招かざる客
天文十八年八月――、清須城主にして尾張上四郡守護代・織田信友は、織田弾正忠家の力を削ぐべく、坂井大膳に弾正忠家の
その信秀の後を継ぐであろう信長は、清州城にも聞こえてくるほどのおおうつけ。
彼が当主となっても、弾正忠家の力が更に強くなるとは大膳には思えないが、大人しく傀儡となるとは大膳も思えない。
逆に末森城にいる信長の弟・信行は、温厚で真面目な反面、人の意見に流れやすい性格らしい。信友としては、彼を傀儡とするようだ。
信行に弾正忠家を継いでもらうためには、弾正忠家の家臣たちを味方せねばならない。 主家である大和守家の介入によって、家臣たちは信行を推してくれることだろう。
だがそう目論む信友自身も、大膳たちの傀儡なのだが。
大膳は
さらに大膳は守護代の代理というべき、
幸い末森城側は信行を弾正忠家次期当主と推しているようで、残るは那古野城の家臣たちである。
まずは信長が噂通りの男か見ておくべきと、大膳は
「尾張上四郡守護代・織田大和守さま家臣、坂井大膳と申す! 織田三郎信長どのに目通りをしたい」
◆
那古野城――、敵や動物などの侵入を防ぐための、
敵に対しての防衛は尾根を伝っての侵入を防ぐために尾根を断ち切った
夕刻――、夕焼けが空を茜に染め、
数人の小姓を引き連れ、遠乗りに出かけていた信長は、厩にて難しそうな平手政秀の顔に出迎えられた。
これはいつもの説教が始まるなと身構えていたが、政秀はなにも言わなかった。
「……爺のやつ、なにかあったのか?」
厩には、池田恒興もいた。
「昼間、清須城から守護代さまの家臣という方が来られました」
「嫌味でも言われたか」
「ええ、たっぷりと」
相変わらず、恒興の言葉は遠慮がない。
信長の噂は、守護代にも届いているだろう。
尾張には上四郡守護代の織田大和守家と、下四郡守護代・織田伊勢守家の二家がいるが、弾正忠家は大和守家の分家にして、補佐する立場の清須三奉行の一つである。
大和守家の確執は、父・織田信秀がまだ古渡城を居城としていた頃にはじまるという。
信秀は織田軍を率い美濃・稲葉山城を攻めていたという。だがそんな信秀の留守中、清須城勢は古渡城を攻めてきたらしい。
おかげで信秀は美濃攻めを中断せざるを得ず、守護代の軍と対峙したという。
この戦いの後、清須守護代とは和解したと信長は聞いている。
どうも今回は弾正忠家の後継者問題に口を挟んできたらしい。
弾正忠家嫡男に三奉行の一人として務まるか、守護代側が心配になったというのならいいが、恒興の話を聞くところ、彼らに弾正忠家を気遣うつもりはないらしい。
那古野城にやって来たのは又守護代・坂井大膳という男だったという。
この男と信長の代わりに対面し応対したのが、平手政秀と恒興だったようだ。
坂井大膳の視線は、なんとも不快なものだったらしい。
「我が殿は心配されておられる。信長どのを
「織田弾正忠家のお世継ぎは、信長さまにござる!」
「その信長どのは、目に余る放蕩三昧とか……?」
このとき坂井大膳という男は、嗤ったらしい。
信長としては事実だが、これに政秀が憤慨したという。
「坂井大膳どの、と言われたか。確かに織田大和守家は尾張下四郡の守護代にして、弾正忠家のご本家。なれど貴殿は臣下の身、口が過ぎよう。守護代さまに申されよ。弾正忠家の後継者は信長さまをおいて他におらぬ」
政秀の言葉に、坂井大膳の顔は引きつったという。
平手政秀は、信秀が信をおく重臣である。
天文十二年には信秀の名代として上洛し、朝廷に対し内裏の修理料を献上したという。
政秀の小言はうるさかったが、それも信長のため。
手を煩わせてばかりいる信長に背を向けることはせず、その信長を罵ってくる相手を諫める姿は家臣の
◆◆◆
「政秀の爺め、そんなことを言ったのか」
恒興から仔細を聞いた信長は、平手政秀の頼もしさに苦笑する。
「笑っている場合ではありませぬ! 平手さまのご苦労がわかっておいでなら、行状を改められませ」
思わず漏れた笑みに、恒興が口を尖らせた。
信長は政秀の想いを、わからぬわけではない。
ただ、まだ“その時”ではないのだ。
上段の間に座った信長は、坂井大膳が置いていったという黒漆の箱を手に取り蓋を開けた。なんでも、手土産らしい。
箱の中は、
信長が南蛮ものに興味があると聞いたのかわからないが、大和守家としては信長をどうしたいのか。
恒興が、話を続ける。
「ですが、大和守さまが家督相続問題に口を挟んで来られたとなりますと、信長さのまお立場はさらに悪くなりました」
恒興の懸念は、弾正忠家を継ぐには信長ではなく、末森城にいる信長の弟・信行になるかも知れないということらしい。
家督相続で弾正忠家家臣が二分していることは、信長も承知している。
ここまで拗れたのは信長の所為だと信長もわかっている。
「勝三郎――、俺は真の味方が欲しい」
信長の言葉に、恒興が瞠目する。
「真の味方……?」
「そうだ。この世は、裏切りに遭うことは珍しいことじゃない。敵の調略によって寝返る者がいれば、自身の決断で主を見限る者もいる。この那古野城でも、何人か俺に背を向けている者はいるだろう。俺は彼らを責めるつもりはないが、宛もしない。はたして何人俺の元に残るかわからんが、たとえ数名だろうとそれが真の味方だと思う」
「ですが、数名では戦もできませぬ」
「確かにな」
そうなったときは、信長に主としての器がないということだろう。
信長は弟・信行と争ってまで弾正忠家当主になろうとは思っていなかった。
信長に主の器がないのなら、信行が当主となれば家督相続問題は丸く収まる。だが、尾張に触手を伸ばす駿河の今川を迎え撃つとなると、信行では不安なことがある。
どうも信行は、幼い頃から人の意見に流されてしまう傾向があった。
家臣の意見を良く聞くといえば聞こえはいいが、その意見が正しいとは限らぬ。
信長が信行に注意をしてやってもいいが、末森城の人間の多くは信長が来ると露骨に眉を寄せる。
嫌われることに慣れたつもりだが、特に母・土田御前の厳しい態度には信長でさえ、心が折れ欠ける。
母と言っても信長に彼女の記憶はない。
生まれてすぐに乳母に託され、僅か八歳で那古野城主である。
母に甘えることもなく、愛情を注がれることもなく、それが嫡男として生まれたものの運命と諦めていた。
彼女はもう、信長のことは見限っているだろう。
だが信長はそれでも、現在の行状を改めるつもりはなかった。
俺は、真の味方とやりたいことがあった。
それは、今ではない。
信長はそう思うと、南蛮菓子の入った箱の蓋を閉じた。
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