三河からきた少年、松平竹千代

 年が改まり、天文十八年――。

 正月が明けて信長の元に、末森城の織田信秀から書状が届いた。これを開いた信長が眉を寄せ、「クソ親父」と呟いた。


如何いかがなされましたか? 信長さま」

 信長の将棋の相手をしていた恒興は、毒を吐く彼に眉を寄せた。

信秀と信長の父子関係は、はっきりいっていいのか悪いのか恒興には今ひとつわからない。

 なにしろ恒興が信長に仕えるようになったときは、信秀は既に末森城に移っており、彼が那古野城に来ることはなかった。

 もちろん信長について末森城に行った折に、信秀とは会っているが。

 その信長は、なんとも嫌そうな顔をしている。


「美濃との和睦の段取りが、進んだそうだ」

「それはよろしゅうございました」

 美濃(※現在の岐阜県南部)との和睦――、信秀の意向が那古野城に伝わったのは昨年の暮であった。

 美濃は、木曽川を挟んで尾張と隣接する国である。

 天文十三年九月二十三日、美濃・稲葉山城を目指して攻めた信長の父・信秀だったが、申の刻に一旦引き上げることにしたという。だが兵が半分ほど引いたところへ道三が攻撃してきたらしい。織田方は守備が整わず、五千人が討ち死にするという負け戦だったという。四年後、道三は織田家の城の一つ大垣城を攻めてきたという。


 信秀は援軍に向かったそうだが、思わぬことが尾張国内で起きたらしい。

 織田弾正忠家の本家であり守護代、織田大和家当主・信友が信秀の当時の居城である古渡城に攻めてきたという。


 尾張の虎といわれた信秀も、さすがお手上げだったのか、道三の和睦に踏み切ったようだ。しかし、信長が不快に思ったのはそのことではなかったようだ。


「美濃と戦をしようが和睦しようが父上の勝手だ。それはいい」

「いったい、末森城の大殿はなんと言ってこられたのでございますか?」

「俺に蝮の娘を娶れ――だそうだ」

 信長はそういって、眉間に皺を刻む。

「それはなんと申し上げていいのか……」


 婚礼も政の一部とされるのが戦国の世、当事者の意見などお構いなしに縁組みが決まる。

普通の婚礼ならば臣下として喜ぶべきなのだろうが、当の信長が全く喜んでいない。

 相手の顔も性格もわからぬまま、本人を素通りして縁組が決まるのだから無理はないが、相手が蝮と言われる斎藤道三の娘となると、さすがの信長もいつものように笑ってはいられないらしい。。


「あの父上を手こずらせた蝮の道三だ。素直に和睦に応じたと思うか?」

「なにか魂胆があると?」

「さぁな。俺の首でも取るんじゃないか」

「まさか……」


 信長の言葉は、あり得ない話ではなかった。

 主君といえど、家臣の裏切りに遭うのがこの世だと聞く。

 美濃は守護・土岐氏がいたが、道三によって美濃を追われたという。

 だが道三が信長の首を狙うとして、なんの徳があるのだろうか。

 そんな信長は、徐ろに腰を上げた。

「どちらへ?勝負はまだついていませんが」

 将棋の勝負はほぼ恒興に有利で、そこに信秀からの書状がきたため中断したのだが、どうやら信長は逃亡を図るつもりらしい。

万松寺まんしようじだ」

大殿おおとののお許しもなくそのような……っ」

 そう止めたものの、信長はもう広間から出ていた。


 万松寺は那古野城の南側にある、織田家の菩提寺である。

 問題は万松寺に行くことではなく、その寺にいる竹千代という少年である。

 正式名を、松平竹千代(のちの徳川家康)――、織田信秀がさる事情により人質とした三河国・岡崎城主、松平広忠まつだいらひろただの嫡男である。


                   ◆


 松平竹千代が生まれたのは、天文十一年だという。

 母は三河国・刈谷城主かりやじようしゆ水野忠政みずのただまさの娘で於大おだいである。

 当時の三河は尾張の脅威に晒され、松平広忠は駿河の今川義元を後ろ盾になんとか抵抗していたらしい。


 だが竹千代が産まれた翌年、祖父の水野忠政が死亡し、竹千代にとって叔父である水野信元は織田家と協力関係を結び、松平家の敵方になってしまったという。今川の手前、松平広忠は於大と離別。竹千代は母親と引き離されたのである。

 天文十六年、今川氏からの支援を受ける見返りとして、竹千代は今川家へ人質に出されることになった。しかしその途中、同行していた戸田康光らが突如として今川を裏切って織田方へ寝返ったため、竹千代は尾張の織田家の人質となった。

 戦国の世の習いとはいえ、生き延びるためには駒とされる弱小国の子である。

 三河国が存続するために今川につくか織田につくか、広忠は迷ったことだろう。もし両者に対抗できる力があれば、竹千代は母と別れることもなく、人質として三河から出されることはなかったかも知れない。


 万松寺の本堂にて、竹千代は万松寺の本尊・十一面観世音菩薩を拝んでいた。

 なんでも十一面観世音菩薩は十種類の現世での利益と四種類の来世での果報をもたらすと言われ、その深い慈悲により衆生から、一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされるという。 

不意に馬のいななきが聞こえ、目を閉じていた竹千代は振り返った。

 寺であるにも関わらずドタドタと響く足音が竹千代のいる本堂に近づき、そして止まった。


「――お前が三河・松平家の竹千代か?」

 障子が乱暴に開かれ、変わった身なりの男が声を張った。

 緋色の組み紐で髪を括り、緋と鬱金色うこんいろの小袖は膝丈までしかなく、それを片肌脱ぎにして、腰に瓢箪ひようたんをぶら下げている。

「何者だ!?」

 歳は竹千代より上、まだ十代だろう。

「この方は――……」

 男の隣にいたもう一人は小袖に肩衣と至って普通の身なりだが、何かを言いかけて男が制した。

「お前、川で泳いだことは?」

「え……」

 意表をつく言葉に、竹千代の警戒が緩む。

「どうなんだ?」

「わ、わからぬ。水に入ったことなどないゆえ……」

 三河には、豊川、矢作川、男川の三つの川があるが、竹千代は行ったことはない。

「なら来い。寺に籠もっていては躯が鈍る」

「でも私は――」

 そう言いかけて、竹千代の躯が浮いた。

 なんと竹千代は、男の肩に軽々と担がれていたのである。


「こら降ろせ! 無礼者!!」

 竹千代の抗議に、男の目が据わる。

「口だけは元気なガキだな?」

「お前だって子供ではないか!」

 竹千代は足をバタつかせたが、男は離さない。

 そんな騒ぎが聞こえたのか、万松寺住職が駆けつけてきた。


「何事じゃ!? ……っ、の、信長さま!?」

 住職の言葉に、竹千代は瞠目どうもくする。

 竹千代を人質とした織田信秀の第二子は、確か信長という名前ではなかったか。

「和尚、こいつを借りていくぞ」

「大殿のお許しがございましょうや。竹千代どのは大殿が――」

「別に逃がそうとしているわけじゃない。それに、こいつだってわかっているさ。逃げたら三河がどうなるかを」

 信長の肩に担がれた竹千代は、唇を噛み締めた。

 外に出たとしても、人質である立場は変わらない。自分が逃げれば三河は今川、織田双方から攻め落とされてしまうだろう。

人質の立場では何をされても文句など言えないのだが、馬の上でも竹千代は担がれたままだった。まさに賊が人を拐うが如く、竹千代は寺から連れ出されたのである。


                    ◆◆◆

 

 尾張・清須城――。

 尾張下四郡守護代おわりしもよんぐんしゆごだい・織田大和守家当主、織田信友の懸念は、織田弾正忠家がこれ以上大きくなることであった。

 そもそも弾正忠家は大和守家の分家にして、大和守家を支える清須三奉行の一つである。

 現在は守護代の大和守家だが、その弾正忠家の力は大きすぎた。このままでは、斯波氏しばしに代わる尾張の大名となる。

 そこまで考えて、信友は考えを改めた。

 信秀に万一のことがあれば、織田弾正忠家の当主となるのは信長である。

 しかし聞くところによれば、信長は自由奔放で城を抜け出すのは日常茶飯事で、信秀ほどの器ではないという。


「うつけは本物のようだな?大膳」

 上段の間にて、信友は嘲笑わらった。

「もはや弾正忠家など恐れるに足りませぬ。あの男は弾正忠家を潰しましょう。我らが手を出さずとも自滅してくれるのですから」

 そう言って、家臣・坂井大膳さかいだいぜんも嗤う。

 しかし信友としては、弾正忠家を潰すつもりはなかった。

 現在の尾張守護・斯波義統しばよしむねに、もう守護としての力はない。かつて対立したもう一人の守護代、織田伊勢守が気になるところだが、その斯波氏を押さえているのは大和守家である。


傀儡かいらいとする手もあろう?」

「信長を、でございますか?」

「いや……、弟のほうじゃ」

 弾正忠家の二番目の子、織田信行――。

 温厚と知られる信行ならば、大人しく傀儡になってくれるだろう。

 さらに、弾正忠家の力も弱まる。

 信友は三度嘲笑みたびわらった。


「だが、うつけであろうと奴は弾正忠家跡取り、信秀の意思が変わらねば、わしが押す信行は後は継げぬ。信行に傀儡となってもらうにはやはり、目障りよの? 信長は」

 

                   ◆


 木曽川――。

 木曽川は尾張、美濃、伊勢を隔てて流れ、伊勢湾に流れ込む大河である。

 わけが分からぬまま連れてこられた竹千代は、いきなり川に放り込まれた。

 まさか川で泳がされる羽目になるとは予想外で、何故この私が――と恨めしげに相手を見れば、竹千代を拐ってここに連れてきた信長も褌一枚で焚き火の前にいた。


「食え」

 信長が差し出してきたのは、よく肥えて脂がのっていそうな岩魚の串刺しである。

「あなたもいずれは、我が三河の敵となる」

「かも知れないな。だが俺は、父上とは違う。見ての通りの放蕩息子だからな」

 いずれ竹千代は元服し、戦場いくさばに立つだろう。そのとき彼が相まみえる敵の将はこの信長かも知れない。

「なぜ――」

「なぜ、こんなことをしているのかって?俺は時を待っているのさ」

「時……?」

 信長は、それ以上は語ることはなかった。

 はたして信長がいう時とはなんなのか、このときの竹千代にはわからなかった。

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