異世界に舞い降りた俺

 また知らない場所に舞い降りた。さっきまでとは別の場所だ。右の手のひらを見ると穴が開いている。骨や肉はなく、ただ暗い空間につながっているように見えた。指を入れてみるとどこまでも入っていきそうだった。後頭部をなでるが、特に怪我はしていないようだ。


 息が上手く吸えない。空気が粘度を持って体にまとわりついてくる。顔を上げると、水中をもがくようにして裸の大男がこちらに向かってくるところだった。筋肉質な体は緑色の鱗に覆われていて、唇はなく、歯と歯茎が露出している。充血した目は見開かれていて、血が噴き出しているのが見える。口を大きく開けている。


 大男の叫び声は他の者たちの叫び声でかき消されていく。大男の背後には黒いもやがかかっていた。それが少しずつ大男に近づいていき、やがて全身を包み込んだ。俺の目の前で男は嘔吐しながら倒れ、何度か体をくねらせたあと動かなくなった。


 大男を見下ろすと、鱗は刺青らしかった。灰色がかった肌に鱗模様が刻まれているが、縁取りの部分はケロイドになっている。周りを見渡すと、同じ姿の大男たちが次々と倒れていた。みなもやに包まれ嘔吐し悶えながら、少しずつ動きが鈍くなっていき、やがて動かなくなった。


 呼吸が楽になっていた。それぞれが同じ地点からばらばらに走り出したのだろうか、倒れた大男たちでいびつな円ができている。その中心には倒れている数人の裸の女たちと、踊っている女がいた。黒いもやは大男の体を離れ女のもとに集まり始めている。


 集まったもやは小規模な竜巻のようになり女の周りを回り始める。少しずつ小さくなっていき、しばらくすると見えなくなった。


 10メートルほど先で踊っている女は、片足を上げ、軸足でバランスをとりながら軽やかに回転している。かと思えば、優雅に腕を伸ばしながら小走りで見えない恋人のもとに駆け寄るようなしぐさをして微笑む。恋人に抱き寄せられた女はうっとりと目を閉じて相手の腰に腕を回す。1人分の空間を抱きかかえながらまた女はステップを踏み始めた。地面に打ち捨てられている女や大男の体はその女に踏みにじられ、泥と血で汚れていく。 

 

 もう叫び声はない。女は歌をうたっている。


「汚ねえ声だな・・・耳に糞ぶち込まれた方がマシじゃねえか?」


 あまりのドブ声に思わず声が漏れた。女が俺の方を見る。顔は水ぶくれで覆われ、破裂し膿が飛び散っている。髪はまだらに抜け落ちところどころ頭皮が見えている。服は何年洗わなければあんな色になるのだろうか。胸は非常に大きい。


「あら、どうしたのかしら?だあれ、あなた?」


 女がこちらに歩いてくる。首をかしげながら人差し指を唇にあてる。


「あっ・・・い、いや・・・」


 喉が締め付けられる。まだ女は何か言っているようだったが、心臓の音で耳鳴りがして聞き取れない。後ずさりするが、女は徐々に歩く速度を上げている。もう手が届くところまで来るが、足が泥と血でぬかるんだ地面に取られてうまく動かせない。


「どうして死なないの?私が嫌いじゃないの?」


 女が歩くたびに鼻を叩かれたような感覚が襲ってくる。見えない速度で石でもぶつけられたのかと思ったが、原因は女の発する異常な臭気のようだった。服なのか体臭なのか、とにかく異様な臭いだ。胸が大きく臭い女に欲情する傾向にある俺だから、恐怖と性欲がないまぜになって気が狂いそうになる。


「見慣れない服、見慣れない顔。あなた東側?それとも西側?なんか大きさが中途半端よね。私を殺したい?でもそれは無理なの。あなたは死ぬから」


「あっ、マジ?死ぬの俺?」


 血の気が引く。足が震えているのがわかる。やはり大男たちはこの女が殺したのだろうか。


 あの黒いもやで?


 女は手で顔を覆いながら立ち止まり、こちらに背を向けた。


「ねえ!馬乗りになって私の首を絞めて?顔を殴りつけて?鼻も、歯も、全部へし折って?目もえぐりだしてぽっかり空いた穴に唾を吐きかけて?男の人だったら私を地面に引きずり倒すことくらいわけないわ。あなたの指先が私の首に食い込み始めて、血を吐きながら私は絶望しながら濡れるの。びしょびしょにね。死んじゃうんだわ、私。なんてかわいそうなのっ!でも、顔が真っ赤になって脳みそに酸素がいきわたらなくなってきたころ、あなたはきっと私の顔にゲロをぶっかけて息絶えるわ。ちょっと素敵じゃない?だって・・・」


 女が気色悪いことをまくしたてている間に、こちらも背を向けて走り出したい衝動に駆られる。それとも、女が提案してくれた通り張り倒して一撃加えた後逃げようか。自慢じゃないが身長180cm体重90㎏、柔道初段の俺である。根拠はないが右フックにも自信がある。大男が死んでいるのは気になるが、このキチガイをぶん殴って逃走することくらいはできるのではないだろうか。


「よっしゃ、このゲロブスが!お望み通り・・・げはあっ!?」


 女の方に拳を振り上げながら一歩踏み出した瞬間、吐血した。頭が破裂したように痛み出す。空気がまた粘度を持ち始めた。膝から崩れ落ちる。必死に息を吸うが、肺が握りつぶされたようで言うことをきかない。ぽたぽたと地面に血が滴っている。きっと俺も目から血を流しているのだろう。


 女の口から黒いもやが流れ出している。


 もやの中におびただしい数の顔が見えた。どれも苦悶の表情を浮かべなにかを訴えかけるように口を開けている。しかし、声にならないままもやの中に引きずり込まれて消えていく。


「うふふ。殺そうとしたのね?私はたくさん殺したものね。そうよね?どう、苦しい?でもそれはあなたたちが私に与えようとしたもの。あなたの分身。鏡に映ったあなた」


 女は倒れてあえいでいる俺の横に膝をつき、こちらを見下ろしている。


「あなたたちが大切にしてたものは全部燃やしちゃった!もうなーんにも残ってないの。だからあなたたちが私たちをぐちゃぐちゃにしてしまいたい気持ちはよくわかるわ。でもでもでもっ!」


「ごめんなさい・・・」


「え?」


「うそうそ・・・殴ろうとしたのキャンセル・・・」


「・・・え?」


「だからこの呪いみたいなのいったんやめて・・・」


「ええ・・・」


 意識が朦朧としてきた。どうやら嘔吐しながら失禁しているようだ。もはや感覚はほとんどなくなっている。女は顔をしかめながら爪をかんでいる。はやく呪うのをやめろと訴えたかったが、吐しゃ物しか口からは出てこなかった。


(この融通のきかない馬鹿女に俺は呪い殺されるのか・・・)


 俺は、死ぬのであればという痛切な思いで手を伸ばし、女の胸を揉んだ。


 女が小さく悲鳴をあげ、もやは消えた。

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