第2話
私は家を出ることにする。高校からは寮に入った。その頃になるともう、母は寝たきりに近かったし、妹も学校へ向かわずに家にいた。私は母の相手をし、母の役割を順にこなし、妹の話を聞いてはいたがそれでも、啜り泣いたり声を上げたり、ふたりがずっと隣にいる家は、あまり心地が良くなかった。病院へ行こう。父がそう言い、腕を引いても、母は頑なに首を横に振り続けた。
父をここに残していくのは気がかりだった。でもあの植物が枯れてから、それも仕方がないと思った。当たり障りなく私達は過ごしていたけれどやはり、父は私の間に薄く仕切りを作っている。あまり視線が合わなくなった。父は私ではなく、私を透かしたむこうを見ていた。
雪がまだ残る三月の終わり、私は鞄に荷物を詰めて家を出た。前日に、妹がくれたキーホルダーをつけておいた。いつか一度だけ、一緒に観た映画に出てきたクマのディン・ドンのマスコットだった。
寮は遠いが、電車で向かえる距離だから、一度断ったのだが父が車を運転していた。カーブをゆっくり曲がるとき、父はやけに膨らんで曲がる。ただ、これでしばらく会わないのだからと、思ったので黙っていた。
昼前には着くはずだったが、道がだいぶ混んでいた。父が、お腹が空かないか、と言うので、遅い昼食を共にとることにした。何が食べたいかと聞かれる。ここで、父さんは? と返すと彼はきっと口ごもる。面倒だから、回転寿司と答えた。それなら料理を待たなくていい。手持ち無沙汰にならなくて済む。
14時すぎの回転寿司屋は空いている。テーブル席を選んでもすぐに座れた。36、と書かれた席に向かい、コートはそのままで手を拭き、お茶を入れる。父も自分の湯呑みを取るからそのままにした。
レーンをまばらに流れてくる握り寿司をふたつ、みっつ取って食べた。何か注文するかと聞かれる。まだいいよ、と返す。父は何かしら画面を触って、完了のアイコンを押す。
少しして、お味噌汁が運ばれてきた。赤い椀の蓋を父さんが開ける。ふわりといい匂いがした。なに?と尋ねるとあさり。そう返ってきた。
私は体を浮かせてボードに手を伸ばし、同じものを注文する。また少しして、先程と同じ店員が、同じ味噌汁を運んでくる。ボードからメロディが流れて、サラダ軍艦が三皿、新幹線の背中に乗って流れてくる。通常のレーンの上にもそれがちょうど見えたから、皿を取って父と同じように食べた。
と、サラダ軍艦を咀嚼する私を父が見る。眉を下げ、父が不思議な顔をして笑う。
「父さんも、いや、」いちど言い淀む。
「要のお祖父さんも、そうやってよく頬を膨らましてものを食べていたよ」
つい、自分の頬を触る。ぽこりとしていた。軍艦をひとくちで頬張ったのは良くなかった。でもつい、面白くなって少し笑った。すると父の眉が緩む。ほっとしたように息を吐く。
私は首をかしげる。父が一瞬怯えた顔をする。
悲しいな。そう思った。
「お祖父ちゃんどんな人なの」
言って、しばらく私は黙る。
父も、長く黙っていた。
そして箸を置き、父は訥訥と話し始める。
父の父つまり私の祖父に、私は会ったことがない。生まれてくる前に亡くなったそうだ。ただ写真だけは見たことがある。家族と写っているというのに唇を一文字にし、目を広く広く見開いてカメラの方をじっと見ていた。痩せた面長の顔と短く刈った固そうな髪。顔が短く、猫毛の父とは似ても似つかない。
「父さんは、いやお祖父さんはねそうだな、なんだか難しい人でね」
父がこぼすように言う。だろうなあ。とその言葉をお茶で飲み込む。
「堅い仕事の人だったから。亡くなったのは就職してからだったしね、僕が。お金の苦労はしなかったけどどうしてもね。苦手で、僕は父さんが」
有線で曲が流れている。父が空けた皿を見つめながら、続ける。
「よくわからなくて。父さんのことが、いやなんだろうな、父親ってなんだろうな、というか」
たぶんそうだろうな、と思うが、私は父の言葉を待つ。
「…それが親になってもわからなくて」
情けないけど。そう続け、父が私を少しだけ見る。私が言葉を遮らず、顔は驚きも悲しみもせず、責めるようなことも「そんなことないよ」とも言わないで、ただ頷いたのを確かめる。細く父は息を吐いて、続けた。
「別に本や何かでも良かったんだけど。ちょうどね、家にねたくさんあったんだ。映画が」
父は思い出したように、湯気の消え去ったお茶をふたくち飲む。間があり、呟くように言う。『父さんの書斎に』。
「…だから映画で、『父親』を知ろうとしたんだ」
やはり、悲しいな、と思った。
私がなぜそれを知っていたかと言うと、父と全く同じように、映画の中で、映画を使って「父親」を知ろうとしていた主人公がいたからだ。その映画はある程度の知名度にも関わらず、父がくれたディスクの中には入っていなかった。借りたディスクを流している日、父は早々に眠りについた。ひとりでソファに座って眺める。丸眼鏡の主人公が父と重なり、私とも重なる。例に漏れず、私も映画を使って「親」を補填していたからだ。
私達は友人と呼べる人間を持たなかった。父も、私も、その主人公もだ。六年生の頃、一度、母がどうして。どうしてあなたは手伝ってくれないの、と言ったから、あなた達が欲しくて産んだんじゃないの?と言ってしまってようやく気づいた。余計なことは言ってはいけない。いらないことを言うぐらいならにこにこしながら黙っていたほうがいいのだ。ただそれで、家の外ではあからさまな疎外はされなかったが、親密になれることもない。人の中で人を知ることができない。
「…でもあんまり、うまく行かなかったけど」
父がまた空いた皿を見る。席のすぐそこを、店員が早足で通り過ぎる。だよね。そう思った。作られた話で補填するには限界と、危うさがある。だから、サラダ軍艦なんてつつきながら、私達は回転寿司屋でこんな話をしている。
父がしばらく黙るので、サラダ軍艦を半分だけ齧って口に入れ、食べた。こりこりとした歯ごたえの、よくわからない魚介類のマヨネーズ和えは美味しかった。
世話にはなったから。苦労もしていただろうから。そう思い、父の会話を補填する。
「でも、どんな父親が出てきても映画は楽しいよ」
父が顔を上げるから少し待つ。
「…そう」
「いい父親のときは、それが自分にも効果があるし、駄目な父親のときは気持ちが少し楽になるでしょう」
「そうだね」
「そこまでしてどうにかしようとしてくれたんでしょう」
私が言うと、父はまた眉を下げて不思議な顔をし、手のひらで口元を覆う。いちど戻して眼鏡を外して、私によく似た顔を、また長い指のつく手のひらで覆う。
作りものから補填するのは不完全だけれど、役に立つこともままある。父が十三の誕生日にくれた、最後の三枚のディスクのなかで、銀色の髪の父親が言っていた。
人間というものが、いかに仕方もないか、それを理解すること。
父も、父のまた父も、父親である前に人間なのだ。
もちろん、私の母親も。そして、私も。
銀髪の父親が言っていたことが本当ならば、人間が『親』をうまくやるのは大層難しいだろう。鳶色の目の、モスグリーンの厚いコートに身を包む彼のお陰で、私はそうやって補填することができた。
私の父は映画を使い、足りない部分を継ぎ接いで、人間よりも父親であるように。無理にではあるがそうしてくれた。それが家族ためだろうが父本人のためだろうが、彼の父親のためだろうが、どれでも良かった。途中で出来なくなってもまた、そうあるほうを選び続けた時点で、父は至らなくも父親だったと私は思う。
「注文する?」ペーパータオルで鼻をかむ父に尋ねてみる。
「サーモン」父さんはそう答えた。笑ってしまう。
「じゃあ私も。ふたつ?」
「ふたつ」
「じゃあよっつ」また体を浮かせて、ボードをタップする。注文し、画面が変わる。
ふと思い、ボードの設置面を動かす。
「取れた」注文ボードが外れて、タブレットだけになった。
「えっそれ取れるの」父がびっくりしている。
「知らなかった」私もタブレットをまじまじと見る。
すると、私達の隣の席に、四人の家族連れが座った。
父親、母親、兄、妹だろう。もうそんな時間なのかと腕時計を見て驚く。レーンを触ろうとする小さな女の子を嗜めて、父親が、当たり前のようにタブレットを外した。
私達は顔を見合わせる。そして苦笑いをした。
注文の品が到着します。タブレットから画像と音楽が流れる。
父が眼鏡を掛け直す。
レンズが照明を反射して、綺麗に一度薄く光った。
映画と父親 フカ @ivyivory
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