第3話
「綺麗……」
隣から聞こえた声に魅了され、俺は顔を向けた。
紺色を基調とした白い花柄の浴衣を着た彼女は、紺碧の瞳を灯して夜空に浮かぶ花火を必死に眺めていた。短く揃えられた茶髪に赤色の造花が添えられている。
俺の中にいるカノジョのイマジナリーだろうか。それにしては駅で見た時とは印象が少し違う。あの時は長い黒髪をしていた。それに背も高くなっている。子供じみた顔は少しながらも大人の雰囲気を醸し出している。
手を伸ばし、そっとカノジョの肩に添えようとした。いつもなら、実体のないカノジョに触れようとすると空を切るようにすり抜けていく。だが、今回はカノジョの体を感じ取ることができた。暖かい体温が俺の手から脳に伝わってきた。
「えっと……あの……」
隣にいたカノジョは困ったような表情で俺を見た。
そこでハッと我に帰る。全然知らない女性の肩を何気なく触ってしまったのだ。下手をすればセクハラと感じられても仕方のない行為だ。
「あっと、すみません。ちょっとバランスを崩しそうになってしまって……」
どう弁解しようか考えた末、嘘をついてしまった。
「ああ、そうだったんですね」
彼女は愛想笑いを浮かべると再び花火へと目を凝らした。
やり過ごせたことに安堵しながらも俺も花火を見る。夜空に打ちあがる花火はとても綺麗だった。これなら必死に目を向けてしまうのも無理はない。
赤、青、緑、黄色。大きく花開くものもあれば、小さな花がいくつか開くものもある。
奏でられる花火の大きな音。遠くから聞こえる「たまやー」や「かぎやー」という叫び声。普段なら鬱陶しく感じるだろうが、今このタイミングだけはとても心地がいい。
花火を見ていると時間が過ぎるのはあっという間で、気づけば最後の連発になっていた。夜空を一瞬彩る花火。それらが連なることによって、まるでアニメーションのように時間的な動きをもたらしてくれる。
最後に打ち上げられた幾多の花火は視界全体を覆い尽くし、都内全体に音を轟かせていった。全ての玉が打ち上げられ、会場から拍手が流れる。数万人の人々が奏でる拍手の音も花火に劣ることなく大きかった。
花火が終了し、皆が動き始める。
俺は隣にいた浴衣姿の彼女に目をやった。彼女はスマホで誰かと通話しているようだ。足元を見ると片方は素足の状態で、それをもう片方の足の上に乗せていた。
通話を終えると一人でため息をつく。
素足を地面にゆっくりと下ろすが、再び片方の足の上に乗せた。きっと路上の熱に触れてみたものの、熱さのあまり引っ込めたのだろう。どうしたものかと困った様子を見せる。
「あの……よければ駅まで手をお貸ししましょうか?」
いてもたってもいられず彼女へと声をかける。
彼女は俺の方へと顔を向けると露骨に嫌な顔をした。さっきことがあった手前、邪な考えで声をかけられたと思ったのだろう。
「えっと……靴が片方なくて困っているようだったので、お手伝いできないかなと思いまして……」
手を後頭部に置きながら照れ臭く理由を話す。彼女の表情は一層険しくなる。理由を話して説得力を持たせようとしたが、逆効果だったみたいだ。
彼女は一度後ろから流れてくる人の群れに視線を注ぐ。それから先ほどの表情とは打って変わって懇願するような表情を浮かべた。
「すみません、お願いしてもいいですか?」
俺は彼女の返答に呆気にとられる。まさか了承してもらえるとは思わなかった。
「わかりました」と言って体を後ろに向ける。だが、彼女はしばらくしても乗ってこなかった。まだ疑われているのだろうか。
後ろに顔を向けようとすると背中に圧がかかる。思わずバランスを崩しそうになったが、何とか堪えた。そのまま体を起こし、彼女をおんぶする。浴衣のため足を持つ位置が低く、重く感じる。ただ、本人の体重が軽いからかあまり苦にはならなかった。
「靴、探しますか?」
「いえ、そのまま駅の方に行ってください」
「了解です」
彼女の指示に従い、流れる人混みに合わさるようにゆっくりと歩いていった。
****
落ちないようにと、彼の身体にしっかり捕まりながら私たちは駅の方へと進んでいく。
彼からの提案を承諾してから私の心は終始穏やかではなかった。見ず知らずの男性におんぶしてもらうことに羞恥心を感じてしまっていた。下心とか抱かれていないかなとか、重いと思われていないかなとか、不安が頭を駆け回る。
仕方がないじゃないか。できれば断りたかった。でも、自分の力では駅に向かうことはできないし、道路の熱が覚めるのを待っていたらいつ帰れるか分からない。だから目の前にいる彼に頼るしかなかった。
浴衣で来なければ良かったなんて一ミリたりとも思わないけど、せめてサンダルはもう少し頑丈なものを買っておいた方が良かったと後悔した。
時間の流れは全てを解決する。しばらく彼の背中で休んでいると心が落ち着いてきた。
そういえば、この光景には何だか既視感があった。前にもこんなことがあったっけ。いつだったろう。夏の思い出だからきっと思い出せない。
でも、何だか彼の背中にくっついていると心が暖かくなった。
無意識のうちに顔を彼の肩に乗っけてしまっていた。私の肩に勝手に手を乗せたのだからこれでおあいこだ。
彼の汗の匂いは悪い匂いではなかった。きっと良い柔軟剤を使っているからだろう。
そういえば、なぜ彼は私の肩に手を乗せたのだろう。あの時の彼の表情は何か言いたげだった。最終的に言った言葉はバレバレの嘘。バランスを崩したために乗っけたにしては優し過ぎる。だからこそ、なんて言いたかったのかすごく気になった。
彼の足取りはゆっくりとしていて乗り心地が良かった。
男性特有の筋肉質で硬い背中。心に浸透するほどの暖かい体温。私に手を添えた時の表情。それらの点が結びつけられ、徐々に線になっていった。
記憶が疼く。
思い出した。初めて浴衣を着た時、確か小学五年生だったか。その時も同じように誰かにおんぶしてもらったんだ。履き慣れない下駄を履いて足を痛めたんだっけ。
「アキくん?」
気づけば私は彼の耳元でそう囁いていた。
彼は私の言葉で不意に立ち止まる。彼の身体から伝わる心臓の音は早くなっていた。そこから彼が動揺しているのがわかる。
そして、それは私も同じ。彼の名前を読んだ瞬間にカチッと音を立てて、保管庫の鍵が解錠されたのだ。
「何で俺の名前を知ってるの?」
彼は緊張したように震えた声で私に問いかける。
私は彼の心臓音に耳を傾けながら、ゆっくりと保管庫の扉を開けた。
「ずっと探してた」
頬を伝う雫が汗なのか、涙なのか私には分からなかった。
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