Cut out

雨乃よるる

卒業

「なーんにも、」

 サクは言った。

 風が吹いた。彼の髪は逆立った。

 荒っぽい風だった。

 住宅は、無理矢理詰め込まれたみたいに小さく見える。夕日の色にたくさんの窓が染まる。

 鱗雲に、火がつく。

「なんて言ったの?、サク」

 わたしが訊き返すと、サクは地面から嬉しさが沸きあがってきたみたいに笑って、手でメガホンを作った。

「なーんにも!」

「うそだ!」

 わたしは泣いて、笑って、それが冗談じゃないことを知っていながら、泣き崩れてしゃがみこんだ。

 もう、彼は「見えない」のだ。

「見えないわけない! サクは、この世界で一番すごい人なんだもん」

 風が私の髪を攫っていきそう。私の頭を攫っていきそう。

 鱗雲の細かい隙間に首がはまって、取れなくなりそう。

「本当なんだよ!」

 彼は嬉しそうで、私は腹を立てた。腹を立てた分だけ、涙は目からこぼれた。力が抜けていった。

 午後五時半を知らせる物悲しいメロディが流れた。錆びた屋上の柵が、共鳴してもっと錆びた。

「今まで、ありがとう!」

 彼は叫ぶ。お別れのメロディは余韻を残す。その余韻もすぐに消える。

 わたしは走った。柵につかまる。鉄棒で前回りするみたいに体を大きく突き出して、ミニチュアみたいな街に向かって、喉をからした。

「なーんにもないよ!」

 いつもより高いトーンで、自分じゃないみたいにしゃべる。

「サクがいなかったら、なんにもないよ。サクの描く絵が好きだった。サクの歌う声が好きだった。サクの書く小説は最高だった。サクのギターで泣いた。サクがかっこよく踊る姿に惚れた」


「俺、音楽もダンスもやらないし、絵も小説も書かないよ」


「それでも好きだったの!」


「自由なんだよ、俺。これからは、ちゃんと普通に生きていける。もう見なくていいんだ。いらないものなんて」

 

「いらなくなんかないよ。私にとってはものすごく大事だった。でも、サクを通してしか見れなかった」


 わたしは、屋上の階段を降りた。家に帰る時間だったので家に帰った。寄り道はしなかった。家に帰ったら、お母さんが出迎えてくれた。夕食を食べた。毎日のルーティンをこなして寝た。明日は学校だ。七時には起きなければいけない。

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Cut out 雨乃よるる @yrrurainy

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