兎崎燈子の場合
親と盛大に喧嘩したので、アルバイトに行くついでに何度目かの家出をした。
そうして
はて、ふと意識がはっきりしたと思ったら全く知らない場所だった。
確かに夢うつつでなにやらいつもより人が多い場所に出たなとか、ざわざわと騒がしいなとか、友人宅のベッドはこんなに寝苦しかっただろうかとか、そもそも友人の顔を見て言葉を交わした記憶がないなとか、そんなことは考えた。
だが眠かった。とにかく、眠たかった。
今、燈子の目の前には意味の分からない言葉(言語ではない。言語としては理解できるもののような気がする。多分)で怒り狂うみょうちきりんな生き物がいた。
身長は燈子とそれほど変わりがないように見える。若干燈子の方が、背が高いかもしれない。ただし、そいつの頭に生える長い耳を身長に含めなければ、だが。
顔も毛むくじゃらで、毛色は黄みがかったミケ模様。顔だけ見れば目つきの悪いウサギに見えたかもしれない。いやに大きいが。
そいつは燈子が言うのもなんだが、ガラの悪いシャツとジャケットを着ていて、ズボンは穴開きどころか刃物で切り裂いたようなヴィンテージ加工もの。長い耳にはいくつも石がついている。ピアスだろうか。
「くっそぉぉぉ、あんのクソ悪魔、足元見やがってぇぇえぇっ」
声は若い方。毛むくじゃらのウサギ顔だからわからないが、燈子と同じくらいか少し年上程度だろう。
そいつは頭をぐしゃぐしゃとかき回しながらちらりと燈子を見た。じっとりした目つきが気持ち悪い。
「はぁぁぁぁぁぁ、ない。マジ、ない。ないわ~。十歳以上はババアだろ……ないわぁ」
「きっっっっっっも。なんだこの犯罪者予備軍」
「うるっせぇ、黙れクソババア! くそぉぉぉ、本当なら可愛くて小さい子を買ってたはずなのに! あの詐欺悪魔ぁっ!」
犯罪者予備軍じゃなくて犯罪者(確定)だったかもしれない。
燈子はドン引きしながら周囲に目をやった。燈子が入っていた箱は彼が燈子と目が合ってすぐ、怒りに任せて引き裂いてしまった。爪はないようだが力は強いようだ。
目に優しい緑の壁紙、机は触っていないかのように真新しく綺麗で、エレキギターのような弦楽器に見えるものが壁に立て掛けてある。壁にはヴィジュアル系なのかそうでないのか判断に困るバンドものっぽいポスターが貼られている。主に判断に困る原因は人物たちが軒並み人間には見えないことだ。目の前にいる二本足の獣のような獣顔の奴もいれば、デフォルメで描けば虫歯菌に見えるような奴もいる。
どう考えてもここは燈子の知る場所ではないのだろうということが察せた。
とりあえず目の前のこの革ジャンウサギが燈子にとって害ある存在なのかどうか、だ。いや、既に精神的には害しかないが。
「そもそも、ここどこ? あんた誰? あたしなんでこんなとこにいるの?」
「あー、うるっせぇ、うるせぇ。ここは俺んち! 俺はてめぇのご主人サマのコエッリオさまだ! てめぇはこの俺に買われたんだよ! 手違いで! な!」
そいつ――コエッリオが言うにはここは
……手違いで、だそうだ。
本来はなにを買おうとしていたのかと思えば、先に言っていた通り十歳以下の幼児(特に少女)を買うつもりだったのだとか。
なにをどうしてか、高校生である燈子がコエッリオのところへ運ばれてきたようだが。
燈子はため息を吐いて苦い顔をする。
燈子には年の離れた妹がいる。それがちょうどコエッリオの言うような十歳以下の少女。
妹は無事だろうか。両親は嫌いだが、妹のことは可愛いのだ。
家出をする前に少しくらい話をすればよかったな、と今更ながらに後悔する。もう二度と会えないかもしれない。
最後に交わした会話はどんなだったっけ。確か、髪を染めてしばらく経っているから黄色と黒の頭になっているのを見て「おねえちゃんの頭、プリンみたいでかわいいね」と笑っていたのは覚えている。
二度、ため息を吐く。
コエッリオは未だに「合法的に幼女と戯れるチャンスだったのに!」などと叫んでいる。頭が痛い。
ゴシュジンサマはともかく、なんとかここから脱出する術を探さなくては。
そう、燈子が拳を握りしめたときだ。
びょろろろろろろろろろっ
耳に痛い、形容しがたい音が部屋の外から聞こえてきた。鳥の悲鳴にも似たそれはどこかで聞いたことがある。
「っる、っせぇぇぇ! クソ兄貴!」
コエッリオが吠えて部屋を飛び出す。
今の内に逃げるべきだろうか、と思いつつ燈子も後を追った。
コエッリオが扉を蹴破るようにして開いた部屋は、彼の部屋よりもずっと綺麗で整った部屋だった。
中を覗き込んで燈子ははっと目を見開く。
「うるっせぇ、クソ兄貴! なんの音だよ、これ!」
「うるさいのはどちらだ、愚弟。トラコの鞄についていたものが外れたんだ……ううん、どうやって止めるんだ、これ」
答えたのはコエッリオよりも二回り以上も大きな虎に似た二本足の生き物。似ても似つかないが会話からすると兄弟のようだ。
コエッリオよりも知的に見えるのは彼の左目に嵌まるモノクルのせいか、背筋を伸ばした姿勢か、スーツのような服装だろうか。
そんなことはどうでもいい。燈子が注目したのは彼の背中に背負われるようにしてしがみつく――大切な、妹。
「虎子!?」
「お、ねえちゃん……?」
防犯ブザーのうるさい音にかき消されそうなほどに小さな妹の声は、驚くほどすんなりと燈子の耳に届いた。
ぽかんとする二足歩行の獣二匹を放っておいて、燈子は妹――虎子へと手を伸ばす。
虎子も獣の背中から滑り落ちるようにして燈子に手を伸ばした。
腕を引いて胸元に閉じ込める。暖かくて、家のシャンプーの香りが鼻に伝う。
ぎゅうと力を入れるとくぐもった声で「おねえちゃん」と虎子も背中に回した手に力を入れたのがわかった。
ぐす、と小さく鼻をすする音。あまり泣かない妹が泣いていた。
「虎子……あんたもここに来てたんだね」
「おねえちゃん……おねえちゃん、おねえちゃんっ」
「うん。姉ちゃんだよ。怪我はない?」
「ゔん……っ」
よかった、と胸を撫で下ろす。まさか本当に妹までこんなところにいるとは。
ちゃんと会えたことに安堵しつつ、もし出会えなかったらと思うとぞっとする。
えぐえぐとえずく虎子の背中をぽんぽんと叩いてあやしながら、燈子はふと顔を上げた。よくわからない生き物二体がこちらをじっと見下ろしていた。
虎子を抱える腕に力が入る。
獣二体を(特にコエッリオを)睨み付けるようにして見上げる。
先に動いて逃げるべきか。それともあちらの出方を見るべきか。
悩んでいると、先に動いたのはコエッリオの方だった。
「っめぇぇぇぇぇ、なにちゃっかり幼女買ってんだよ! 俺のとこはババアだったのに!」
「うるさいな。お前も人間を買っていたのか……さてはリガスの人間即売会で買わなかったな」
「リガスのとこなんか使えるかよ! そんな金ねぇっつの!」
「だからだ、愚か者。だがいい買い物をしたようだな、トラコがあんなに喜んでいる」
言い争いをしていたかと思うと二人は揃って燈子たちを見た。後退りたいが、泣いている妹を抱えていては満足に動けなかった。
「失礼、レディ。見たところ貴女はトラコの実姉のようだが?」
「……燈子」
「トウコ、そんなに警戒しないで。私は貴女たちを食べたり傷付けたりはいたしませんよ」
「…………横の奴がどうだか。そもそもこの子を買ったってどういうこと? 買って、なに、するつもり?」
「可愛がるだけですよ。ペットと言えばわかりますか? この世界では人間は労働力や愛玩用として人気なんですよ。まぁ……弟が貴女を買った理由までは知りませんが」
「俺だって本当は幼女欲しかったっつの!」
「……」
「……危害は加えませんよ。多分」
そう言って大きな虎のような彼はため息を吐いた。
腕の中でもぞもぞと妹が顔を上げる。
「あのね、おねえちゃん。チグレさん、遊んでくれたの。こわいひとじゃ、なかったよ」
いつの間にか泣き止んでいた虎子はそう言ってにこりと笑った。まだ涙のあとは残っているが、もう泣きそうにはない。
燈子はため息を吐きたいのを我慢してチグレとやらを見上げた。人見知りしがちな妹が背中に乗って遊ぶほどだ、彼に警戒心を向ける必要はないのかもしれない。
「……姉大好きな幼女、エッモい……」
「わかる。ババアだけど、そこだけは許せる」
前言撤回。やっぱり警戒しておいた方がいい。
どうやら似た性癖持ちの兄弟だ。
燈子は気が遠くなるのをぐっと堪えて変態兄弟を睨み付けた。
虎子を守らなくては。
そのためにはまずなにをすべきか。
それを必死に考える燈子の思いを知ってか知らずか、獣二匹は顔をだらしなく歪めてでれでれと可愛い幼女が嬉しそうに姉にすがる姿を見守っていた。
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