墓碑の声
苔稲曇華
上
我らが生きる21世紀から何千年と遡った頃。
大文明を築き上げた
宇至王の世は天下泰平、政治潔白にして文化・技術の発達が目覚ましきこと比類なく、まさに理想の治世であった。宇至の治といえば、聖代の代名詞である。
その宇至王が御老齢の時分。新年を祝うため、王宮上部から外へ突き出た舞台で儀式が行われた。無論、王はその舞台で年始の御挨拶をされる。
民衆は龍顔を拝むため、新年の儀に際し解放された王宮の庭園に押しかけていた。
王は元よりさっぱりと清々しく気品のある顔立ちでいらっしゃったが、御年を召されて更に威厳を蓄えた様は、この太平の世を治めるに相応しいと評判であった。
庭園の木には所々雪が積もり、隅に目を遣ると雪の小山ができていた。民衆の集うことは分かっていたから、雪かきをしたのだ。
親に連れられ退屈をしていた子どもはその小山を使って滑ったり穴を掘ったりして遊ぶ。すぐそばの守衛は見て見ぬふりをしていた。神聖な王宮で遊ばれても困るが、祝賀のために集まった彼らに水を差すわけにもいかなかった。
なにより、些細なことで子どもを脅かすのは気が引けた。
守衛の名を
彼は子どもが雪遊びをしているのを見て、我が妻子のことを思い出していた。
妻は、生まれた頃から縁のある幼馴染であった。彼女の体に命の宿っていることが分かったのが数年前である。本当なら妻子を連れてくるはずだったのだが、幼子が昨晩から高熱に臥せっていた。早く良くなることを願うばかりである。
しかし子どもとは不思議なもので、一度生まれると親としての意識が自ずと芽生える。他人の子を見ても、以前とは見る目が違ってくるのだ。ここで遊んでいる子どもを見守りながら、その姿に我が子の将来を見ていた。
宇至王は泰然自若として闊達な御方である。彼が生きている限りこの国は安泰であろう。また嫡嗣たる
虚菟がそうして守衛としての職務を全うしている頃。王宮の最奥、寝殿にて寝具の上で横たわる宇至王の姿があった。
傍にいるのは王妃と王太子、それに招聘された医師であった。それから離れて侍従長と侍医、また御付の侍者のいくらかが取り囲むようにしていた。
医師・
「そう遠くないうちに明星になられるでしょうな」
「明星になる」というのは国王が死ぬことを表すのであった。故に一同は騒然とした。しかしそれは落ち着きのある混乱であった。あるいは秩序だった混沌である。
実のところここに居る皆がそれを予見していた。近頃の王のご様子は尋常でなく、この御病気が単なる風邪などとは異なるとは誰しも思っていた。
しかし正確に診断の出ない内はそれを口にするのは不吉で不謹慎である。
それが今般、正式に覚那が診断を下したことによって、ようやく長らく内に秘めた不安を表に出せた。その間に気持ちはすっかり整理されてしまった。故に落ち着きのある混乱であった。
宇至王は苦しそうな呼吸を少し整えて、蚊の鳴くような声を出した。
「宇慶よ。来なさい」
小さく囁くような声にも重苦しい威厳が乗っているのは、彼の生来の性質が未だ失われていないからだろう。
王の命令に王太子は寝具に近寄り目線を合わせるために膝をついた。王は近付いた彼の顔を触った。皺だらけの手は、息子の顔に吸い付いて離れなかった。
虚菟は寒気に身を震わせていた。すっかり晴れて祝賀日和といった天気だが、気温は相当低く、ただ立っているだけの肌には締め付けるような痛みを伴う寒さであった。
加えて風も吹いてきて、運動でもしないと耐え難いほどであった。
しかし、今感じている寒気は、それとは性質を全く異にするものであった。世に言うところの虫の知らせか、嫌な予感か、ともかくそう言った類のものが背筋を走り抜けていた。
その時、王宮の外から一人の老人が駆けて来たのが見えた。彼は虚菟の知る人物であった。虚菟の隣家に住んで、懇意にしている老夫婦の夫の方であった。
その老人はまっすぐ来て、切れた息を整えようともせず、真っ青な顔のまま慌てて言った。
「虚菟殿。あんたの所の息子さんが……」
虚菟は息子の具合が良くないことを聞いて、すぐにでも家に帰ることを考えた。しかし今は大切な新年の祝賀の時。ここを離れるのは王宮に仕える守衛として許されざることであった。
父として守衛として、何を優先させるべきか分からなかった。
その時、一際立派な服飾の者が虚菟の肩を叩いた。彼は直属の上司に当たる、衛兵を統括する長であった。
「国王陛下の御都合により、式の進行は今しばらく滞ることとなる。その間は好きにせよ」
本来、式が十分に進行しないからといって兵の離脱が許されるわけがないのだが、統括長も子を持つ親として、虚菟を見捨てるわけにいかなかった。
彼の言葉に甘えて虚菟はまっすぐ家に向かって走った。
それを見送った統括長は深く溜息を吐いた。
彼も宇至王の不調を知る者で、先の診断が下った際には真っ先にその報せを聞かせられた。加えて先の虚菟の息子の話があったから、その心労は計り知れない。
少しでも気を紛らわせるために空を見上げた。どこまでも青空が続くと思われたが、遠くの空に暗雲立ち込める様子が確認できた。
彼は再び深い溜息を吐いた。
新年を祝うめでたい日であったはずのその日、宇至王の訃報が国中を巡った。かような大事が巻き起こったとき、些末事は自然と掻き消されるのであった。
すなわち虚菟の息子の死は、限られた身内以外には全く取り上げられなかった。
両人の死から十年が経った。
この十年間、虚菟の鬱屈とした心持ちは決して晴れなかった。ややともすると涙を流していた。
朝日の輝かしいのを見て、星空の艶やかなるのを見て、あるいはただ家から王宮へ歩いていても、その瞳には涙をためた。悲しむのに理由は要らなかった。息子の最後に間に合わなかったことも、虚菟の悲しみを深くさせた。
この十年で虚菟は近衛になった。王族の護衛であるから相当の昇進である。しかしそれも喜ばしいこととは全く思われなかった。己の地位など
己の幸せ以上に息子の幸せを願っていた彼にとって、息子がいなくなるというのは、己を失うも同然であった。
彼と同様に呆然自失の様相を呈する者がいた。新たに国王と成られた宇慶である。
彼の異変は虚菟とはまた異なった形で表出した。宇至王の死後、すぐ即位せられてからしばらくは王としてご立派な姿を見せられた。
従前の弱々しい印象を払拭するような強かさを身に着け、王としての風格を持ち合わせていた。
しかしそれから七年か八年か、とにかく即位十年を迎える数年前に異常なご様子を見せられた。
何が発端かは分からぬが、ある晩のことであった。晩餐も政務も終え、眠りにつこうという時 宇慶王は突如として号泣なされた。それはまるで、居場所を無くした幼児のような、あまりに感情的な泣き方であった。
まず異変に気付いたのが、寝殿に続く廊下を清掃していた使用人であった。あまりの泣き声に慌てふためいたのは、仕様のないことであろう。
使用人はひとまず上司を呼ぶこととした。数分と経たず寝殿には侍従長と数人の部下が来ていた。侍従長は多少の医学知識もあり、侍従長の判断によっては侍医も呼ばれようとしていた。
しかしどうやら体の不調ではないらしい。子のように四肢をばたばたと暴れさせながら涙を流して叫んでいた。その叫びをよく聞いてみると、「父に会いたい」というものであった。
はじめ侍従長は王を気の毒に思った。先代の宇至王は高齢になるまでなかなか子ができず、ようやく生まれたのが宇慶であった。それゆえに大変に可愛がられた。
また宇至王が亡くなったのも宇慶が成人してからそう経たないうちであった。加えて彼の母はずいぶん前に
だがそれにしてもどうにもおかしい。宇慶王の涙ながらの訴えには不思議な言葉が聞こえた。
彼は、自分はじきに死ぬからそれまでに父に会いたいという。亡くなった父に会いたいというのならまだしも、自分が死ぬから父に会いたいというのはどういうことか。まるで父が生きていて最期に顔を見せたいと言っているようだ。
侍従長らは困惑したが、ひとまず王を落ち着かせようということで、彼をなだめた。泣き疲れたのか、間もなく眠りに就かれた。
侍従長はどうしたものかと悩んで、その晩は侍医とも相談した。王の御様子を見てまた対象を考えようと結論付けた。というより、不可解なことばかりの現状ではそうする他に術はなかった。
翌朝、王は普段となんら変わらない御様子で起きられた。
侍従長が昨晩のことについて尋ねると、王は全く記憶にないと仰った。昨日は疲れていたのか、部屋に戻ると糸が切れたように眠り、今朝まで快眠であったという。これが益々不思議であった。
それからまたしばらくは何事もなく、侍従長らも変な夢でも見たかと思い込んで忘れかけていた。数か月後のことである。
あの晩と全く同じことが起こった。寝殿で泣き喚いたと思ったらぱたりと眠り、翌朝には元通りですっかりなかったことになっている。これが数か月毎に起こるのだから不気味だった。
しかし解決策があるべくもなく、ただ見守るしかなかった。それが数年前から今日までの出来事である。
さて、明日は宇慶王の即位十年を祝う日であった。
虚菟は近衛兵の統括長に呼ばれていた。王の御挨拶があるとき、その傍にいて守り給えという命令を下された。
彼は不審に思いつつも頷いた。前日に突然命令を下されるというのは大変珍しい。しかもそれが王の護衛という大役であればなおさらである。だが何か事があって人員が足りなくなったのだろうと忖度して己を納得させた。
王の護衛を行う者は事前に顔合わせをして、王に御挨拶をするのが通例であった。ただ今回、虚菟は前日に急遽任命されたから、顔合わせは当日の朝にして王への御挨拶のみ早急に済ませてしまおうということになった。御挨拶を後回しにするのは、大変な失礼であった。
当然、王は多忙であって御都合の良いのが夜となってしまった。政務と就寝の間の僅かな時間である。
虚菟は侍従長と統括長に連れられ、寝殿へ向かった。
本来、虚菟ほどの官位では寝殿への入室は許されざることであるが、今回は特別な許可を得ていた。それについては侍従長がこう話した。
「この度、陛下は護衛の任命に際して、虚菟近衛兵を御指名あそばされた。王が護衛人事に御触れなさるのは異例のことである。それに伴って、虚菟近衛兵の寝殿入室が今晩に限り許可された」
これを不思議に思うほかなかった。宇慶王との特別な関わりなど無いはずである。
近衛兵といえども、平生の職務については守衛と大差ない。今回のような特別な儀式の場合に王族の近くで護衛をするのみである。それが一体いかなる事由で指名されるのか。
寝殿に入ることもあって緊張は尋常ではなかった。
王宮の最奥、国王の寝殿前に着き侍従長と統括長は扉の側に立って入室を促した。虚菟は三人で入室するものだと思っていたから当惑を隠せなかった。
「お二人はお入りにならないのですか」
「陛下はあなたを一人で入室させるようご命令を下された」
虚菟の緊張は益々強まることとなった。寝殿にて国王と差し向かいで御挨拶をするなど予想だにしていない。
戸惑ってどうするべきかと悩んでいると、両側の侍従長と統括長から早く入ることを催促された。そこで観念して、入ることを決意した。
虚菟は寝殿へ入った。
寝殿は広い割にインテリアの少ないことが目立った。
意外にも簡素な作りの机と椅子、人の背丈ほどの本棚、それが部屋の隅にあった。中央の奥には当然ながらベッドがあった。これはやはり豪華で一人が眠るにはあまりにも大きかった。
そのベッドの隅に座るのは、猫背にして両腕をだらんと膝の上に垂らしている国王であった。
後ろで扉の閉まる音が聞こえた。その音で王は顔を上げた。
虚ろな瞳は、何かを探しているような動きをしていた。その瞳が虚菟を捉えると、ぱっと人間らしい輝きを取り戻した。それと同時に口を開いた。
「やっと会えたね」
国王らしからぬ気さくな言葉に驚いた。いやむしろその声色にこそ驚いたのかもしれない。これまでに聞いたことのない、高く柔らかく、幼い声であったのだ。
虚菟は宇慶王と同い年であった。しかし王としての威厳なのか、己よりも年上のように感じていた。が、今眼前にいるのはそんな威厳を持ち合わせない子どもの様であった。
「最期に会えなかったからね」
王の御様子も、御言葉も心当たりがないから、虚菟の混乱は際限がなくなっていた。
「恐れ多くも、陛下の仰せになることに心当たりがございません。人違いなさっているのではありませんか。私は虚菟近衛兵でございます。明日の護衛に際して、御挨拶に参りました」
「ううん、合っているよ。ボクのお父さんでしょう?」
虚菟は王が何か悪い冗談でも言っているのかと思った。それは、最も触れられたくない領域に踏み込んできたためであった。
「私には子どもはおりません。それに御年齢が……」
「子どもが居ないんじゃなくて、死んだんだよね」
相手が国王でなければどうにかしていたかもしれない。相手を殴っていたか、発狂していたか、それはわからないが、とかく平静ではいられなかったはずだ。
ただ相手が国王であることだけが、虚菟を冷静に引き留めていた。
「僭越ながら、その件については、お控えいただきたく……」
「だから言っているでしょう? ボクがその死んだ子どもなの」
虚菟はついに眉を顰めた。王はどうにかしてしまわれたのか。そう思う反面で、ほんの少しだけ、王の言うことが真実である可能性を探っていた。そんなことがあり得るはずがないのに。
「ボクが死んだ時に、お父さんは外に居て会えなかったから、もう一度会いたいって思ったの。そうしたらね、なんでかわからないけどね、ここにいることがあったんだ」
やはり全く信ずるに値しない、荒唐無稽な話と切り捨ててもいいものである。しかし彼の口ぶりがなぜか真実味を強くさせていた。なんの根拠もなく、彼の話を信じかけていた。
「そんなに長い間はいられないんだけど、目が覚めるとここに居て、すぐ眠くなって暗い所に帰るんだよ」
「……つまり、君は……
虚菟の——父の言葉に彼は満面の笑みを浮かべて、それはそれは嬉しそうに力強く頷いた。
「そうだよっ! お父さんに会いたかったからね、王様に頼んだんだ」
そういって菟嘉は己の体、すなわち王の体を指さした。
「陛下に? 陛下と会話ができるのか?」
「直接は無理だよ。ボクが居る間に王様の日記にボクの事を書いたんだ。それで何回か話していたらね、お父さんと会わせてくれるって約束してくれたんだよ。ボクが王様の体に入る日の法則を見つけたんだって」
「そうか……」
それから二人は種々の事を話し合った。互いに長らく会いたくて身を焦がした相手だから、話すことも山のようにあった。
一度眠ったと思われた国王は、直に体を起こして周りをきょろきょろ見ていた。そして虚菟を見つけると、何かに納得したように一度うなずいて、彼に声をかけた。
「お前が虚菟だな」
その言葉は一種の確信を持っているようだった。虚菟はうなずいた。
「はい。我が息子がご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
「良いのだ。聞けば朕が父と命日が同じだそうじゃないか。この不思議な憑依も何かの縁なのであろうな」
王は自身の言葉にうなずいて、続けて言った。
「それに、朕も両親を亡くして久しい。お前の息子がいる間の記憶はないが、今、幼き頃に父と遊んだ懐かしい暖かみが胸中に広がっている。体が覚えているのだろうな。こんな気分のいいのは久しぶりだ。むしろお前たちに礼を言わねばならない」
そう言って王は「ありがとう」と言った。それはもちろん目の前の虚菟に言っているのだが、王の目はどこか異なるものをも見ていた。
王に感謝されるなど、とんでもないことだから、虚菟は慌ててしまった。
「身に余る光栄でございます。私からも、息子と会わせていただいたこと、感謝申し上げます」
「ああ」
この出来事をきっかけに宇慶王と虚菟は、国王と兵士という関係をを越えた友情を育むようになった。
宇慶は王として成長していくなかで虚菟と意見を交わし合った。故に虚菟の地位が上がるのは自然なことであった。
虚菟は兵士の枠にとどまらず、国政の重役としての地位を確固たるものにしていった。
二人の間には強固な絆が結ばれていたのだ。互いが心に持っていた、大切な人を亡くした悲しみや虚しさを、和らげてくれた。
唯一無二の親友となったのであった。
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