抜錨

紫陽_凛

座礁

 一切合切を諦めちゃおうかなって思ったその日、私は仕事を辞めることと、実家に帰ることを決めた。睡眠薬をたくさん飲んだり、高いところから飛んだりする前に、私は冷静にならなければならない、と考えたから。今となってはその判断自体が冷静だったと思う。そこまで、追い詰められていなかったのかもしれない。


 鼻水を垂らしながら実家に電話をかけ、仕事をやめることと、週末に帰省するとだけ告げた。電話口の父は何か言いたげだったけれど、深くは聞かずに「用意しておく」と答えた。会話はそれ以上展開することなく、用件だけをお互いに言い合って、通話は途切れた。


 体を起こす。シーツも枕も脂くさく、顔も体もべとついていた。ひどい恰好だ。服と服の間にわずか覗くフローリングをつま先で踏みしめて、ベッドから降りる。ぐちゃぐちゃの毛布の下からお気に入りのカーディガンを引っ張り出して丸め、横倒しになった半開きのスーツケースの中に放り込む。それから、醤油のシミのついた書き損じの退職届をゴミ箱に放り込んで、テーブルの上を乾きかけたウェットティッシュで拭き、新しい紙を取り出す。ボールペンを探すついでに、私は机の上の紙の束の間からスマホを探り当てて、音楽をかけた。けど、すぐに耳障りになって消してしまった。

 ネットニュースでは有名人が結婚した話と、有名人が病死した話と、よく知らない人が誰かに苦言を呈した話とで盛り上がっている。みんなあることないこと書き込んで、他人の人生を外野から楽しんでいる。

 気づいたらSNSを熱心に読んでいた。スマホを見えないところに隠してから、私はちゃんとした退職届を書くためにボールペンを探し始めた。


 長い時間をかけて書き上げた退職届をようやく提出し、その足で新幹線に飛び乗り、東北本線を北に下った。仙台にたどり着いたときは昼を過ぎていた。私は迎えに来てくれた父親に、「おなかがすいた」とだけ告げた。父は私のキャリーケースを車のトランクに押し込みながら、明るい声音をつかった。


「何が食べたい? 夢子」

「わからない」

「なんでもいい、好きなものでも。好きな店に連れて行ってやる」

「わかんないの」


 父は運転席に乗り込みながら、バックミラー越しに顔をしかめた。


「今日まで何を食べてたんだ、いったい」

「シリアルと、牛乳」

「だからだ。だから調子が悪くなるんだよ。そんなに偏った食生活をしてるからだ」


 別にシリアルと牛乳が大好きというわけではない。食べるのに一番労力がいらないからだ。紙皿に、ざっとやって牛乳をえいっとかけるだけ。


「料理はしなかったのか」

「最初は頑張ったけどね。だんだん面倒くさくなってきて。片付けも、うまくいかないし。冷蔵庫の中のもの、腐らせるし。そうするとお金も、無駄になるでしょ。仕事しながら家事なんかできないよ。無理だよ」


 父は黙って私の言葉を聞いていた。車は国道を走り、ファミリーレストランの駐車場に入って停車した。


 店内はほどよく空いていた。きっちりと髪をひっつめに結わえた店員のお姉さんが高い声でいらっしゃいませと言う。私なんかよりずっと若いように見えた。

通された四人掛けの席に二人で腰かけて、それぞれメニューをめくった。私は無性に、お子様ランチが食べたくなった。ハンバーグと、ナポリタンスパゲティと、白桃のゼリー。チキンライスに立てられた小さな旗。でもお子様ランチのメニューの下には、「小学生以上のお子様はご注文いただけません」と書いてある。


「パパ。どうしてお子様ランチって子供しか食べられないんだろう」

「そりゃあ、子供向けメニューだからだろう」


 私が聞きたいのはそういうんじゃなくて、と言おうと思ったけど、やめた。私はお子様ランチのメニューを戻して、値段を見ながらパスタの中で一番安いのをセレクトする。


「好きなものを、食べていいんだぞ」


 父が言う。だけど、この数年で身についた貧乏性はなかなか抜けない。


「これでいいの。これがいいの」


 私はそう言いきって、店員さんに低い声で「ナポリタンひとつ」と告げた。


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