死を選んだ命を賭して、僕達は地獄に生きる

七四六明

地獄道

地獄道(1-1)

 笑い方は忘れた。

 笑うと親にうるさいと怒られていくうち、笑えなくなっていった。


 泣き方を奪われた。

 赤ん坊の頃から、泣く度に家族に虐待された経験から、徐々に泣かなくなっていった。


 怒り方を知らなかった。

 みんなが怒るのが怖くて、自分が怒れる事を知らなかった。


 そんな青年が、殺意を知った。殺気を学んだ。殺し方を覚えた。

 二〇年近い蓄積が、彼をそんな人間に育ててしまった。

 彼を取り巻く環境が、彼を否定し続けた家族が、彼を拒み続けた人間達が、彼という人間を――佐藤さとうあらたという人間を作り上げてしまった。


 もう洗っても取れないだろうくらい量の血を染み込ませた袖で汗を拭いながら、数キロ走った足で施錠された扉を蹴破る。

 その足で目の前の階段を駆け上がり、より強固な鍵で施錠された扉を蹴破ったところで、青年はようやく止まった。


 運動会でも、これだけ一生懸命に走った事はない。

 脇腹が痛くて、肺を伸縮させる胸は今にも破裂しそうなくらい苦しい。


 数キロ走り通した脚は震えが止まらず、今にも立つのを止めてしまいそう。


 だが、まだ進まねばならなかった。

 進まねば終わらなかった。


 そも、逃げ続ける気などさらさらない。

 もう、終わりにする。終わりにしたい。

 無意味だった人生を、無駄だった人生を、もう終わりにしよう。


 青年は柵を上り、超え、屋上の縁に立つ。

 パトカーの警報がけたたましく聞こえて来たが、もう遅い。間に合わない。例え間に合ったとしても、もう佐藤新という人間の人生は間に合わないところまで来てしまっている。

 だから、躊躇なんて無い。


「……」


 何か最後に言い残す事はないかと考えたが、何も思い浮かばなかった。

 いっそ、つまらない人生だったなと言い切れてしまえばいいものの、自分にはつまる人生とつまらない人生の差がわかるような生き方をして来なかったから、何も言えなかった。


 嗚呼、無意味な人生。

 自分は一体、何のために生きて来たのだろう。


 曇天に包まれた夜の空を仰ぐと、ふと、白い何かが見えた。

 光に照らされていないものの、漆黒の夜では映える白い像が徐々に大きくなって――いや、徐々に自分の方へ目掛けて落ちて来ている。


 何がどうして、どうやって。そんな事を考える余裕はなかった。

 ただ自分の方に落ちて来て、目の前を通過しようとするものだから、考える間もなく必死に手を伸ばして受け止め、そのまま共に落ちていく。


 助けようとした、と気付いたのは落ちている最中。だがそれも叶わず、共に落ちていると同時に気付く。

 結局、自分なんて何も出来ないんだなと己の無力さに打ちひしがれていながら地面に激突。そのまま意識を失って、徐々に冷たくなっていく我が身が、再び体温を取り戻していくのを感じて、違和感を感じながら体を起こした。


「へぇ、生きてるねぇ」

「生きてますね」


 自分を見下ろす二人。

 うち一人は先ほど青年が抱き留めようとした女性を抱き上げており、もう一人は陰陽魚が描かれた仮面を被っていた。


「青年、君の名前は?」

「……佐藤、新」

「佐藤新殿、貴方はこちらの屍姫しかばねひめを守る地獄道の守護者に選ばれました。死を選ぶ程度の命なら、使い尽くして死んで下さい」


 青年は、異世界にでも迷い込んだのかと錯誤した。

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