第94話


 スラムの中で、犯罪を犯さずに生きていくことは不可能だ。

 奪わなければ、奪われる……良くも悪くもそういう世界だったからだ。

 殺しはしたことがなかったが、盗むことは俺の日常の一部になっていた。


「ん……あれは……」


 いつものように間抜けなやつから食料を盗み、ねぐらへ戻っていたある日のこと、俺はスラムに入ってきた女性に目を奪われた。


 垢や煤で汚れていない綺麗な顔だった。

 青い瞳に、見たことがないほどにつややかな金の髪。

 耳がわずかに尖っていたが、俺は彼女がエルフであることすら知らなかった。


 ただ教わらなくても、外の世界にいる人間はスラム育ちの自分とはまるで別物なのだということはわかっていた。

 外の人間には手を出すな。それはスラムの人間達が持つ共通認識だったからだ。


 だが生き馬の目を抜くような世界で生きてきたと思えないほど間抜けなことに、俺はその時彼女のことをじっと見つめてしまっていた。

 当然ながら彼女はこちらの存在に気付く。


 気付けば彼女は目の前にやってきていた。

 一瞬の早業だ。彼女に適わないことは一瞬でわかった。


 強い者が奪い、弱い者は奪われる。

 今この場で奪われるのは俺なのだ。


 身構える俺にやってきたのは、一瞬の浮遊感。

 見れば彼女の手には、俺が腰に提げていたポーチが握られていた。

 中には採取したばかりのロキアが大量に詰められている。


「これは……ロキアか。こんなもの、何に使うのさ?」


「食べるため……です」


「……食べる? ロキアを? 口の中開けて。ほら、あーんしてあーん」


 おとなしく口を開く。

 自分で見たことがないからわからなかったが、長いことロキアを食べ続けた俺の口腔はそれはひどいことになっていたのだろう。


 彼女――メルレイア師匠はそれを見て顔をしかめるのではなく、キラリと好奇心でその瞳を輝かせた。

 彼女にとって、この世の全てが興味の対象だ。


「ロキアを経口摂取……いや、ロキアって気付け薬の中でも劇薬の類いだよ? そもそも辛すぎてまともに食べたら早々に味覚がイカれて精神にも異常を来すはずなんだけど……慣れでなんとかなるものなの? 魔力持ちであることが関係している? 普通に考えれば消化器系に甚大なダメージがかかっているだろうし……文字通り命を削らなくちゃできない所業だ。――ねぇ、君はどうしてロキアを食べ続けるの?」


 難しいことをブツブツと言われても、当時の俺には良くわからなかった。

 だが彼女の問いに答えるのは、それほど難しくはなかった。


「――生きるため。寒さをしのぐためには、これしかなかったから」


「……なるほどね」


 どうやら俺の答えは彼女のお気に召したらしい。

 師匠はニコリと笑う。

 その笑みは獲物を見つけた、捕食者のそれだった。


「素晴らしい……素晴らしい生き汚さだ! ――高潔な魔術師よりもよほど美しい!」


 師匠がパチリと指を鳴らすと、俺の全身を光が包み込む。

 次の瞬間には、先ほどまで俺が感じていた喉のイガイガや口腔の痛みが、一瞬のうちに消えていた。


「魔法……」


「私、魔術師だからね。といっても、里を追い出された邪道の魔術師さ。今回スラムに来たのも、降霊術用の覚醒剤を買いに来たからだし」


 魔法みたい、という表現はディスグラドにもある。

 俺の痛みを一瞬のうちに取り除いてくれた師匠は、俺にとってあまりにも遠く、どこか別世界から来た魔法使いだった。


「一緒に来るかい?」


「――お願いします」


 こうして俺は、師匠の弟子になった。

 これが俺の心にある、原風景。

 俺という人間が形作られた、全ての始まりの一幕――。







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