羨望

あんちゅー

ただ憧れを。

これは彼の一生の話。


これは彼が生きた証。


これは彼の短い記憶。



そこには紛れもなく何も無い。


寂しい、悲しい、場所だった。


空は分厚い雲に覆われて、命の光は差し込まず、草木はその為生まれいでない。


水が涸れて久しい中で、どこからともなく雨が降ろうとも、干からびた地面はそれらを弾くのみであった。


乾いた地面は曝されて、風雨によって崩れていった。


底の見えない、割れた大地の隙間の奥に、この星の核心めいた部分が見え隠れしていた。


小さくて弱い、すぐにでも消えてしまいそうな微かな灯りがほんの少し、煌いていた。


生き物はいつ頃から生まれ無くなったのであろう。


その痕跡すら、とうの昔に掻き消えていた。


乾いた地面を覆う砂利が、吹きさすぶ風に攫われて、痕跡全てを覆い尽くした。


余りに膨大で孤独な時間が、跡形もなく全てを砕いていった。


残されたのはひとつたりとて存在しえず、遂には時間も忘れてしまった。


何も無い場所。


孤独な世界。


刻々とすら時を刻まぬ世界。


そんな生命など欠片も生み出されるはずのない場所で、それでも、彼は産まれたのだ。


初めは形すらなかった。


吹いた砂利が積もった先に、ほんの少しだけ作られた、偶然出来た空間に、何故だか意識が点っていた。


おかしな事があるものだと風雨は笑い、この温かさは久々だと砂粒達は思ったが、次の頃には気にも留めなくなった。


「どうせ曝され拐われ干からびて、いつの間にやら崩れていくさ」


しかし、それは運が良く、小さな空間で意識をそのまま保ち続けた。


初めはぼんやりとしていたようだ。


初めは微睡んでいたようだった。


けれどもゆっくりと輪郭が作られた。


新芽のようにして兼ね備えていた自我が芽吹き始めた。


産まれたての子供のような、霧のかった微かな意識は、かくあるべきと作り上がる。


それは見てくれ以上に、小さな小さな生き物だった。


数珠つなぎのように境目のわかる意識は、解けてじんわり砂粒に溶けた。


一粒一粒をいたわるように、大事に大事に溶けていった。


そして今度はそれらの自我が寄り集まって、ひとつの小さな塊になった。


一目見ても石ころのようにしか思えないそれは、確かに意志を持った塊で


彼は思った。


寒い。


苦しい。


生きたい。


それはまさに彼が持ち合わせている確かなる心であった。


この間およそ数万年。


それはゆっくりとゆっくりと生き物となっていった。


待ち望んだ小さな命が、まるで世界の願いを聞いて、産まれいでた小さな命。


砂粒は、風は、光は、世界の全てがそれのあまりの小ささに驚いて、手を差し伸べた。


皆が一様に興味を持って。


すると次には世界が変わった。


割れた地面は隙間をなくし、風雨は地面を湿らせて、豊かな土を育んだ。


水を含んだその土からは小さな草木が芽吹き始める。


厚く覆われた重たい雲は薄皮を剥くように軽くなり、その向こうから命の光が満ち始めていた。


それはまるで、唯一生まれた命に歓喜しているようだ。


星そのものが揺りかごになったかのように彼の存在を祝福したのであった。


何より驚いたのは、この世界の全てであった。


変わらないと思っていた、自分達では変えられないと思っていたものが。


変わったのだ。




彼はその体を作り替える。


ひとつ試行しては作り上げる。


手を足を、その体全てを。


目を耳を、その感覚全てを。


最後に胸に心臓を。


彼はこの世界で望まれるべくして生まれいでた、待望の命であった。


この世界ではあらゆるものが彼のものであったし、あらゆるものは彼の親のようであった。


草木はこぞって実り、彼は腹を満たした。


大地は窪地を作り、風雨は綺麗な水を運び、彼は喉を潤した。


命の光は全てを育て、彼の生きる糧を多く作りあげ、彼はそれらを全て平らげた。


彼は意図せぬうちに瞬く間に大きくなった。


まるで瞬きのひとつの間に。


世界の全ては何より喜んだ。彼の成長と、その成長の礎である事を。


世界はより一層美しくなった。


草木は彼に触れて貰おうと沢山の花を咲かし始めた。

風はその身で色々な匂いを運んだ。

光はいつまでも世界を照らし、その虹彩をより艶やかに映した。


それらは彼にただ、好かれようとした。


彼らの素晴らしい子供に。


彼は、しかし気が付いた。


草木や風や土や光と、いくら触れ合ったところで、彼にはいくらも満たされない想いがあった。


埋められない隙間があった。


彼は聞いた。


この隙間はどうやって埋めればいいのかと。


すると草木は答えた。


「私達はあなたがいればいい」


風や土は答えた。


「私達はあなた以外に何もいらない」


それなら光はと目を向けても、答えずただその輝きを増すのみであった。


空虚な心と満たされない気持ち。


彼には次第に、ほんの少しずつ、けれど確かな苦しいという感情が生まれていった。


あぁ、これが孤独なのだ。


彼はその苦しさがほんの少しでも紛れるように、大小様々な土の人形を作った。


幾つも幾つも、気が遠くなるほどの数を作り続けた。


それらはやがて意志を持ち、動き始めた。


まるで彼の心を分けて貰えているかのように。


獣が生まれた。

ただしそれらは何かを喰らわなければ長く生きることができず、また、言葉を持たない悲しい獣であった。



ある時彼は、自分が作った獣ではない生き物が世界の端の方に生まれたことを知った。


その端は彼が見覚えのない場所だった。


世界はどうやらじわりじわりと広がっているみたいだった。


そして、その世界の端で偶然生まれていた生き物を見てみたいと思った。


早速端まで足を伸ばして、彼は少しの間だけとそれらを眺めてみた。


それらは自分とは違って複数いることと、個体の一つ一つが直ぐに死んでしまうことを知った。


獣に簡単に食い殺されてしまう。


部品が壊れると死んでしまう。


自分で自分を殺してしまう。


産まれても直ぐに死んでしまう。


まるで死ぬために生まれてきたみたいだった。


でも、だからこそそれらは手を取り合い生きていた。


それらに自然は味方してくれない。


何もかもが敵であると言えるくらいこの世界はそれらに厳しかった。


自然や獣にその小さな命の束は何度も消されかけた。


いくつもの動かなくなったそれらを、寄り集まった仲間達は涙を流して囲み、大いに喚き、火にくべた。

そして、次の日には同じような日々を続けていた。


自分達で小さい個体を作って繁殖をする。


いつの間にかそれらが大きくなって、また小さな個体が生まれていた。


そんな生き方がどこか逞しく、健気であると感じた。


沢山が寄り集まった姿から、彼はそれを人と名付けた。


この先彼らはどうなるのだろう。


彼は何となく興奮を覚えた。


それはまるである種の実験のようなものであろうか、自身と関わりのないものの行く末が知りたくて仕方がなかったのだ。


この生き物たちが、人が行き着く先は、それらの群れの果てはどうなるのだろうか。


遂に彼は世界を分けた。


自分のいる場所と、それらの世界とを分け、出来るだけこの種が長く続くようにと、彼らに告げた。


そして、一つだけ大きな水鏡をおいた。


対角線に分かたれたその世界を映して見る為に。


自分たちを分けることになっても、全ては彼のために尽くしてくれた。


この世界は彼のためを想っていた。


だから彼の言うことならなんだってした。


それがこの世界自身を分かち、集約されていた意識が霧散することになったとしても。


次第に彼にとっての唯一の話し相手達は話をしなくなっていった。




水鏡を通してみる先では、あの生き物たちが大きな住処を生み出して、その中で暮らし始めた。


環境が変わったためか、それらはより数を多くして、同じような生き物が更に増えていた。


世界が味方をし、獣は弱いものに作り直した。


それらの中で動かなくなる個体が少なくなった。


そして、笑いの絶えない世界が作られていく。


彼はそれを眺め、どこか満足感を覚えた。


あの日、彼が感じた孤独感が消えていくように感じた。


けれど、反対に彼の周りの世界は死に絶えていた。


話しかけようとも返って来ない言葉。


資源はまた枯渇し始めた。


物を喰らわなければいけない獣達は死に絶えていった。


でも、それは仕方のない事だった。


世界を分けて、それらを生かすために。


単純な話、その生き物を生かすためには、初めに分けた世界だけでは足りなくなっていたから、彼の世界から染み出していく。


彼の世界は少しずつ色褪せていった。


世界はまた、苦しくて、寒くて、生きていけない世界になっていく。


彼はその時でも水鏡を通してあの生き物を見ていた。


彼らはその世界で笑いあった。


幼子を育み、手を取り合って作り上げ、愛し合いながら生きていた。


楽しかった。


その生き物は小さく弱く、けれど生きる為にならなんだってした。


それらを微笑ましく眺めていた。


眺めていたはずなのに。


今彼はどんな表情をしているだろうか?


嗚呼、彼の表情は曇ってしまっている。


重く黒い何かが湧き出てくる感覚がした。


彼の為にあった世界は彼に呼応するようにして、その空を曇らせた。


美しい草花はドロドロに熔け、地面は渇きひび割れた。


彼の心がそうであったように。


風はもう吹いていない。


雨は少しも降らない。


光は少しも差してこない。


最早あの頃の景色が返ってくる希望などないように思える。


孤独という名の羨望が全てを台無しにしてしまったのだ。


けれど、それで彼は終わらなかった。


いや、終われかったと言うべきかもしれない。


もしかすれば、終わってしまえた方が幸せだったかもしれないのに。


長い時間をかけて作られた彼には何もかもを思い通りにする力があった。


彼は死ねない。


孤独のまま生き続けていく。


だから彼は自分と同じ存在を作ろうとした。


人のように誰かと生きたいと思ったから。




人で言えば気の遠くなるような時間が過ぎた。


彼の世界には多くの生き物が作られた。


彼は知らないが、それは自分が生まれた過程に似ていた。


世界の全てが担った偶然を、彼は完全なる作為でもってして作り成した。


獣を作るよりも直接的でなく、かといって放置しておくのでもなく、彼の手でその過程を作り上げた。


初めは慣れないせいで上手くいかず、造形が多少醜いものもあったが、それは回を重ねるほど改善されていった。


今ではそれはもう、姿形で言えば多く彼の模倣のような存在が出来上がっていた。


王よ。


彼はいつの間にかそう呼ばれていた。


彼はこの世界を作りあげた王となった。


彼に作られたものたちはみな彼を慕った。


しかし、知らない。


彼の心は、彼の世界は、彼の持っていたものは、その昔、人により滅ぼされたこと。


そして現在の世界は彼の力を持ってして再構築を果たしたことを。


彼らは知らない。


あの頃からは見る影もない世界の景色ではあったけど、機能は遜色無いものであった。


彼の作った生き物達の生命はなんの問題もなく機能していた。

人たちに習って繁殖能力まで携えていた。


沢山の生き物が、いや、民たちがその世界に生きている。


孤独感はだいぶん紛れてきたみたいだ。


多忙に多忙を重ねて、それらを感じる時間がなかったのかもしれないけれど。


そんな中でも、時折水鏡を通して彼らを見るのが好きだった。


あの頃のような感情を思い出せるのでは無いかと、淡い希望を持っていた。


しかし、いつからだろう。


いつ見ても人々は殺しあっていた。

人同士で争いが絶えなくなった世界で、あの頃のような幸せな笑顔は久しく見ていない。


それでも、懸命に生きようとする彼らが愛おしかった。


彼らに教えてもらったことは多い。


この世界は王の力によって保たれている。


その中で存在する価値の多くは人のものを真似た。


彼の作ったもの達や、その子供たちはとても幸せそうである。


何不自由なく暮らせている。




争いの絶えなくなった人々の世界。


彼のものであった世界で、いつの間にか生まれ生きた彼らのことを。

世界を分けた彼にとってはまるで自分の子供のようであると感じていた。


子供が苦しむ姿を見るのは、見ていて心苦しいものだ。


水鏡を眺める度にそんなふうに思っていたが、ある時ふと思い立った。


彼らの多くが自分達で殺し合わないようにする為に。


その生き物はそもそも命の危機をもたらす敵に対して手を取りあったはずだ。


彼は思った。


自分自身が、それならば、人々の敵となればいい。


それであの頃のような幸せな表情を浮かべるのであれば。


彼はすぐさま手紙をしたためた。


いくつもあった人間達の国への宣戦布告を謳った手紙を。


人間たちはどれほど浮き足立っただろうか。


それとも現実味の無さから放っておいたのかもしれない。


彼にとって、それらを思い描くことが出来なかったことは、もしかすれば過ちだったのかもしれない。




彼らが攻め入った後、人の国のいくつかはとても呆気なく滅んでしまった。


彼自身が赴いていれば死人もなく滅ぶ国もなかったのかもしれない。


すんでのところで引くことが出来たのかもしれない。


彼にとっての大きな失敗は、自分の世界の生き物を信じすぎていた、そして人々を信じすぎたせいだろう。


彼の作ったものたちは思ったよりも染まりやすく、悪辣であったし、人は思った以上に弱い存在であったのだ。


気がついた頃には遅かったのは言うまでもない。


彼を慕った者たちは弱いものを嬲る楽しさを知り、人々はそんな彼らを悪魔や魔族と名付けた。


そして、彼らの王である彼を、あろうことか魔王と呼んだ。


自分達の礎を作った彼を敵だと判断したのだ。


あまりにも彼に対して酷い仕打ちであるはずだ。

彼はそこまでを望んではいなかった。


その証拠に彼は誰よりも涙を流した。


その誰にも償うことの出来ない罪を一身に背負う覚悟を決めた。


彼はそれで良いと思った。


それはあまりにも辛いこと。


しかし彼もいくつかの国を滅ぼしてしまったことは事実であり、それを思い出しては枯れるほどに慟哭した。


けれどそうまでしてでも、その罪を背負ったとしても、人が幸せに有れるように。


もし拭われた、雪がれたとしても、この感情は付きまとうものであろう。


だから絶望では無いのだ。


彼らが自分の分けた世界で幸せに生きてくれればいい。


斯くして、かの世界にも一時の平穏が訪れた。


彼はそれで満足であった。


しかし、彼の願いは虚しく、またすぐに人は争うようになった。


残念ながら、彼には申し訳ないが、人とはそう言う生き物である。




程なくして、やはりその世界は一定の争いから逃れられていない。


けれど、悪魔という存在への恐怖心から際限のないものではなく、その争いの妥協点を見つけるものが現れ始めた。


水鏡を通して彼は思う。


前進しているのだと。


今も胸の棘となりあの時の行いに涙を流す傍らで、彼は人々の感情の成熟を喜んだ。


しかし、そんな頃に神と名乗る存在が生まれていた。


それはまるで生き物でなく、けれど形をなすものである。


彼に言わせれば、なんとも未完成なもの、であった。


しかし、人々はそんな存在に何かを感じ、心身を捧げ始めた。

曰く、世界の果てにまでその信仰は充満していたと言う。


また、人々の一部は、長く自身を犠牲に祈りを捧げた。


彼らは食事も摂らず、睡眠もせず、生産的な行動など1つも行わず、自身の全てを祈りとして昇華しようとした。


すると、その中からより祈りの質の良いものにある兆候が現れる。


まずは体に血管が浮かび上がった。食事や睡眠を取らないため、それらは体が干からびているからだと皆が思ったが、それは違った。


次に、浮かび上がった血管が太くなり、それらが身体中を蛇のようにしてうねり始める。


やがて、全身の血が枯渇し、それらが肉体を束縛する。

そうして肉体の機能は人のそれとは違うものとなる。


最後には心が滲み出し、色をつけた。


その血と身体、心までが全て綯い交ぜとなり、天使という存在へと成り代わったのだ。


神へ忠誠とは、正しく心身の変質を伴った。


その身はなんとも気味悪く、幾何学模様の不可思議な生命であり、いや、生き物とすら呼べない得体の知れない何かであった。


神は彼らに説いた。


「悪魔を、魔王を、人々の安寧の上に生まれた悪意の塊よりいでた存在に終わりを告げましょう」


大層なことを宣う彼は、しかしその実確かな力を宿していた。


無から有を生み出し、世界の何もかもを思いのままであるかのように操った。


神は腕を広げ、天使はその傍らで人々への忠誠を口にさせる。


そして、それら超然的力に恍惚とし、人々は心酔する。


人々は想った。


目の前にある神こそが、自分達を苦しめる魔族を討ち滅ぼしてくれるであろうと。


彼に人々の真意は分からなかった。


ただ、彼から見れば、それは自然の力そのものであり、かつて彼が分けた世界の残滓でしかなかった。


とても、彼が遅れをとるような相手ではなかったのだ。



神が出現し、人にすれば多くの、しかし彼にとってはあっという間の時が過ぎた。


神は、その世界に出現した。


どうやら水鏡のような機能の存在を意図的に作りあげたのだろう。


それらはまるで濁った泥の渦のようなものから湧き始めた。


気味の悪い姿に悪魔達は気分が悪くなったという。


その中で異彩を放つ光を湛える存在が現れた時には、彼らはより吐き気を催した。


天使を伴って現れたそれは、まるで人のような姿であると認識しそうになる風貌で、しかし、その四肢は人の何倍もあり、胴体が半分で別れそれぞれが、常に一定の間隔で自立していた。


そしてその部分に大きな心臓の形をした眼球がついていた。


人としてあるべきところにあるべきものがなく、けれどどうしてだろうか人に見える。


それは人の世界で生まれた故であった。


しかし、残念ながらそれは既に虫の息であった。


元来行き来できるようなものでなく、その力は未熟にも程遠い。

神の力は彼の足元にも及ばない。


戦いや、そも聖戦と言うにはあまりにお粗末な戦いは、いざこざ程度のものであった。


神の散り際はこうだ。


「魔王よ。どうか、愛しい天使達は生かして欲しい」


彼はそれを滅ぼした後、約束通りに天使達のみを無事に返した。


それらが去ってから、その場で原型を留めていた神の遺体がボロボロと崩れ去った。


そこには死にかけに細い呼吸をする1人の少女が倒れていた。


初めから、引き換えにできる存在を連れてきていたのか、若しくは神の依代であるのか、それともただの食糧か。


今となってはそれが何であるかの真相は分からない。


ここで、漸く彼は人と真に触れ合うこととなる。


長く眺めるだけの存在であった人を前にして、その緊張はかつて感じたことの無いものであったことは、その様子を見れば誰が見ても明らかであった。


一方、送り返された天使たちのその後だが、それは至極取るに足らないものであった。


存在の掻き消えた神の教えを説くようにして、されどそこに思考性はなく、意思のみで動く醜い天使達は、まるで雲のようなものだった。


人々は神の残り香をそれらに感じ、いつまでも信仰し、それと引き換えに、一部は人間を優に超える力を得る。


それは指向性のない、意味の無い力だ。




彼は酷く悩んだが、結果としては彼女と共に暮らすことになった。


彼は倒れている彼女を見て、その死期を悟った。


長く見つめ続けた人々の営みを、その人生の短さを理解しているからこそ、虫の息である彼女が、そこから回復したところで、短い命であることを、彼は理解していた。


その場で楽にしてあげることも出来た。


どうせ長く生きることは出来ない命だ。


けれど、彼にその命を奪えということは誰にも出来ないだろう。


やはり彼は、人が大好きであるのだから。


彼は彼女の小さな体を抱きかかえ、出来るだけ人間の世界に環境の似ている場所に連れていった。


この世界は些かか弱い人々に劣悪で、この世界の住民も、あの日を境に心の醜悪さが増していたように感じたから。


彼は人が出来る限り暮らしやすい所、そして魔族が近寄らないような場所に家を建てた。


それはまだ人が笑いあって暮らしていた時に彼らが住んでいた、今では吹けば壊れそうなほど弱々しい建物であったが、この場所であればこの建物を吹くものもなかった。


彼はそこで彼女を何とか生きながらえさそうと思った。


まずは衰弱した体を癒すために栄養を与え、それから体が休まるような寝床に埋めた。


彼の手で作られたものでないそれを、彼はまじまじと見てため息をついた。


彼が手ずから作った物であれば簡単に治すことも出来るのに。


彼はその弱々しい彼女の体をまるで宝石のように扱った。


体の汚れを拭い、人の衣服に似せたものを着せてやった。


従者を誂え、それらに彼女の世話をするように言いつけた。


そして、甲斐甲斐しい看護から、彼女も直ぐに死んでしまうような状態からは脱したようであった。


平静とした様子でここまでを終え、彼はほっと一息をつく。


まだ目を覚まさない彼女だが、その呼吸は浅いものから深いものへと変わっていた。


そのあどけなさの残る顔立ちは、本当に少女と言って間違いのない年齢であろうことが分かった。


このようにしたところで、彼女の境遇がいかに同情をしても足りないようなものであったことはやはり揺るがない。


それでも彼は彼女にその生を充実し、笑顔に溢れるものであって欲しいと願った。


初めて触れる人の頬は柔らかく瑞々しい。

今にも壊れてしまいそうであるはずなのに、そこには魔界にない生命力を感じた。


あぁ、こんなにまで自分を生きている心地にさせる。


人とはまるで、ここまで愛するべき、愛することの出来るものであるのか。


と彼は思った。




彼女は直ぐに少女から大人の女性へと成長をした。


無論それはあくまでも彼の感覚であり、人の感覚であれば20年ほどの時が経っていた。


彼女は彼のことが大好きで、悪魔達ともまるで兄妹と触れ合うようですらあった。



この20年がそれこそ彼女にとって果てしなくも感じていたのかもしれないし、もしかすればあっという間の出来事であったのかもしれない。


どちらであるかは彼女にしか分からないが、少なくとも彼女が元の世界へ帰ることを望んだことは1度もなかった。


人の身で、この世界で暮らしていく。


気候や食事、生き物に住処、全てが近いようで遠く、それが弱い人にとっての幸せとは程遠いものであったろう。


しかし、幸いなことに彼女はあの世界で生きた記憶をあまり鮮明に持っていなかったから、思いの外こちらの世界に慣れるのが早かった。


むしろ、彼女に慣れるために彼やその他悪魔達が四苦八苦し、振り回された感じですらあった訳だ。


一部の悪魔は時折危険を犯して人間の世界に顔を出しては、彼ら自身の欲求を満たしている。


彼自身それらを羨ましいと思いはすれど、それらを制限するつもりもなかった。


彼は水鏡で彼らの様子を見ることが出来たし、彼らは何より面白いことを優先した生き方をしていた。


直接彼らを害する事など、有り得なかったからだ。


そんな彼らだから、彼女のことに関しても、振り回されながらも楽しく、その成長に寄り添ったのだ。


彼女の浮かべたその笑顔は、悪魔の皆が大好きで、その表情が彼には遥か昔に感じた愛おしさを思い出させた。


彼も悪魔も、人間の素晴らしさを噛み締めていたはずだ。


けれど、彼女達の生はあまりにも短く、とりわけ彼女のものは一層短かい。


分かっていたことだ。


長く生きることは出来ないだろう。


彼女がここに来て22年。


彼女は眠るように死んでいった。


過酷な環境において、生まれ落ちた世界ではないにも関わらず、それでも幸せそうな顔をしていた。


食べる物、眠る場所、見えるもの、香るもの、感じられる全てが、彼女は好きだと言っていた。


そこに虚言などなかったと、彼は信じている。


悪魔達は泣いた。


それは、彼らが本当に誰かを想う心を持っていたからだろう。


けれど、彼は泣かなかった。


分かっていた運命であったはずが、彼にとってはそれ以上に重くのしかかっていた。


彼女を生きながらえさせられるだけの力が、自分になかったことが。


彼女は死ぬ少し前から、彼との子供が欲しいと言っていた。


しかし、彼にとって彼女はどれだけ深く愛したとしても、自分の子供のような存在に他ならなかった。


けれど、それも彼女を失った後には後悔でしかなかった。


彼女の希望を、期待を、夢を、叶えてあげられなくて申し訳ない。


彼は彼女の血をほんの1滴だけ貰い、彼自身の血と混ぜた。


それはすぐに形を持って、彼との混血の子供が出来上がった。


それは彼女によく似た女の子。


産声を上げ、手足を少しばたつかせ、力の大きさに飲み込まれ、直ぐに消滅した。


燃え上がって消えていく、愛おしい彼女との子供の姿を見ながら、彼はようやく涙を流した。


自分の存在が人を苦しめることを。


愛は決して、人と彼を結んでくれるようなものでないことを。


それならば、このくだらない命は滅ぼすべきである。


彼は決意する。


自身の命を殺してくれる存在を作り上げることを。




それはまるで実験のようであった。


彼の血を媒体に、魔界にいる種の細胞を混合させて新しい生命を作る。


その度合いや組み合わせ方に順序、基本的な体を構成する要素の配合比も変えて、繰り返し試す。


彼はそれまで作ってきた生物の作り方とは違った方法での生命の確立と求めた。


彼自身の方法で作られたものは、彼を凌駕することがなかったからだ。


まるで果てしない試行回数に、形の成した成功例は片手で数えられるほど。


さらに、それらがひとつの命として安定することも極めて稀で、1年を生きることこそが奇跡であった。


形を持って息をすることが命あると仮定するなら、彼はその過程で幾つもの命を無駄にしたことだろう。


それはどんな言い訳を重ねようが、命への冒涜であった。


けれど、彼はそれでも命を作ることをやめなかった。


自分が死ぬためには、それしかないのだと言い聞かせながら。


彼は命を作り続けた。


彼はどんな気持ちだったのだろう。


そんな彼を見て、彼女はどう思ったのだろう。


彼を止められるとすれば、それは多分彼女の他にいなかったのだろう。


人に感化されてなのか、彼を魔王と崇め始める悪魔が増えていった。


悪魔達はすっかり優しさを失い、残虐な振る舞いが増えていった。


嗜虐的で加虐的な思考を持つものが、多くの悪魔達を虐げる。


果てしない命を持つ彼らは、そういったことを喜びとして、まるで負の感情を食い物にする化け物と成り下がっていた。


その世界は端的に見て、魔界と表現するに憚りのない世界となった。


それでも彼はやめなかった。


命を作り続けることを。


そして、幾つかの悪魔が産まれた。


その悪魔達一つ一つが、それら以外の悪魔とは一線を画する力を持っていた。その代わりにその身に余りある身勝手さを兼ねすぎていた。


悩んだすえに、彼はそのうちの一つを人の世に送り出した。


人の世に迎合し、人に染ってくれるなら、それでいい。


本心ではそう思いながら、まだあどけなさの残る小さな悪魔を送り出した。


それはかつて彼を滅ぼそうとした神の従僕達との混血の悪魔であった。




初めてそれらを見た時、彼は無性に嬉しくなった。

彼の周りには必要以上にものを言わない自然が寄り添うだけであったから。

それと同時に彼はとことなく寂しく思えた。


それらは手を取り助け合いながら、笑いあっていた。


彼はそれに憧れていたのだ。


だから少し生きやすくしてあげようとした。


もっと幸せそうな顔が見たかったからだ。


何の因果か、どのような結末か。


いくら望んでいても、手に入らないものはいくつもあった。


力を持っていても、決して思い通りにならないことは沢山あった。


それでも、彼と出会えた事を彼女は喜んでいた。


いつも満面の笑みをもって、彼を見た。


そして彼はそれを見て笑うのだ。


ようやく憧れは彼のものとなった。


朽ちる体も痛くはない。


思い残すことは何もない。


少し前のめりにゆっくりと歩いていく、自分の子供の背中を眺めながら。


彼は眠るように死んでいった。













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羨望 あんちゅー @hisack

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