竜奇譚

小松加籟

竜奇譚

前篇

第一話 竜

 人魚の歌姫が薄暮れのような海の底で、歌をうたっていました。相川智記は、其海底の片隅で、突如として、呼吸が苦しくなり、水面を見上げました。

 それから、智記は、海の水面に向き、脚をバタつかせ、泳いで行きました。

 智記は二階建ての一軒家の自室で、ソファの上で「不毛」という名の、毛布に包まっていました。

 室の裡の全てが海の生き物のように、宙に浮いて、ゆらりと泳いでいました。ソファや文机や本棚は脚がガタ附き、本が紙でできた蝶みたいにひらひらと泳ぎ、飲料の空き缶が出来の悪いロケットみたいに泳ぎ、その外の物も、宛もなく、生きているみたいに泳いでいました。

 そのうち、智記の目前を蒼い小さな筒状のリップクリームがすーっと泳いで行きました。                          

 智記はそれを無造作に摑み、すっとリップクリームをくちびるに塗りました。室の裡に、音楽が、流れていました。睡っているあいだに、意識的・無意識的に夢の中ですら、その音楽の変奏が聴こえていたのかも知れません。

 脳裡に、電撃的に、閃きました。

 「助けに行かなきゃ……」

と智記は、独り言をいいました。

 窓の外で、篠突く雨が、ヒステリックに、熄むことを知らぬかのような、硝子窓を敲く魔性めいた泣き濡れた声を、轟かせました。

 夜の獣物が叫喚を上げるかのような雨音のなかで、智記は、傘を差して、歩きました。

 アパートの一室のとびらの前で、智記は、立ちどまりました。

 デバイスを取りだし、叡田飛燕の名前が、表示される液晶画面を凝っと、数秒見詰めたのち思い切って電話した。

 幾度かのコール音ののち機械的に、留守録に切り換わりました。

 居ないの? 智記は、そうおもいました。

 不安が智記を捉えた。智記は、そっと扉の把手を摑みました。それは、魔術の研究者の禁断のとびらめいて、冷たく、ひんやりと、していました。

 智記は、とびらをひらきました。そっと。とびらの向う側では、床に敷かれた絨毯が、血溜りに濡れていました。

 魔力の源である穢れた血が、点々と、絨毯に黒い染みを、作りつつありました。而も、机上には、遺言書めいた紙が遺言書めいた紙が、血に濡れた、一葉の写真と共にありました。ルンバが、床の血溜りを一生懸命掃除しています……

 「此世と彼世とは薄紙一と重の異いも存在し得ない」

 智記が、ソファの上の縫いぐるみから眼を背けると、友だちの母親の屍体らしき肉体が床に転がっていました。

 すると、智記は慄える掌でデバイスを取り警察に通報しました。

 「警察です。事件ですか? 事故ですか」

 智記が訥々と事件ですと云ったら、警察は、一笑に付し、一方的に通話を断った。

 警察に対する不信感が、智記の心底に沸々と楼閣の蜃気楼的再現という、無情な孤独感を形成しつつあった。

 


 


 


 

 

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竜奇譚 小松加籟 @tanpopo79

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