蓼食う虫をもういっぴき

古都瀬しゅう

第1話 離婚できると思ったら

 とうとう浮気中の夫の姿を目に入れた。何がショックって、夫、まさるの人目を気にしない、だらしない姿が、私の前にいる時と全く同じことだ。

 ぶしょうひげに、脱いでほっといたのをそのまま着たらしい皺だらけのワイシャツ、汚れた眼鏡。そして寝ぐせ。

 いつもより身ぎれいなら、私の前でだけ隙を見せていたのだと思うし、もっとだらしないなら、私よりはどうでもいい相手なんだと思えるだろう。


 でも、まったく同じ。


 つまり、妻である私も浮気相手と全く同列。それって下ってことと同じじゃない?


 夫は女と、東京都のはずれにある三ツ星ホテルから一緒に出て、別れるところだ。一晩明かしたのは、夫の鞄にしこんだGPSで確認済み。私はホテルの斜め前にある銀行のエントランスに隠れて、証拠を残すべく携帯でビデオを撮影している。


 女は清楚な美人だ。昨日は大学を訪問したらしいから、研究の関係者かもしれない。別れ際、まさるに軽くキスしてくれた。これで仕事仲間と同じホテルの別の部屋に泊っただけという言い逃れもできない。

 ただ、キスされた宙は銅像がごとくされるがままで、口元をひきつらせたのみ。その反応は私が結婚当初、いってらっしゃいのキスをした時と同じだった。あれ以来、一度もしていないけど。


 今、あいつの頭の中は、研究中の『某プラズマ』のことで一杯で、目の前の女のことなんて考えていないのかもしれない。私といる時もそうなのだ。少なくとも、浮気の罪悪感なんてみじんも覚えていないだろう。


 もういい!このビデオをつきつけて、離婚届に判を押してもらうから!


 携帯を握りしめた時。

 自分の体がとなりに見えた。

 合わせ鏡にうつった自分をへんな角度から見ているみたいに。



 ひどいめまいのようなものに襲われて、目を閉じた数秒ののち、私は巨大な横長のソファに座り、不思議なインテリアのある広い部屋にいた。

「えっ!ええっ?」

 自分を見おろすと、履いていたGパンが白いスパッツに変わっている。上半身は丈の長いコートみたいなものを着ている。そして目の前に、同じような衣装に身を包んだ細身で背の高い、若い男が立っていた。


「ようこそ。サクラ・エミさん」

 男がほほえんだ。何事をも達観したような穏やかな顔。肩にかかる長い黒髪がキザに見えずに似合う姿は、浮世離れしている。


「わたし、死んだの!?車がつっこんできたとか?銀行強盗の流れ弾?もしかして心臓発作?あいつのせいでストレス絶大だったのが原因?」

 頭をかかえてしまった。そう、私の名は佐倉枝見さくらえみ。これから門野かどの枝見に戻すつもりだった。

「もう少しであいつと離婚できていたのに。あっ!」

 私はがばっと顔を上げた。

「佐倉枝見のままってことは佐倉家の墓に入るってことよね?あいつが死んだら同じ墓に入ってくる。それまでに何人の女と寝てくるわけ?」


 墓のことなんて考えたこともなかったけれど、いざとなると腹立たしいやら絶望するやら。夫が他の女と寝ていることは知っていたのに、なぜもっと早く決断しなかったのだろう。少なくとも死ぬ前に。


「いえ。死んでいません。私がこの世界に呼び出しただけなのです。あなたに手伝っていただきたいことがございまして」


 長髪男が隣に座ってこちらに身を乗り出した。

「は?」

 つい見つめてしまった。てっきり天国の案内人かと思ったが、毛穴もあるし、髭の剃り跡もあるし、リアルといえばリアルである。

「あなたの夫を落とせる女性を探すのを手伝っていただきたいのです」

「は?夫って、まさるのこと?」

「はい。こちらの世界の」


 長髪男は立ち上がり、不思議な形に指を作ってひるがえすと、空中に3D映像が現れた。向こう側の壁が透けている。


 映像の中で、むさくるしい男が奇妙な機械をいじっていた。服装は特殊だけれどボロくて汚れている。なんと夫の宙にうりふたつだ。


「こちらの世界のサクラ・マサルは、我が国の皇位を継ぐ皇太子です。しかし奇妙な研究に明け暮れ、一向に世継ぎを作る気が無い。そちらの世界における彼の妻として、皇子おうじの気を惹ける女性をこの世界で見つけていただきたいのです」

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