田鹿吉乃の場合

 一目で美しいと思った。欲しいと思った。


――だって、俺は悪魔だから。


 ガドは中級悪魔バルバロ・ディアだ。ならば、欲しいものは奪うもの。

 そうしてガドは人界からその美しい少女を攫ってきた。

 一つ、誤算があるとすれば――


「うざい、キモイ、臭い、狭い、暗い、鬱陶しい、邪魔、馬鹿、アホ、しつこい、ふざけんな、このクソキモ悪魔!」


 ……少女、田鹿たじし吉乃が見た目通りの天使のような人間ではなかったことだ。

 見た目こそ極上の天使の如き吉乃だが、口を開けば罵詈雑言が飛び、動けばすぐに手や足が出る。短いスカートだろうがお構いなしだ。

 攫ってきてすぐにガドは部屋に置いてあった椅子を振りかぶった吉乃に襲われかけた。流石に避けたが、続いて飛んできたゴミ箱は避けられず頭からゴミを被った。

 それだけではない。

 もうずっとこの調子で罵られ続けている。

 ほとほと困り果てたガドはいっそ人界に返した方がいいのではないかとすら思った。だが、できない。

 何故か。魔界スィスィア・サアーダでは連れてきた人間を再び人界に戻すことは禁じられている。理由はガド程度の悪魔は知らないが、そう決まっている。だからできない。

 もちろんガドの能力的な意味もある。

 そしてなにより――吉乃の顔が超絶好みだから、手放すには惜しい。

 まぁそんなことを考えている間にもガドは吉乃に蹴られながら罵られているのだが。

 いや、それも今日まで。

 ガドは今朝方届いた小箱を開けた。

 中に入っているのは小ぶりな指輪だ。シンプルなデザインで小指の爪の先よりも小さな白い石が申し訳程度にはめ込まれている。

 刻まれた紋様は「服従」の印。

 ガドはにんまりと笑みを浮かべる。

 これさえあれば――と考えたところで不意に手にしていた指輪が小箱ごと消えた。


「エッ」

「なぁに、これ」


 はっと我に返って見上げると、何故か吉乃が小箱の中の指輪を眺めて首を傾げていた。

 あ、あ、と無意味な困惑の声がガドの口から漏れる。

 取り返そうと慌てて手を伸ばすが、ガドよりも身長の高い吉乃は手をひょいと持ち上げて遠ざけてしまった。

 吉乃の顔だけでなく手足や全体のバランスも美しいので傷つけたくない。下手に動くと傷付けそうでガドは手を伸ばしたままの体勢から動けなくなってしまった。


「ここにも指輪なんてあるのね。アンタが付けるの? にっあわなーい」

「か、返せ……!」

「嫌」

「返せー!」

「いーや。アンタみたいなクソキモ悪魔がこんな指輪持ってるなんて不自然過ぎてキモイ。なに? なんか変なこと考えてんじゃないでしょうね」

「ぐぬぬ」


 ガドより背が高いとはいえ、吉乃の身長は人間の少女として平均的である。むしろガドが小柄なのだが、それを棚に上げてガドは上目遣いで吉乃を軽く睨みつけた。

 吉乃は肩をすくめてどこ吹く風だ。

 じっと見下ろされて、ガドは再びぐぬぬと唸った。

 元よりガドは口が上手い方でもない。

 そして眼力……というよりも可愛らしくも美しい吉乃から見下ろされて、ガドは驚くほどあっさりと指輪について説明を始めた。

 なにやってるんだろうと思いつつもガドの口は止まらない。


「それは服従の指輪。使用することで絶対の服従をもたらす」

「ふぅん、どうやって使うの?」

「ええっと、呪文を唱えて指輪の使用者となり、使用者が対象の身につけることで術が発動する……らしい」

「呪文って?」

「……【イアス・コド・ネモヌ・ク・ト・ノムジェ】」


 ふうん、と吉乃は頷くと、


「いあす・こど・ねもぬ・く・と・のむじぇ?」


 あっさりと指輪を見ながら呪文を繰り返した。

 ぱっと指輪が光る。


「あっ」

「お、」

「あ……あ……なんてことを!」

「これでアタシが使用者?」

「あーっ、俺の三ヶ月分の給料―っ!」

「うるっさ……わかってるわよ、返す返す」


 言って、吉乃はあろうことかぽいと指輪を口に放り込んだ。

 唖然とするガドを見下ろして、吉乃はにんまりと唇で弧を描く。


「なにを、」


 それ以上の言葉は続かなかった。

 ガドは大きな三白眼を見開く。

 目の前には過去最高に近いところに吉乃がいる。吉乃の長いまつ毛がガドにも触れるかと思うほどに近い。

 温かいなにかが唇に触れていると気付いて、ガドは、


 ごくり、


 なにかを飲み込んだ。

 吉乃の目が薄っすらと細められて、ちゅ、と音を立てて温かいなにかが離れていった。


「……あ?」


 なんだかふわふわとして熱を持つ頭でぼんやりと、顔を上げる吉乃を見た。

 きめ細かな頬が薄桃に上気して、若干伏せられたまつ毛の影が落ちているのが目に入る。

 身体の中心がじんわりと温かくなったことに気付いて、ふと、ガドは目を瞬いた。

 さっき、ガドは、なにを、飲み込んだ?


「……あれ?」

「んふふ」


 吉乃が目の前でべぇ、と舌を出して口内を見せる。そこにはなにもない。

 ガドは震えながらそっと自らの腹に手をやった。

 ……指輪、どこ行った?


「お、おまえ……」

「あはは、飲んじゃったねぇ、飲み込んじゃったねぇ。これで身に着けてるってことになるのかしら? ――ガド、喉乾いたからお茶淹れて」

「なっ……はい、すぐに!」


 言って、ガドの身体はすぐさまお茶を淹れるために動き出す。腹の辺りがじわじわと熱い。

 先ほど飲み込んだのはやはり指輪だったのだ――吉乃を使用者とした。

 ガドはさっと青ざめる。

 くるりと振り返って吉乃を見上げると、吉乃はにまりと嬉しそうに笑っていた。


「お、おま、おまえ……!」

「あは、確かアンタ、アタシとは違って食事も排泄もしない……んだっけ? ねぇ、指輪、どうなるんだろうね?」

「うがっ」


 確かにガドは人間と違って食事も排泄も必要ない。活動に必要なエネルギーとなるのはせいぜい近くにいる生物の感情から得られる生気や上位悪魔から貰う魔力などだ。これはガドのように下級悪魔ドゥム・ディアから中級悪魔になった者に多い。

 つまり、ガドが指輪を体内から出すには腹を掻っ捌くしかないということだ。

 吉乃の天使のように美しく甘い香りのする顔が、オーガの上司よりも恐ろしいなにかに見えた。

 指輪の使用者となった者を殺せば指輪の効力は切れる。だが。


「ねぇ、お茶。はーやーくー」

「わ、わかってる!」


 ガドはここ数日――具体的に言えば吉乃を攫ってきてから――充実する一方のキッチンへ走る。魔界でもそこそこのいい品である茶葉を用意しつつ、湯を沸かしながらそっと隣の部屋でくつろぐ吉乃を盗み見る。

 退屈そうにクッション(これも昨日買わされた)を抱きしめている横顔に外からの光が当たってまるで人界の宗教画とやらに見えた。

 まつ毛が長い。きめ細かな肌は白く、瞳は潤んでいるように煌いていて、手足のバランスも黄金比。

 ガドはこっそりとため息を吐いた。


(殺せるわけがない……)


 一目見て欲しくて欲しくてたまらなくなったのは生まれて初めてだった。

 無理をして、能力に見合わないのに人界から吉乃を攫ってきた。

 むしろ、下級悪魔だったのに中級悪魔になれるように必死に努力したのだ。

 今更手放せるわけがない。

 その感情の名を、ガドは知りもしないが。


「ねーぇー、まーだー?」

「今やってる!」


 ガドは首を振って沸いた湯をちょっとお高いカップに注ぐ(例によって吉乃の我が儘で買わされた)。

 横目でこっそりと見た吉乃は大人しく椅子に座っているがやはり退屈そうだ。人間はどうやって退屈を潰すのだろう。

 また調べることが増えたと思いながらガドは茶葉を手に取った。


「ねぇ、おーなーかーすーいーたー」

「昨日の菓子はどうした!?」

「もう食べた。あれ、お菓子なの? パッサパサでモッソモソで美味しくなかったわ。チーズケーキ食べたい」

「ちいずけえき? 人界の食べ物はわからん」

「ないの? ……じゃあ作ってよ」

「はい、すぐにでも! ――んあぁっ」

「うふふ」


 更に調べなければならないことが増えた。

 まずは淹れたお茶をこぼさないように慎重に運ぶ。ちいずけえきとやらはあとだ。

 お茶を吉乃の前にサーブすると、吉乃は一瞬だけ顔をしかめたが黙ってカップを手に取る。

 カップを傾ける様子をじっと見ながらガドは小さくほうと息を吐いた。


(あー、可愛い)


 結局、指輪の効果があろうとなかろうと、ガドは吉乃に勝てない。

 何故なら惚れた方が負けとはよく言ったもので。


「あ、色は変だけど美味しいわね」

「顔だけは可愛い」

「なに?」

「なんでもない!」


 ガドは最初からずっと負け続けているのだった。

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