3. だんまり
綿のYシャツを羽織りながら、日藤が六畳間に姿を見せた。
「今日もお仕事かい。精が出るねぇ」
「今週は確かに仕事が多い。いつもこうならいいんだがな」
ボタンを留め終わり、ドアノブへと手を伸ばす日藤。それを引き止めるように、アシュレイは甘えた声を上げる。
「わるいんだけどぉ、飲み切っちゃった。おかわりちょーだい!」
アシュレイは今日は赤ワインを飲んでいた。飲み口のストローは机の上に落ち、赤い滴が点々とこぼれている。陶器のような白い頬も、ほんのりと赤みを帯びている。
「はいはい」
日藤は床に転がったワインボトルを拾い上げ、グラスになみなみと注いでやった。ストローを差してやると、アシュレイは「ごくろうごくろう」と、赤ワインをちゅうちゅう啜ってご満悦だ。
朝からほろ酔い加減の生首を横目に、日藤は(良いご身分だ)と半ばあきれた様子だった。赤ワインとアシュレイをちゃぶ台の上に残して、今日の客を迎える準備に向かった。
ステンレスの扉が閉じるのを確認してから、アシュレイは息をひそめて呟いた。
「まだバレてないね?」
今日は常連客の新島が来た。初老の紳士で、珍しいものに目がない。ひんぱんに古美術を買い付けに来てくれるので、日藤としては是非良いお付き合いをしたい上客だ。
今回は美人画などを数点希望とのことで、日藤は事前に見繕っておいたものを台に並べていった。新島が商品を手に取って「ふむふむ」と目を光らせている。日藤の方は物品のリストに目線を落とし、いつでも詳細を伝えられるように心づもりをしていた。
すると、「ほう、これは……?」と困惑の声が上がり、日藤はぎくりとして顔を上げた。もしや、検品にミスでもあったのだろうか。嫌な汗が吹き出すのを感じた。
そっと背後から覗き込むと、絵巻の上の美人画に大きな赤黒いしみが広がっていた。数点広げられた他の絵にも、かなりの範囲に赤い汚れが……。
めまいがするような心地で、日藤は弁解もできぬままにそれを見つめていた。次の瞬間、
「素晴らしい!」
新島が感嘆の声を上げた。
「ほら、見てくださいここ。女性が口元から血を流しているように見えるでしょう。着物にも無残に血がべっとり……アレですよね。これって “いわくつき”ってやつでしょ」
「は、はぁ」
「日藤さん、中々やりますねぇ。保存状態の完全な絵も良いですが、これはこれで、珍しさではひけをとりませんから」
新島の熱い語りに気圧されて、日藤はきまずそうな笑みを浮かべた。そして視線を宙に漂わせ、こうなった原因について思いを巡らす。
そして思い当たった一つの答えに、彼はこめかみをひくつかせた。もちろん客の手前、笑顔は崩さなかった。
数十分後。
扉を荒々しく押し開いて、日藤が六畳間に戻ってきた。その鬼のごとき形相に、アシュレイは全てを察してごくりと唾を飲んだ。
「あの絵巻物の赤いしみ。お前だな」
しん、と辺りが静まり返る。アシュレイは置物のごとく微動だにしなかったが、やがてすっと目をそらした。
「赤ワインだろ、どうしてもっと早く言わなかった!?」
生首はひたすらにだんまりを決め込んでいる。鳥籠をつかんでガンガン揺さぶられても、断固として黙秘を貫き通した。
アシュレイはその後1カ月間、飲酒を禁止された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます