アルバイトめがね
村山裕か
第1話
メガネがあると、ぐっとひきたつようだ。
R・チャンドラー「高い窓」
(田中小実昌訳)
めがねのレンズを、見るのが好き。おれは、めがねをかけて生活しているが、見ているのは前ではなく、めがねのレンズを見ている。だから目の前に人が現れると、びっくりして一瞥してしまう。その後、密かにその人について、人間瞥見記を書きたい欲望が抑えられなくなるから、人の声がおれを呼ぶまでは、人を認識しない。
おれは、アルバイトめがねと自称して生きるのが良いとおもって、その生活をしていた。そろそろ、小説を書きたい気持ちを秘めながらの暮らしを退屈におもってきていたが、小説を書く自信はない。ジミヘンや高杉晋作の死んだ27才という年齢には死のうかとおもっていたが、もうやることがない。
おれは、生きてきた25年間、最弱者だった。唯一の友としていつも川を見ていたから、仮の名は川見で良い。川はいつもおれになにも言わず、こっちに来ることはなかったが、おれが一瞥しても、二瞥しても許してくれるやさしい奴だった。
生きて25年目のある日、アルバイトめがねの川見であるおれが、めがねのレンズを見ながらアルバイトに真面目に取り組んでいると、おれを呼んでいるような声がした。が、おれは、先ず無視したとおもう。もう一度呼ばれた気がしたので、前を見ると、女がいた。一瞥してしまい、女に変な目で見られた。
「会ったことありますか?」
と女が聞いてくる。何か面白い女だとおもったが、おれは仕事の邪魔をされたので、少しおこった。
「ないです。」
とわが人生のすべてを出しきって言ったが、女は動じないで、会ったことがあるか何度も聞いてくる。この女性との出会いは、おれが小説を書く契機となった。後にこの人は、面白い作家とは芥川龍之介だと語った。めがねをかけている人だった。はじめて女を美しいとおもった。自己紹介を要求されて、おれはなんでか、うれしかったが、
「ぼくは、自己紹介はできない。」
と誠意をこめて言ったとおもう。
おれは今では芥川龍之介の「蜜柑」を愛読しながら、長生きをめざしている。おれは、めがねでひきたつ、そのためにめがねがある。
アルバイトめがね 村山裕か @takaimado
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