オブジェクト指向批評
マッチャポテトサ
第1話「孔雀」
孔雀8000匹と共に生活をしていると悩み事もさすがに多い。この国にあまたある、ただでさえ小さい1DKの中に孔雀を8000匹詰め込んでその上、自分の生活区域も確保しなければならないのだ。しかしそういった生活をすることによって得ることもまたたくさんある。それは自分の普段の生活(アルバイトであったり、あるいは元恋人とのアレコレであったり、あるいは家族関係でのゴタゴタなどである)のことを忘れさせてくれるほどである。
孔雀を飼い始めて最初の2768匹までは名前をつけていた。最初につけた名前は「くーちゃん」。その次は「むーちゃん」。その次は「マサルくん」。その次は「ダーよし」。これは元恋人がつけた名前である。まあ名前を言い始めるとキリがないのでここで終えるが、名前をつけなくなったからといって愛情を持って育てていないというわけではない。むしろ愛情は深まってさえいる。もちろん個々の識別はほとんど不可能になってしまった。しかしその分全体に対する愛情が1匹、1匹と増えるごとに格段に増えていっているのだ。そして8000匹に達した現在、私はペット以上の特別な感情を彼ら(あるいは彼女ら)に持ち続けている。
そもそも愛とは何なのかということから問い始めれば、それは個人個人の価値観によるものなので結局のところ答えなど出ないもののはずなのである。それなのに人間は個人の解釈を近場の他人に押し広げ、さらには「哲学」などという名ばかりな学問を設けてより多くの他人に押し付けようとする。さらには金を稼ごうとしているのだから、彼らのやっていることは私の知り得る表現で比喩することはほぼ不可能であるし、不快だ。私が彼ら(あるいは彼女ら)に持つ感情を他人に伝えることは、私の信条に反する。
しかし一応こういった形で文章にまとめている以上、仕方のないことがいくつか出てくるのもまた仕方のないことなのであろう。もし他人が理解しうる言葉で表現するなれば、これは「恋」と言って致し方無い。いやもちろん孔雀に恋をすることなんて不可能と思うかもしれない。しかも一匹や二匹の話ではない。8000匹だ。8000匹を全て愛している。しかも8000匹をそれぞれに愛しているわけではないのだ。8000匹を、孔雀8000匹という塊を一個として私は愛しているのだ。私が私の部屋で飼育している孔雀8000匹は私にとって一匹の動物、他人が理解しうる比喩であるなれば一人の人間(異性愛者ならば愛する異性、同性愛者ならば愛する同性、バイセクシャルならば愛する人、他それぞれの定義に準拠する)と考えてもらって構わない。
青い胴体から広がる美しい飾り羽。それら8000匹が(彼ら(あるいは彼女ら)にとっては狭すぎる)私の部屋で広げたり縮まったりする様子を見て私は一種の色気を感じ、そしてとめどない鼻血を吹き出し少し気を失った。そんな気を失った私を孔雀8000匹が一斉に突き出す。目覚めた時は体全身に痛みを感じた。しかしこんなにも心地よくて、むず痒くて、相手をこんなにも抱きしめて、可愛い、気持ち良い、美しい、ありがとう、と感情が絶え間なく流れ続ける痛み(というか身体的感覚)は初めてであった。これを人はセックスと呼ぶのだろうと確信した。私は膣内射精障害であったのでセックスをしたことはあるものの、かつて友人であった人たちが猥雑で下劣な笑みを浮かべ語り合う「本物の快楽」と呼ぶその記号に達したことはなかった。しかし目覚めた私は射精していた。私は孔雀8000匹とセックスをしたのであった。
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