ねるほど、擦れてしまって、ただの絹製のボロ切れになってしまう。誰がそれに金を出すだろう。これまで希死念慮も不安感も特に感じずに生きてきたが、なんとかなるか、とはとてもじゃないが思えない。税金は上がり、収入は下がる一方。真綿で首を絞めるようとはまさに。若い世代はみな、ぼんやりした不安を抱えている。わたしなんか特に、若さをとったらなにも残らないから、死ぬのがいいのかもしれない。



「君には感情がないから」



 あのおじさんの瞳がわたしを貫く。



「わたしには、なんにもないの」



 遠くで誰かが泣いている。頬を伝うのは、雨かもしれない。


 何事もわたしにとっては無駄なこと。


 ああ素晴らしき、闇夜の錦。

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